翌朝、身支度をして食堂へ行くと、「お早う」と声を掛けてくれたベルは、拍子抜けするほどいつものベルだった。
彼女に何を期待していたのか、自分でもよくは判らないけど、ああやって何事も無かったかのように振舞われると、昨夜の睦事は夢だったんじゃないかと思えて、ちょっと寂しいと言うか、物足りないと言うか……。
まぁ、彼女はいつでもあんな風に一分の隙も無く抑制的で、一夜明ければ女房気取りであれしろこれしろと言い出すような、面倒臭い手合いじゃないってことは重々承知だし、それが魅力だって事は良く知ってるつもりではあるんだけど。
ロナやジェイドと談笑しながら朝食を摂る彼女を、まだ少し寝惚け気味の頭でぼんやり見詰めていると、素なのかとぼけてるのか、「どうしたの?」と、当たり前のようにいつもの調子で訊いて来る。
却って俺の方がどぎまぎしちまって、「あ、あぁ、いや、何でもない」なんてうろたえる始末だ。
「何か怪しいわねぇ。姉様と喧嘩でもしたの?」
ロナはフォークを持ったまま頬杖を突くと、俺とベルの顔を交互に見ながらにやにや笑う。
いや、喧嘩じゃなくてむしろその逆だなんぞとは、口が裂けても言えない。
「早く謝った方がいいわよ」
と、フォークでくるくる指差しながら、生意気な口調で言う彼女に、
「何で俺が自動的に悪者になるんだよ」
と苦笑交じりに反論すると、ベルはジェイドと顔を見合わせて可笑しそうに笑った。
朝食を済ませて旅装を整えると、俺たちは親方に丁重に礼を言って支部を後にした。
ロナ師弟も、国境の検問所まで同行するらしいので、暫くの間は賑やかな道行きになりそうだ。
城下から郊外に広がる薬草畑を貫く街道へ出ると、少しずつ咲き始めた花が、心地よく渡る春風に仄かな香りを添えていた。
「おいら、一杯修行して、大師匠みたいな立派な薬師になるんだ」
ロナの馬に乗せられたジェイドが何やら得意そうな口調で言うと、彼女は、
「もう、『大師匠』はやめてったら」
と苦笑する。窘められて照れ臭そうにてへへと笑う彼を、ベルも微笑ましげな眼差しで優しく見守る。
「気を入れて修行しろよ。ロアルデに帰ったら寄ってやるから」
にやっと笑いながら言ってやると、「へい、毎度あり」と来たもんだ。
「おいおい、もう跡を継いだ気でいるのかよ。気が早い何てもんじゃねぇぞ」
呆れ返って思わず声を上げると、彼はいたずらっぽく笑って手の甲で鼻の下を擦る。それを見た二人もまた声を上げて笑った。
こいつも今はこんなやんちゃ坊主だけど、あと五年もしたら成人か。その頃にはきっと、見違えるほど一丁前になってるだろう。もしかしたら嫁さん貰って一緒に店を切り盛りしてるかもしれないな。
国境の手前の停車場で休憩を取ったあと、外へ出て馬に乗ろうとしたところで、ベルは何を思ったのか「あ、そうそう」と言って立ち止まった。
何事かと俺たちも立ち止まって振り返ると、彼女はジェイドに歩み寄って目の高さに屈んだ。
「まだ約束を果たして無かったわね」
はて、約束って何だっけ。と、きょとんとして俺を見上げる彼に肩を竦めていると、ロナも「あ、そうだった」と、歩み寄って彼の傍で身を屈める。
「有難うジェイド」
「元気でね」
二人の美女に両頬へ口付けの奇襲を受けると、一瞬びっくり顔になった彼は、たちまち耳まで真っ赤になりながら、だらしなくとろけた顔で彼女たちを交互に見上げる。
「よ。女ッ誑し」
とからかってやると、
「旦那にゃ言われたくねぇよ」
と反撃して来るけど、感触を思い出すように指先でそーっと触れると、再び頬を染め、嬉しそうにえへへと笑った。
検問は石使いの格好でも、とっとと出て行けとばかりにすんなり通る。入国にはあれこれとうるさい癖に、出て行く分には文句は無いらしい。
国境を越え、ロアルデへ向かうロナたちを見送ると、俺たちもサリミロへと向かった。が、いざ二人きりになると、俄然気まずい雰囲気になった。
いや、俺一人が勝手にどぎまぎしてるだけで、彼女は何も変わらないんだけど。
停車場でも宿屋でも、相変わらず部屋は別に取るし、野宿でも往きと同じに毛布に包まって背中合わせに眠るしで、敢えて変わったところと言えば、お休みの挨拶が、頬への口付けでなく唇に変わったぐらいだ。
これで良しとすべきなんだろうか。一度抱いたぐらいで俺の女呼ばわりするつもりは毛頭無いけれど、もう少し実感が欲しいなんて思うのは贅沢なのかな。
アルコロジーに居た頃はどうやってたんだっけ……?
