サリミロに帰ったら、本部に報告書を提出しなきゃならないらしい。これも業務の一環なんだそうで。
そう言えば、ケイディシア支部に厄介になっていた時、フリッツもそんな事言ってたっけ……。
詳細は帰ってから纏める事として、必要な資料くらいは補助脳に放り込んでおくかと思い立ち、晩飯の後に、食堂で湯を貰って濃い目の珈琲を淹れると、親方から借りた地図だの貴族名鑑だのを抱えて自室に篭った。
どの資料も、凄い量の書き込みで埋められていた。山ほど付いた付箋には、そっと開かないと崩壊しちまいそうな程古い物もある。これら全てがここの支部の歴史って訳だ。
特に貴族名鑑は興味深かった。血脈を辿れば、殆どの家が王族の傍流に辿り着く。配偶者に神族を迎えている家も少なくない。道理で巫女さんになる御令嬢が多い筈だ。
神章が現れればしめたもの。首尾よく宮廷に参内ともなれば、止ん事なき方々とも御近付きになれるってところか。
男子は男子で、剣の腕を磨いて神聖騎士団へ出仕ってのが名誉であり、出世の近道らしい。でもって、年季が明けたときに、神族の嫁さんでも連れて凱旋すれば、御家も安泰って寸法だな。
イスカが噂通りにディフォレ伯爵家のアレハンドラ嬢であれば、こちらもご多分に漏れず三代前の奥方が神族らしい。
神章もそうだが、あの美貌もまた神族由来のものか。とすると、同じく巫女だったベルも、遡ればどこかに神族の血が入ってるに違いない。
女神の血族か……。あの凛とした美貌と涼やかな微笑、そして透き通る柔肌の感触を思い浮かべた時、ふと響いたノックの音に応えると、開いた扉から現れた本人の姿に、思わずどきっとしちまった。
「あら、御免なさい。忙しかった?」
「あ、いや別に」
少しばかり動揺しながら、あたふたと資料を片付けた俺に、彼女は微笑ましげにクスと小さく笑った。
「ロナは明日発つそうよ。私たちもそろそろ帰らないと……ね」
「そうだな。だけどあいつ、ジェイドはどうするつもりなんだろ。このまま施療院にでも置いて行く気かな」
「『弟子にしてくれ』って、せがまれて大変みたい。大師匠なんて呼ばれて困ってたわ」
彼女はそう言うと、苦笑交じりに肩を竦める。言われてみれば、開け放したバルコニーから微かに聞こえるのは、隣の部屋の賑やかな二人の声だ。温み始めた春の夜風に乗って、時折楽しそうな笑い声も聞こえる。
「何だ。してやりゃいいのに」
「彼女、弟子は取らないんですって。その代わり、ロアルデに連れて行くそうよ」
「えぇ? ロアルデって、まさかリコナ師の店じゃあるまいな」
驚いて思わず声を上げる俺に、彼女は事も無げに頷いて見せる。
「そりゃまた厳しいお師匠さんだな」
「ジェイドは納得してたわ。償いたいんですって。サナンの代わりに孝行したいって」
「ほぉ。そいつは頼もしい。ロアルデに帰る時が来たら、店に寄ってやるかな」
心なしか冷え込んで来たような気がして、椅子を立つと、バルコニーの大きな硝子扉を閉める。
何気なく振り返ると、舞い込んだ夜風に乱れた髪を直す、優美なその仕草に言い知れない色香を感じた。
ぼんやりと見惚れている俺に、彼女は怪訝そうに小首を傾げる。
「あぁ、あいつの事を思い出してね」
「あいつ……って?」
「イスカだよ。あんたと同じ貴族の令嬢で、巫女さんで、女剣士なのに、あいつはどこで間違ったのかと思って……」
「そうね。一つ間違えれば、私も彼女と同じ様に、蓮火幇に取り込まれていたかもしれない」
それを聞いて「怖い事言うなよ」と混ぜっ返すと、彼女はいたずらっぽい苦笑を返してくれたが、俄かに寂しげな顔になると、小さな溜息を一つついた。
「彼女は、きっと信じたかったんだわ」
