帰宅したのは昼も過ぎた頃だったが、自室に戻って一息つく間も無く、玄関先に馬車が停まる音がした。女中と一緒に貰った花を楽しそうに飾っていた彼女が、訝しげに振り返る。
「誰でしょう? フィリベールさんだったら嬉しいな」
そう言えば、頼んでいた指輪もそろそろ出来上がる頃だ。
彼女はいそいそとバルコニーへ出ると、いつものように手摺から身を乗り出して階下を窺っていたが、「あ、大変!」と小さく叫ぶと、慌てて戻って来た。
「どうした?」
「ランジャ様、大変です。ドミニク様です。この前の、劇場にいらした殿上人です」
「何だと? あの野郎、お礼参りにでもやって来たか? 丁度いい。体術の練習台が欲しかったとこだ。受けて立とうじゃねぇか」
両手の指をぱきぱき鳴らしながらにやっと笑う俺を、彼女は心配そうな顔でおろおろ見上げる。
「駄目です、いけません。また牢屋に入れられちゃう」
彼女が涙目で縋り付いた時だ。ノックに応えると、扉の向こうから家令氏が来客を告げた。
「行っちゃ駄目ですぅ」と、必死に引き止めようとする彼女の髪をくしゃっと撫でて部屋を出ると、応接間から漏れ聞こえて来たのは、意外にも夫人と若造の談笑する明るい声だった。
半泣きで追いかけて来た彼女と、どういう事かと思わず顔を見合わせる。
気を取り直していざ対決、と闘志満々で扉を開けると、俺を待っていたのは、満面の笑みで片手を挙げながら、「ランジャ殿!」と能天気に呼ぶドミニクの姿だった。
何だか調子が狂いそうだけど、どうにか渋面を維持しながら腕組みをしつつ対峙する。
「邸にまで押し掛けて来て何の用だよ。お礼参りのつもりか?」
精一杯凄んでやったつもりなのに、奴はにこにこと上機嫌のまま「はい」なんぞと明るく答えやがる。
夫人もまた俺たちの遣り取りを、「あらあら」などと微笑ましげに見守っていて、何やら和やかな雰囲気の中、俺一人だけがいきり立ってる妙な構図になりつつあった。
「アリサが、貴卿に是非お礼をと申しておりましたので」
「……へ?」
何やら噛みあわない会話に面食らいつつ、奴が振り返った背後に目を遣ると、あの花屋の看板娘が隠れるように立っていた。
さすがにまだ傷は癒えていない様で、添え木をして肩から吊るした腕が痛々しいけど、顔色もいいし、何やら仕立てのいいお仕着せを纏っていて、身綺麗にしている様子は見違えるようだった。野暮ったい娘だと思ってたけど、中々どうして磨けば光るタイプだな。
「さぁ、アリサ。恥ずかしがらずにこっちへおいで」
「はい。若様」
彼女はおずおずと進み出ると、丁寧に頭を下げる。
「あの時は有難う御座いました。何と御礼を申し上げたらよいか……」
「良かったな。無理せず大事にしろよ」
そう言ってやると、彼女は眩しそうな眼差しで見上げながら、「はい」と遠慮がちに答えた。
「さぁ、お茶が入ったわ。どうぞお掛けになって」
茶器を携えて入って来た侍女を振り向くと、夫人は一同に優しい言葉を掛ける。
「失礼します」と嬉しそうに会釈してソファに腰掛ける奴をよそに、彼女はおどおどと落ち着かない様子で周囲を見回していたが、笑いながら「おいで」と手招きされると、緊張した面持ちで隣に腰を下ろした。
「それはそうと、その格好はどうしたんだ? 花屋は辞めちまったのか?」
「いえ、あの……若様が、侍女にお取立て下さったので、その……」
彼女は言いながらみるみる赤くなると、助けを求めるように奴の顔をチラと盗み見る。
「侍女だと? おい手前ェ、まさかこの娘を側女にしようなんて目論んでンじゃねぇだろうな」
奴は詰め寄られると、心外だと言わんばかりの顔で、苦笑交じりにぶんぶん首を振る。
「そんな滅相もない。私には許婚がありますし、側室を持とうなどと考えたこともありませんよ」
「じゃぁ、何だって町娘を侍女なんぞに取り立てたんだ?」
