さて、石造りの床に藁敷きでは、さすがに寝心地は今ひとつなれど、どこからとも無く聞こえる潮騒が心地よい子守唄になって、翌朝の目覚めは悪くなかった。
ただ昨夜は、寝付くまでに何やかやと理由をつけては、若い兵たちが覗きに来たので、おちおちゴロ寝も出来ない状態だった。
大方、話の種にと、殿上人に喧嘩を売った、酔狂な神族の顔を拝みに来たってのが正直なところだろう。まぁ、彼らと軽口を叩き合うのも楽しかったし、いい暇つぶしになって良かったけど。
食事も、官舎のメニューをそのまま持って来てくれたようで、こっそり特別待遇にしてもらってる事が伺えた。
おまけで野菜サラダと、瓶に兎の描かれた葡萄酒が付いていたあたり、ザーリャ連隊長閣下も中々洒落の効いた御仁だな。
朝飯を食った後、定番の筋トレで暇を潰していると、遠くから聞き覚えのある話し声と、近付いて来る靴音が聞こえて来た。
気が散って数え損なった片腕立て伏せを諦めて立ち上がり、服に付いた藁屑を払いつつ、鉄格子から外を伺うと、あろうことか、牢番の兵に案内されて面会に来たのはカレル大親方だった。
「やれやれ、喧嘩だと聞いて門下生のやんちゃ坊主かと思えば、ウチの監査の名物男だとはね」
鼻眼鏡の向こうの赤い瞳に苦笑を浮かべながら、大親方は面白がってる口調で言うけど、俺は極まり悪さに冷や汗が出る思いで、「面目無ぇっす」と言うのがやっとだった。
「広場前の花屋の女将さんが、エスネの森には入れないからと、本部に君のクロークと翼刃章を届けてくれてね。姪御さんは意識が戻られたとかで、是非お礼をと言っていたよ。
リロイ司祭も御養子の件だとかで、使いを寄越して何か言って来ていたようだが、何、気にする程の事は無い。彼には腕のいい御者でも紹介してやればいい話だ」
彼は何やら上機嫌で捲くし立てると、
「ご迷惑をお掛けしまして……」
と頭を下げようとした俺を笑って制した。
気を利かせた兵が、鉄格子の鍵を開けてくれた時だ。今度はベニカの呼ぶ声が聞こえて来て、大親方と共に振り返ると、半泣きの彼女が夫人の手を引いて駆けて来るのが見えた。
「ランジャ様ぁ!」
俺が牢から出て来るや否や、飛び付いて泣きじゃくる彼女をよそに、大親方と夫人は「おや」「あら」などと言いながら、互いに驚いた様子で顔を見合わせている。
「これはこれはアレーネ殿。いやはや何年振りだろう。相変わらずお美しくていらっしゃる」
「お久しゅう御座います。カレル殿もお元気そうで何よりですわ」
二人の遣り取りに面食らった俺が「え? お知り合いで?」と問うと、夫人は「ええ。宮中で」と少女のように仄かに頬を染めながら答えた。
泣くのも忘れてきょとんと見上げるベニカと、思わず顔を見合わせる。
「私が御役目を退いた時に、カレル殿もお辞めになったと伺って驚きましたのよ。次期祭司長の呼び声も高くていらしたのに……」
「何、アレーネ殿の御出でにならない宮中など、花の咲かない庭園のようなものですから」
「まぁ、お上手です事」
いたずらっぽく微笑みながら睨む振りをする夫人に、大親方は笑いながら首を振る。
「もっとも往時の庭園に咲いていた花々は皆、黒髪の薬師殿に夢中でしたな。遠くから心密かに愛でていた一輪が、いつ手折られて行くやも知れんとやきもきしたものです。さて、今でもその御心は聖山の君のものなのかな?」
優しい眼差しで覗き込まれると、彼女はふっと溜息をつき、寂しげな微笑を浮かべた。
「遠い昔の話ですわ。陛下が身罷られて、もうどれほどになりますやら……」