「信じたかった……? 何を?」
「ジョセル陛下よ」
「え? 口封じに死を命じる主をか?」
「王自身と言うよりも、王に大義があったことを、その大義に殉じた父と許婚の名誉を、信じたかったんだと思う」
「名誉ねぇ……」
「私は長い間、死んだ父を理解出来ずにいたけど、今なら判る気がする。名誉とは、きっと死に行く者の為だけで無く、残された者が愛する者の死を受け入れる為のものなんだわ。
ジョセル王に大義が、あの戦に名誉があれば、彼女の愛した人の死にも、オルランド卿の死にも、意味を見出すことが出来るでしょうから」
己に言い聞かせるような口調で語った後、ふと伏せた銀色の瞳が、微かに潤んで揺れた。
「ベル……?」
「哀れな人……」
静かに閉じた瞼から涙が零れる。それを拭おうとして伸ばした俺の掌に、柔らかな頬を摺り寄せる仕草が愛おしい。まったく、あんたって女は、俺たちを嗤って死んだ敵すら悼むのか。
「ずっと苦しんでいたんだわ。彼女も、私と同じように」
震える声が胸に突き刺さる。テオを思い出さないでくれ。頼むから奴の為にそんな切なそうな顔をしないでくれ。
とうに死んだ野郎を想わずとも、俺ならいつでもここにいるじゃないか。
「私が、今まであの人の死を受け入れられなかったのは、それに意味を見出せなかったから……?」
その先は言うな。聞きたくない。咄嗟に抱き寄せると、彼女ははっとして濡れた瞳のまま俺を見上げるけど、見えない振りをして唇から言葉を奪う。
戸惑って押し退けようとする体を、尚も抱き竦めて夢中で口付ける俺の背中に、たおやかな腕が這い、精一杯しがみつく。
亡霊の名なんぞ聞きたくも無い。どうせなら嗚咽よりももっと甘い声を聞かせてくれ。……あぁ、だけど、恐らく彼女は俺の腕の中で奴の名を呼ぶだろう。
あの夜に喰らった一撃だけでも、致命傷を負ってボロボロだってのに、もう一発喰らったら、今度こそ間違いなく木っ端微塵になる。名前一つで二人とも雁字搦めだなんて、こいつは悪辣な呪詛だ。
「畜生……」
唇が離れると、喘ぐように切なげな息をつく彼女の髪に頬を埋めながら、掠れた声で呟いた。
「畜生、汚ぇぞテオドール! 手前ェいつまでベルを縛り続けるつもりだ。神界にいるなら出て来やがれってんだ。出て来て……一発殴らせろ!」
「ランジャ……」
「あんたも、忘れろって言った筈だ」
「忘れたい。でも……」
「忘れちまえ。忘れてくれ……!」
「お願い、忘れさせて」
「だったら、俺に抱かれてる時ぐらい、奴の名なんぞ口にするな」
俺の胸で、彼女は小さく頷いた。抱き締めていた腕を解くと、見上げる瞳から逃れるようにして続き部屋の扉を開ける。
暗闇に精霊石ランプを仄かに灯すと、無言のままついて来た彼女が、背後で扉を閉める気配がした。
そっと歩み寄る彼女と、瞼を閉じて口付けを交わしながら、次第に乱れてくる狂おしげな吐息と、互いの衣擦れの音に耳を澄ませる。
ベッドの上に横たえた女神の裸身は、淡い光に一層陰影を際立たせて、妖しいほど美しく淫靡だ。
重なり合う素肌が熱い。その艶やかな感触も、甘い香りも、切なく喘ぐ声も、満たし切れずにいた情欲を潤すには、十分過ぎるほどの美酒だった。
強かに酔い、溺れる俺の腕の中で、彼女は俺の名を呼び、甘美な痛みの先にあるものを知った後は、堰を切ったように貪欲に求めて来た。
だけど、狼は飢えたままだ。仔鹿の肉を骨まで喰らい尽くしたところで、心を抱え込んだ亡霊を追い払えた訳じゃない。
静かな寝息を立てる彼女を抱き締めたまま、いつの間にか気怠いまどろみに沈んでいた俺の耳に、自分によく似た男の嘲笑が、遠く聞こえたような気がした。