名うての女誑しだった同僚のテューケンからの伝授によれば、取り敢えずは週末の予定を聞いて、もし空いてたら、最近流行っていそうな彼女好みのイベントを提案して、その後は小洒落た店で食事して、更にその後をよろしくしたいなら、ちょっとしたプレゼントを用意して……。
無理だ。この世界で一体どうやってそれを実践しろと? 向こうの流儀がこっちで丸ごと有効とは限らないし、この手のテンプレート化された手法を喜ぶような手合いは、大抵の場合はつまらない俗物女ばかりで、本命にはさっぱりだった筈。
それ以前に、そもそもソツ無く格好良くなんて、この俺に出来るような芸当じゃない。
当の彼女は、こっちがこんな事をぐるぐる考えてるなんて微塵も思っていないようで、ぼんやりしてる俺の顔を、時折心配そうに覗き込んでは、「大丈夫?」とか「どうしたの?」とか色々気遣ってくれる。
で、明らかに大丈夫じゃないのに、「大丈夫、何でもない」としか答えられないもんだから、余計に心配を掛ける始末。あぁ俺、やっぱり色恋沙汰は苦手だ。
そんな状態で、そろそろウルガン城下という辺りまで差し掛かった頃、宿屋のベッドで溜まった気疲れにぐったりしていると、不意にノックの音がした。
のろのろ起き上がりながら答えると、開いた扉から覗いたのは、ベルの心配そうな顔だった。
「ランジャ!」
俺がベッドにいることに驚いたのか、彼女は慌てて駆け寄ると身を屈め、掌を自分の額と俺の額に当てて熱を測る。
当然平熱なので、ほっと溜息をついてすぐ離したけど、相変わらず不安げな眼差しで俺の顔を覗き込んで来る。
「大丈夫? どこか痛むの? あなたが病気になってしまったら、私、一体どうすれば……」
おろおろと一生懸命心配してくれる姿がやけに可愛くて、悪いと思いながらも何だか無性に可笑しくなって来た。
そうだ、ここは地上だ。地底の流儀や手管が何だってんだ。
無駄な気苦労がすっぱり消えちまったような気がして、思わずにやっと笑うと、「え?」と驚いた彼女の腕を掴んで引き寄せ、そのまま組み敷いて軽く口付ける。
「そう、病気だ。重度のベル欠乏症」
呆れ顔だった彼女が、吹き出してくすくす笑い出す。
一頻り笑ったあと、
「もう、酷いわ。心配してるのに」
と拗ねる。
「ごめん」と謝りながら抱き竦め、更に深く口付けて、柔らかな舌の感触をたっぷり味わうと、耳元にそっと囁いた。
「欲しい。今すぐ」
だけど彼女は、困惑顔で優しく首を振り、チラと入り口に目を遣る。半身を起こして振り返ると、扉を隔てても尚、階下の喧騒が漏れ聞こえて来た。
宿屋の晩飯時ともなれば、気の早い酔客も加わって、一日で一番賑やかになる時間帯だ。
確かに、没落貴族とは言え、名門子爵家の御令嬢に、こんな安普請の宿で行為を求めるのは些か酷ってもんだな。
苦笑しながら起き上がり、
「ご無礼仕りました。平にご容赦を」
と慇懃に頭を下げると、彼女もまた、
「ご理解頂けたようで何よりです」
と苦笑混じりに答え、俺が差し伸べる手を握ってベッドを降りた。
エスネの森に入れば、懐かしの我が家はもう目と鼻の先だ。
再会を約束して、岬方面へ向かうベルを見送ると、拍車を当て、早駆けでアレーネ女伯邸へ急ぐ。
ベニカはいつものように俺の名を叫んで飛び付いて来るかな。そうしたら精一杯抱き締めてやろう。また少し成長したかもしれない。何しろ二ヶ月も逢っていないんだから。
門を過ぎて森を抜け、前庭で馬丁に馬を預けながらバルコニーを見上げると、蹄の音を聞き付けて出て来たか、身を乗り出すようにして覗いていたベニカの顔が輝いた。
軽く手を挙げてやると、俺の名を呼ぼうと大きく息を吸うが、何故かはっとした顔で口元を両手で押さえると、そのまま部屋へ引っ込んでしまった。
何だかちょっと肩透かしを食らった気分。大きな溜息で気を取り直し、玄関の大扉を開いて飛び付いて来るベニカを待ち構えたが……。
「お帰りなさいませ。ランジャ様」
「……へ?」
面食らってる俺の目の前で、彼女は妙に大人びた様子で馬鹿丁寧に頭を下げると、少し照れ臭そうな顔で見上げて来た。