「私の教師にと思いまして……」
何やら優しい口調で言いながら、テーブルの上のカップを取ると、手の自由が利かない彼女にそっと差し出し、恐縮しながら受け取る様子に微笑を浮かべた。
「はぁ? 何だそりゃ」
「私は城下の民の事を何も知りません。なので、彼女に下々の暮らし振りを尋ねようと思い、召し抱えたのです」
「何だってまた……」
呆気に取られて問う俺に、奴ははにかむ様な微笑を浮かべながら、己に言い聞かせるような口調で言った。
「城下の事など、枢機卿に任せておけばいいと思し召しかもしれませんが、あの日の貴卿の言葉に打ちのめされたのです。
仰る通り、確かに私は何も知らない。養父母や師兄には、『神官は聖下の御為にある。聖下のお創りになったこの世界を維持する事が役目』と教えられては来ましたが、そこに暮らす民草の事は、何も知らずにいた事を思い知らされたのです。
我々神官が世界を支えているなどとは、実は驕りだったのではないか、我々は支える側ではなく、支えられている側なのではないかと……」
「やれやれ。単純な野郎だね、あんたも……」
気が付けば戦意なんぞとうに消え失せていた。何やら気が抜けてくしゃくしゃと頭を掻く俺をよそに、奴は彼女と顔を見合わせると無邪気な顔でうふふと笑った。
「ところで、ランジャ殿は何故石使いに?」
そら来た。毎度お馴染みの質問だ。こっちもいつもの如く「まぁ、色々とね」と曖昧に答えるが、奴は納得がいかないといった顔でじーっと見詰めて来る。
「なるほど。噂通りの不思議な方ですね。どう見ても神族でいらっしゃるのに、何と言うか……殿上人とは丸で違う雰囲気をお持ちだ」
「俺は野良なんでね。神都も初めてならエスネの森も初めてだ。宮殿の門すらくぐった事ァ無ぇよ」
肩を竦めながらの言葉に、奴は「えっ」と声を上げて驚いた。
「そうなのですか? 噂では、さる司祭猊下の御落胤と伺っておりましたが……」
「ほぉ。殿上人にまで知れ渡ってるとは光栄だな。そう言う噂になってるんなら、そう言う事にしといてくれや」
「おかしいです。司祭は私の養父を含めて五名しかいらっしゃらない上に、今までどなたにもそういった噂はありませんでした」
「何だよ。やけに食い下がるじゃねぇか」
にやっと笑う俺に、奴も何やらしたり顔で得意そうな微笑を浮かべる。
「御落胤の噂が真実でないとしたら、もう一つの噂はどうですか?」
「まだあンのかよ。あれか? 俺がディエシーの異母弟だって噂か?」
「いいえ。『雷神の御子』です。以前、邸を訪れる商人から、ロアルデ北方にて蘇った御子の噂を聞いたことがありました。曰く、石使いに身を窶した神族がそれであると。ひょっとして、貴卿は神界から遣わされた御子様なのではありませんか?」
何だこいつ? よもやいずこからの差し金ではあるまいななどと身構えた時だ。
それまでにこにこと微笑ましげに聞いていた夫人が、何故かころころと柔らかな声を上げて笑い出した。何事かと、ベニカまでもがカップを持ったままびっくり顔で彼女を見上げる。
「あぁ可笑しい。嫌ですわドミニク殿。それを仰るなら、神界で産まれた私たちだって同じではありません事? それに、身元の不確かな者を、ホルザレン会が正式な石使いとして承認するかしら?」
奴は面食らった様子で、「それはそうですが……」などと呟きながら、俺と顔を見合わせるが、
「人様の秘密は、無闇と探るものではなくてよ」
と窘められると、俄かに頬を染めて恐縮した。
「も、申し訳ありません。つい、好奇心に駆られてしまって……」
どうやら悪気はないらしい。「まぁ、いいさ」と言ってやると、ほっとしたように微笑んだ。
まったく、ベニカのような世間知らずの少女ならいざ知らず、大の男が無垢と言うか純粋というか……。殿上人ってのは、みんなこいつみたいな無菌培養の温室育ちなんだろうか。
