この城下では、初夏が一番美しい季節なのだと、夫人は少女のように声を弾ませて言う。
今朝も早くから、侍女や庭師を連れて薔薇園に出ていたようだ。まだ朝露が付いている様な、咲いたばかりの花があちこちに飾られていて、邸中が瑞々しい芳香に包まれていた。
朝食の後、ベニカの部屋で修行に付き合っていると、馬車の音が近付いて来て前庭で止まった。
彼女は唱えていた術譜を途中でやめて顔を上げると、椅子を降りてバルコニーへ駆けて行き、手摺から身を乗り出して覗き込む。
「お客様でしょうか。こんな朝早くから誰でしょう」
俺を振り返って怪訝そうに言う彼女に、「さぁ、誰だろうな」と意味深ににやっと笑ってやると、程なくしてノックの音が響き、扉の向こうから家令氏が呼んだ。
彼女を促して階下へ降り、応接間へ入ると、にこにこと嬉しそうに迎えてくれた夫人の向こうで、身なりのいい温厚そうな中年の紳士が、ソファを立って俺たちへ深々と頭を下げた。
「毎度お引き立て頂き、有難う御座います」
「どうも、お世話ンなります」
俺たちの遣り取りをきょとんとして見上げている彼女を、差し向かいに座らせると、紳士は彼女にも頭を下げた。
「フィリベールと申します。アレーネ様には、いつも御贔屓に与っております」
「ベニカです。よろしくお願いします」
丁寧に答えながらも、未だ腑に落ちない様子の彼女に、夫人は俺と顔を見合わせると、少々いたずらっぽくうふふと笑った。
「本日は、指輪を御所望とのお話で御座いましたな」
フィリベール氏が、持参した大きな鞄から、天鵞絨張りの箱を幾つも取り出しながらそう言うと、彼女は「指輪?」と驚き、真ん丸く見開いた目で俺を見上げた。
「そう、指輪だ」
言いながら片目を瞑って見せると、彼女は見開いたままの目をぱちくりと瞬かせ、今度はテーブル上の箱の中から現れた、色とりどりに並ぶ宝石に、「すごォい」と歓声を上げた。
「こちらなど如何でしょう? 可愛らしい意匠で、御令嬢方に人気で御座いますよ」
彼が差し出す箱には、金銀細工の見本の台が並んでいる。どれも草花などを模った精緻な造りだ。
彼女は暫し瞳を輝かせて見入っていたが、ふと顔を上げると、心配そうに恐る恐る俺の顔を覗き込んだ。
「あ、あの、ランジャ様、指輪って、私にですか?」
「そう。誕生日の贈り物にと思ってね。他の物は、みんなお前の友達に先を越されちまったからさ」
肩を竦めながら言う俺の言葉に、彼女はたちまちぱーっと顔を輝かせると、
「有難う御座います」
と声を弾ませ、差し出された箱から、早速目当ての台を取り出しては、あれこれと吟味し始めた。
フィリベール氏は夫人が贔屓にしている宝石商だ。指輪の贈り物は彼女の提案で、俺の相談に快く乗ってくれたものだったが、それとは別にちょっとした計画もあった。まぁ、こっちについては後でのお楽しみって奴だな。
彼女が散々悩んだ末に選んだのは、百合の花を模した白金の台と、小さな薄桃色の真珠だった。何だか随分と控え目なデザインを選んだものだとは思ったが、彼女にはこういう清楚なものの方が似合うのかも知れん。
「では、寸法を測りますので、御手を拝借いたします」
おずおずと遠慮がちに差し出された小さな手に、彼も、
「何とも可愛らしい御手で御座いますな」
と目を細めた。
仕上がりには十日ほど掛かるそうだ。彼女は余程嬉しかったのか、彼が丁寧な挨拶と共に邸を後にすると、馬車が見えなくなるまで玄関ポーチで見送っていた。
天気もいいので、午後は城下へ散歩に行くことにした。彼女にとって繁華街はすっかり馴染みだとかで、留守がちな俺に色々と案内してくれるそうだ。
エスネの森を出て邸宅街を通り過ぎ、いつもの宿屋に馬を預けると、早速、こじんまりとした本屋の看板を指差して、仲良しのラケルの家だと教えてくれた。
ミケル船長と薬屋のラウルの兄弟、更には彼らの祖父のレセリ師ともすっかり顔馴染みだそうだ。
他にも、大通りの道具屋にいる大きな猫の名前だの、代書屋と洗濯屋が夫婦だってことだの、友達と裏通りを探検しに行ったら、道に迷って色町に出ちまった事だのを、身振り手振りを交えながら、夢中になって話してくれた。
広場も相変わらずの人出で、屋台の客や大道芸の見物人で賑わっていた。