すると大親方は何を思ったのか、にやっとやんちゃそうな笑みを浮かべるなり、彼女の白くたおやかな手を取ると、思わずたじろいだ様子などお構い無しに、丸で宝物でも隠すかのように両手でそっと包み込んだ。
「それは好都合。僕にも付け入る隙が出来たと言うもの。ここへ来て漸く好機到来だ」
臆面も無く言いのけて、軽やかな笑い声を上げる彼の顔を、彼女は手を握られたまま唖然とした様子で見上げる。
何だよ、てっきり昔話をしてるもんだと思ってたのに、口説いてやがったのか。何てぇ爺さんだ。
二人の遣り取りをにこにこと微笑ましげに見守っていた兵が、俺を牢へ戻しもせずに、
「では、失礼します」
と会釈をして帰ろうとするので、
「え? おい、ちょっと待てよ」
と呼び止めたが、彼は大親方の目配せに笑顔で頷くと、改めて会釈をしつつ帰ってしまった。
「何だね、まだそこにいたのか君は」
「え?」
「さっさと邸へ帰って、ベニカ君と残りの休暇でも楽しんで来たらどうだね」
「でも俺、まだ……」
何を言われてるのか理解出来なくて、おずおずと背後の牢を指差す俺に、大親方は呆れ顔で溜息をつく。
「君も野暮な男だな。私は今、憧れの君との再会を果たして、天にも昇らんと言う心待ちだというのに、老いらくの恋に水を差すつもりかね?」
何と答えていいか判らず、「はぁ」と曖昧に返事しながらくしゃくしゃと頭を掻く俺をよそに、彼は夫人の肩をソツなく抱き寄せながら、茶目っ気たっぷりに片目を瞑って見せた。
彼女もまた満更でもなさそうで、頬を染めながらも、はにかむような微笑を浮かべている。
「ベルナデット君から話は聞いているね。来週からの仕事もよろしく頼むよ」
呆気に取られてる俺に、それだけを言い残してさっさと背を向けると、
「そう言えば、今、劇場で上演中の芝居は大層面白いと評判のようですよ。御一緒に如何かな?」
「まぁ、誘って下さるの? 何と嬉しい事」
などと、すっかり二人の世界に浸りつつ、通路の向こうへと去って行っちまった。
「素敵……。大親方、ずっとアレーネ様への想いを温めていらしたのかしら……」
取り残されてぽかんと見送る俺の横で、ベニカはそう呟きながら、重ねた両手を胸に当ててうっとりと溜息をついていた。
どうやら俺は、彼の口利きで無罪放免となったようだ。
エイメル商会には、正装で来いとの御達しだった。
商談と聞いていたが、知己を招いての私的な晩餐会も兼ねているらしい。そう言う席は正直言って苦手なんだが、仕事とあっちゃ仕方ない。
ここへ来た時に誂えた一張羅を、クローゼットから引っ張り出して着込むと、夫人が勧めてくれた白檀の香油を少しだけ着ける。
ベニカは着替えを終える頃にやって来て、俺を椅子に座らせると、背後にもう一つ並べた椅子に攀じ登り、いつの間にか背中に届くほど伸び切っていた俺の髪を、いつぞやのように丁寧に梳り、革紐の首飾りを結び直してくれた。
「ランジャ様、素敵です」
礼を言うと、彼女は両手で櫛を握ったまま、頬を染めて俺を見上げる。
「早く一緒に夜会へ出られるようになるといいな」
そう言って頭をわしわし撫でてやると、「はい」と笑顔で頷くが、ふと寂しげな顔になると、
「今度のお仕事も、ベル姉様と一緒なの?」
と遠慮がちに問う。
その妙に不安げな眼差しには、何かを見透かされたような気がして、「ああ」と短く答えるのがやっとだった。
ベルとの微妙な関係は、程よい距離感を保ったまま続いてはいたが、こんなちびすけに勘繰られる筈は無いと思いながらも、どこか後ろめたい思いを禁じ得ないのは何故だろう。