ふと顔を上げると、少し離れたところでアレーネ夫人が、家令氏と共ににこにこ暖かな眼差しで彼女を見守っていたが、どう反応していいのか判らずに所在無く突っ立ってる俺に気付くと、「あら」と怪訝そうな顔になった。
ベニカもまた、「えーと」と言いながらくしゃくしゃ頭を掻く俺に戸惑った様子で、答えを求めるように後ろを振り返る。
ひょっとして、夫人から教えを受けたのかな。そう言えば随分前に、そろそろ大人になる準備が必要ね、とか言われてた事があったっけ。
俺としちゃ、淑女教育なんて狩人のカミさんにゃ必要無いとは思うけど、将来石使いとして活躍するために、多少は必要と考えたのかな。
「あ、あの、ランジャ様……?」
不安そうな顔でおずおずと呼ぶ彼女に、ちょっと考え込む振りをして見せ、「何か調子が出ねぇ」と呟きながらにやっと笑ってやると、途端に顔を輝かせた。
「よっしゃ、やり直し」と言うと、「はい」と元気に答えながら夫人の元へと駆けて行く。その後姿を笑いを堪えながら見送って外へ出ると、一呼吸置いてから徐に大扉を開けた。
「ランジャ様! お帰りなさい」
今度こそ勢い良く飛び付いて来た彼女を抱き上げ、夢中で頬擦りして来る小さな額に口付けしてやる。やっぱりベニカはこうでなくちゃね。
「ただいま。元気だったか? 寝込んだりしなかったか?」
「はい。元気です」
「よしよし、イイコだ」
家令氏と顔を見合わせていた夫人が、そっと歩み寄って来たので、じゃれる彼女を降ろして会釈する。
「只今戻りました。長い間留守にしちまって申し訳ありません」
「お疲れ様。ベニカさんがずっと寂しがっていたわ。どうか沢山甘えさせてあげて」
夫人の優しい言葉に、彼女は恥ずかしそうな様子で俺にぎゅっとしがみ付く。
「そうでしたか……。ごめんな、寂しい思いをさせちまって。明日から暫く休暇を取る事にするよ」
「え? 本当ですか?」
俺を見上げる真ん丸い緑の瞳に大きく頷いてやると、「お持ちします」と言って、俺の手からいそいそと荷物を取り、重たそうに抱えながらも、軽い足取りで階段へと駆けて行く。
俺は夫人と苦笑を見交わして肩を竦めると、こちらを振り向いて「ランジャ様ぁ」と催促する彼女に歩み寄り、抱えた荷物を取り返すと、空いた手を取って二階へ向かった。
また少しだけ背が伸びて重くはなったけど、相変わらず小さな手だ。小さくて儚げだけど温かくて愛おしくて、旅の疲れだけじゃなく、体中に染み付いた血の穢れすら浄化してくれそうな、そんな無垢な清らかさを感じる。
「ランジャ様、私、十一になりました」
階段を上がりながら、ベニカは嬉しそうににこにこしながら報告する。
「え? いつ?」
思わず口を突いて出た質問に、彼女は一瞬びっくり顔になると、ちょっと困ったようにえへへと笑った。
どうやらその手の話をした事が無かったことを思い出したらしい。そう言えば俺も彼女の誕生日なんて訊ねたことも無かった。迂闊だったな。
「一昨日です。アレーネ様がお茶会を開いて下さったので、お友達を招いてお祝いしてもらったの」
「そうか、しまった。もう少し早く帰って来ればよかったなぁ。残念……」
弾んだ声で話してくれてるけど、きっとその席に俺がいなかったことを寂しがっていたに違いない。どうしよう。何かで穴埋めしてやらなきゃ。
「ランジャ様はお仕事ですし、仕方ありません」
相変わらず殊勝な事を言ってくれるね。「ごめんな」と謝ると、笑顔で首を振ってくれた。
「茶会は楽しかったか?」
「はい、とっても。贈り物も沢山貰ったの」
「そうか、良かったな。俺も何か贈りたいんだけど、何が欲しい?」
すると彼女は階段の途中で立ち止まり、「うーん」と考え込む。
「何でもいいんだぞ。服でも、簪でも」
と言ってやっても、暫くそうやって考え込んでいたが、はたと顔を上げるとこう言った。
「ランジャ様がご無事で戻られたことが、何よりの贈り物です」
まったく彼女の優等生振りには恐れ入る。そう言えばタラサノ村に居た頃、欲の無い子だって師匠も言ってたっけ。