久し振りにいつもの屋台へ行って、珈琲とドライフルーツでも仕入れて帰ろうかと思った時だ。
すぐ傍で起きた衝突音と馬の嘶きと女の悲鳴に、大通りはたちまち人垣で埋まった。何事かと駆け付けると、道の真ん中に人が倒れている。
取り囲んだ数人が抱き起こそうとしていたので、慌てて制すると駆け寄って傍らに跪いた。倒れていたのは十五、六の娘だ。怪我をしているようで、服のあちこちに血が滲んでいる。
頭を打ってるかもしれない。こいつは迂闊には動かせないな。取り敢えず、出血の酷い場所を特定すると、クラヴァットやハンカチで縛り上げて止血する。
「ベニカ、施療院に行って薬師を呼んで来い!」
彼女は俺の言葉に「はい」と弾かれたように答えると、広場の向こうに見える石造りの建物へと駆けて行った。
「何があった?」
取り囲む野次馬の一人を見上げて問うと、彼もまた心配そうな顔で歩み寄り、膝を突いた。
「馬車に跳ねられたんすよ。俺、見てました」
「何だと?! 跳ねた奴ァどこへ行った!」
「多分、劇場だと思いますよ。そこの角を曲がって行きましたから」
「貴族か?」
「ありゃぁ多分、ドミニク様の馬車だ。殿上人ですよ」
彼が何やら諦め顔で首を振った時だ。「アリサ、アリサ!」と叫ぶ中年女の声が聞こえ、顔を上げると、前掛けをした小太りの女が、半狂乱で駆け寄って来た所だった。
彼女はくずおれるように少女の傍らに縋り付くと、両手を伸ばし、肩を揺さぶろうとしたので慌てて止めた。
「あんた、この娘の知り合いか?」
「ええ。あたしの姪っ子で、姉さんに頼まれて店に預かってるんです。あぁ可哀想に。しっかりしておくれアリサ!」
苦しそうではあるけど、何とか息はしている。適切な手当てが出来れば、命に別状はなさそうだけど……。
「殿上人ってぇのは随分と大層なご身分だな。娘を跳ねても知らん顔かよ」
思わず吐き捨てた俺の言葉に、女は前掛けから引っ張り出した手巾で目元を拭いながら、大きな溜息をついた。
「仕方ありません。殿上人は聖下に仕えるお方、神様に一番近い方々だ。あたしら下々になんぞ感けていられるご身分じゃない。旦那のように、気に掛けて下さる神使様なんて、そうそういらっしゃるもんじゃありません」
俺の名を叫ぶベニカの声を振り向くと、彼女に手を引かれて若い男が駆け付けて来た。どうやら修行で訪れている薬師のようだ。
「頼む」と言うと「お任せを」と短く答え、肩に負った雑嚢を降ろしながら跪くと、慣れた手付きで素早く脈を取り、触診し、止血されていることを知ると、俺と顔を見合わせて頷いた。
施療院まで運んでやりたいが、戸板や担架を調達してる時間が惜しい。ふと思い立ってクロークを脱ぐと、薬師と野次馬に手伝わせて少女を包み、そっと持ち上げてそのまま運んだ。
薬師の見立てでは、上腕の骨折と打撲、それと擦過傷や裂傷を数箇所負ってはいるものの、頭は打っていないようだとの話だった。
痛み止めが効いたのか、苦しそうだった呼吸も安らかになって、寝台の上で静かな寝息を立てている。完治には暫く掛かるだろうけど、まずは一安心だ。
花屋の女将だと名乗った彼女の叔母は、俺と薬師に何度も頭を下げると、今日は早々に店を閉め、改めて看病に来ますと言って帰って行った。
彼女が戻るまでは、手伝ってくれた野次馬の若造が付いていてくれるらしい。彼は港で働く荷役夫だそうで、いつも遠くで眺めていた少女の名前を、図らずも知ることが出来たと、頬を染めて何やら嬉しそうに寝顔を見守っている。
俺もまた、安堵の溜息をつくベニカと笑顔を見交わすと、薬師に当面の治療費として金貨を幾つか手渡し、施療院を後にした。
広場に戻ると、何事も無かったかのようにいつもの賑わいに戻っていたが、屋台の客たちからは、先ほどの事故の顛末を囁き合う声が聞こえた。
被害者は評判の働き者だったようで、みんな一様に、花屋の看板娘の無事を喜んではいたが、同時に殿上人が加害者では、きっと泣き寝入りに違いないと、諦めと同情の入り混じった溜息も漏らしていた。
「胸糞悪ィ話だぜ」
劇場の方角を透かし見ながら舌打ちをする俺に、すっかり馴染みになった珈琲屋の親父は、まぁまぁと宥めながら淹れ立ての一杯を勧めてくれた。
いつも悪いねと言いながら受け取り、一口啜ると大きな溜息をつく。ベニカはお気に入りのドライパイナップルの袋をその場で早速開けると、満面の笑顔で頬張る。