いつだったか、彼女の無垢な瞳に見詰められると、訳も無く平伏して謝りたくなると、ディエシーの野郎が冗談めかして言った事があったが、そいつはきっとこんな気分を指しているに違いない。
「帰りは少し遅くなるだろうけど、心配してないで早く寝るんだぞ」
玄関ポーチまでついて来た彼女を振り返り、小さな額に口付けて「行って来る」と告げると、俺が馬車に乗り込んで門を出るまで、微かな夜風に吹かれながら、不安そうな顔のまま見送っていた。
エスネの森を出る前に一旦岬へ向かう道に入り、ベルを迎えに行く。
門を抜けて森を過ぎ、玄関前で馬車を横付けにすると、婆やに迎えられて入った玄関ホールで待たせてもらう。
程なくして現れた盛装の彼女は、また格別な美しさだった。
シルバーグレーのシックなドレスに包まれた、伸びやかにして肉感的な肢体も、水晶と黒真珠の首飾りの乗った白い胸元も、銀の簪で飾られた柔らかな赤毛も、その後れ毛が添うしなやかなうなじも、全て知り尽くしてる筈なのに、何だか初めて見るような新鮮さを覚えた。
「こりゃ凄いな。女神様の御光臨だ」
呆然と見惚れながら呟く俺に、彼女は艶然と微笑み掛けると、婆やが差し出すクロークを、礼を言いながら受け取ってふわりと羽織る。その仕草ですら艶かしく美しい。
「今日は素敵ね。可愛い奥方のお見立てかしら?」
「惚れ直した?」
にやっと笑いながら肘を差し出すと、そっと指を掛けながら、「まぁ、自信家ね」といたずらっぽく微笑んだ。
玄関を降り、御者が扉を開けて待つ馬車の中へと促すと、優雅な仕草で裾を捌きながら乗り込む。チラリと覗いた細い足首がたまらんね。
普段の堅苦しい男装も良く似合ってて悪くは無いけど、こうして着飾ってるのを見ると、改めて貴族のお姫様なんだって事を再認識させられる。
初夏の夜にこんな美女と一緒だってのに、これから仕事だなんて世の中理不尽だ。
「聞いたわよ、ランジャ」
馬車が走り出すと、彼女は差し向かいに腰掛ける俺の顔を覗き込むようにして、にやっと意味深に笑った。
「あなた、劇場前で神官のドミニク様に掴み掛かったんですって?」
「まぁね。ついカッとなっちまって」
「相変わらず喧嘩早い事」
少しだけ開いた扇で口元を隠しながら、くすくす笑う彼女の白い頬に、レースの扇面が妖艶な影を映す。
「彼の養父は司祭猊下よ。あなたが神族でなければ、その場で手打ちにされてたわ」
「その手の説教なら、既に神聖騎士団の連隊長閣下から賜りまして御座います」
少しばかり拗ねた口調で言い返す俺に、彼女は苦笑交じりに肩を竦めて見せる。
「でも、御父君のご立腹をよそに、当のドミニク様は気にして御出でではないようよ。何でも、撥ねてしまったお嬢さんの店に使いを寄越して、お見舞いの品を山ほど贈られたとか。こじんまりとしたお店なのに、大騒ぎになったと聞いたわ」
「へぇ。少しは聴く耳を持ってたって事かな。あんまりとぼけた野郎なんで、あン時ゃ一発ぶん殴っとこうかと思ったけど」
「きっと驚かれたに違いないわ。喧嘩なんて生まれて初めてでいらっしゃるでしょうから」
「貴重な経験て訳?」
何だか面白がってる様子に思わず苦笑すると、彼女は可笑しそうに声を上げて笑った。
そう言えば、珈琲屋の親父も言ってたっけ。連中が森から出て来る事は稀だって。
市井の民がエスネの森を雲の上と思っているように、あいつらもまた、城下はすぐ隣にあるのに、遠い異界のように感じているのかも知れない。