今日は随分おまけしてもらったようで、大切そうに抱えている小さな袋は、いつもより膨らんでいた。
「まぁ、我々とは住む世界が違いますからね。殿上人ともなれば、エスネの森からは滅多に御出でになりませんから、不運だったとしか言いようがありませんよ。ランジャ様に助けて頂けた分、あの子はまだ幸運だったのでしょうけど」
確かに彼の言う通り、貴族の奥方と思しき神族の貴婦人を見かける事はあっても、野郎の方はカレル大親方以外、目にした事はなかった。お忍びで城下へ遊びに出る奴も、俺が知らないだけでいるにはいるんだろうけれど。
「まったく何て連中だ。彼らが納めた税金で食ってる癖に、少しは納税者に敬意を払ったって良さそうなものを……」
そう吐き捨てながら、すっかり苦くなっちまった残りの珈琲を飲み干すと、親父は可笑しそうに声を上げて笑った。
「いやいや失敬失敬、つくづくあなたは面白いお方でいらっしゃる。そんなお考えの神使様など、今までお会いした事もありませんよ」
「そりゃどうも」
苦笑交じりに言いながら珈琲豆の包みを受け取る。紙袋から立ち昇る、相変わらずのふくよかな芳香が心地良い。
「この世界は聖下がお創りになったものです。美味しい珈琲も、パイナップルもね。殿上人はその聖下にお仕えする御身分。御偉功に与る我々民草が、その恩恵に税金や貢物でお応え申し上げるのは当然で御座いましょう」
丸で諭すような彼の口調に、何と答えていいやら判らず、肩を竦めて誤魔化すと、礼を言って帰途に着いた。
地上世界の価値観には、大分馴染んだつもりでいたけど、俺の頭の中にこびり付いた常識とカチ合う部分は、まだまだ残ってるようだ。
気晴らしにと立ち寄った港で、水夫や荷役夫の仕事ぶりや、鴎と戯れるベニカの様子を、陽が傾くまでのんびり眺めた後、大通りを経て繁華街へ戻る。
その途中、何気なく劇場のある通りに目を遣ると、石造りの豪華な車寄せに、四頭立ての大層立派な馬車が停まっているのが見えた。轢き逃げ犯のものだろうか。
立ち止まると、ベニカも足を止めて怪訝そうに俺の顔を見上げる。程なくして、着飾った一団と共に入り口から現れたのは、御伽噺の王子様もかくやと思われる礼装の美青年だ。
金細工の髪留めで束ねた、背中まで届くプラチナブロンドと、透き通るようなルビー色の瞳はまさしくソロ系。
そして、奥方か許婚か、着飾った娘がドレスの裾を捌きながら駆け寄り、甘えた声で「ドミニク様」と呼んだその瞬間、カッと頭に血が昇った俺は、気が付くと殿上人様の胸倉に掴み掛かっていた。
途端に周囲から絹を裂くような悲鳴が上がり、従者か護衛と見られる剣士が、剣把に手を掛けつつ取り囲むが、相手も神族と見て手を出せずにいるようだった。
「おいこら轢き逃げ犯! 被害者ほっぽって暢気に観劇たァいいご身分だな、えぇ?」
目の前で赤い瞳が真ん丸に見開かれ、面食らったようにぱちくりと瞬く。
抜けるような白い肌に、すっきりと通った鼻梁。文字通り人形張りの美貌ではあるが、線が細くてふにゃふにゃと女みてぇに頼り無い野郎だ。所詮はエスネの森の御邸で、蝶よ花よと育てられたお坊ちゃまか。
「き、貴卿は一体……」
「俺のことなんざどうでもいい。それより娘を撥ねただろうよ、手前ェの馬車で!」
「あ、あぁ、確かに何かにぶつかったようではありましたが、それが何か……?」
「すっとぼけンのも大概にしろよ! 何かじゃねぇよ。手前ェのせいで娘は大怪我したんだ。まずはそっちへ詫び入れるンが先だろうが!」
辺りはたちまち人だかりが出来て騒然となった。中には、
「喧嘩だ喧嘩だ! 神使様同士の喧嘩だよー!」
なんて囃す奴までいやがる始末。
それを耳にした連中が、そいつは見モノだとばかりに集まって来るものだから、劇場前は大変な大騒ぎになった。
「殿上人だのなんだのと、持ち上げられてイイ気んなってんじゃねぇぞ。手前ェが立ってるその足元を、どんな連中が支えてンのか、一度でも考えた事があんのかよ!」
そこまで吼えた時、背後から甲冑の腕が俺を羽交い絞めにした。どうやら騎士団のご到着らしい。
引っ立てられながらも、
「何とか言いやがれ畜生め!」
と吼え続ける俺を、轢き逃げ野郎は、心配そうに駆け寄る御令嬢にも気付かぬ様子で、呆然と見送っていた。