今の今まで抱いていた、権謀術数に長けた冷徹な策士どもと言ったイメージとは随分かけ離れていて、何だかちょっと拍子抜けだ。
思い返せば、夫人にしてもカレル大親方にしても、のほほんと暢気でどこか浮世離れした御仁だよな。
「そう言えば、ドミニク殿は参内を許されたばかりとお伺いしましたけど」
「はい。昨年の秋に任官致しました」
夫人の優しい口調での問いに、奴は頬を紅潮させて意気揚々と答える。
「左様でしたの。それで、宮中は如何?」
「素晴らしい所です。神界もかくやとは聞いておりましたが、宮殿も庭園も、殿上人の佇まいも皆、雅やかで美しくて……。私などは、回廊を行き来する巫女や女官に目を奪われて、師兄に叱られる日々です」
言いながら肩を竦めて見せる奴に、夫人は「あらまぁ」と柔らかな声で笑い、うっとりと聞き入っていたベニカとアリサは顔を見合わせて微笑む。
「中でも、中央神殿の賢者の間は凄い。丸で別世界です。触れるだけで開く神章の扉や、真昼のように明るく輝く壁には驚きました。
あの部屋は、嘗て神界の入り口だったと伝えられているそうですが、まさにこの世のものとは思えない場所です」
なるほど。どうやら中央神殿も、辺境の神殿と同じ神炉の間を備えているようだ。
補助脳に反応する認証用アイコンも、それに連動する壁面照明も、新米神官殿には、きっとこの世ならぬ代物に見えるんだろう。
「そうそう、先日、賢者へのお目通りが叶いました」
「まぁ、それは凄いわ。ドミニク殿は素質がおありなのね」
少しばかり興奮気味の言葉に、夫人も思わず身を乗り出す。
「ドミニク様、賢者様にお会いになったのですか? 賢者様とは、一体どんなお姿でいらっしゃるのでしょう」
興味津々と言った様子で瞳を輝かせるベニカに、奴は笑って静かに首を振った。
「お姿は見えないのですよ。神炉の中で眠りに付くと、夢の中で御声だけが聞こえるのです。とても優しい、温かい御声でしたよ」
ちょっと待て。クレイドル経由で繋がる先なんてのは、普通なら医療セクションのサーバか、登録情報の管理をしてる基幹システムが精々だろうよ。
どっちも一方通行で、こっちからの呼び掛けに応じるなんて聞いたことも無い。まさか、セリオンみたいに、不具合に乗じて潜り込んで来る愉快犯が他にもいるって事なのか? ああいう手合いが賢者を騙って司祭どもを翻弄してるんだとしたら、こいつは笑えねぇ冗談だぞ。
ベニカは憧れの宮中に思いを馳せて、いつものように重ねた両手を胸に当て、うっとりと夢見る眼差しで溜息をついているけど、俺は何やら薄気味の悪い悪寒が背中を這うのを感じていた。
「素晴らしいわ。きっと司祭へ御昇任の日も遠くはないでしょう」
「私は司祭よりも、聖下の御為に戦う『聖騎士』になりたいのですが……。父には反対されてしまいました」
奴が少しばかり悔しそうな苦笑を浮かべると、夫人は「それはご尤もだわ」と寂しげに首を振って見せた。
「『聖騎士』?」
「神界の守護を担う騎士の事です」
俺の問いに、奴は誇らしげに答える。
「私は、幼い頃から神聖騎士団に憧れておりましたが、神官として養育された神族の身では、剣に触れる事すら叶いません。ですが、聖騎士となれば、聖下の御為に戦うことが出来ますから」
「随分と穏やかじゃねぇな。一体何と戦うって?」
「神界より聖下に仇成すもの全てです。地上世界での守護が神聖騎士団ならば、神界での守護が彼らの役目です」
何やら判った様な判らない様な回答だけど、恐らく、奴さんも詳しい事は聞かされちゃいないんだろう。
一人前とは見られていても、まだ十代の若造が語る夢だ。凡そ他愛ないものには違いない。取り敢えずは「なるほどね」と適当な相槌でも打っておくとするか。
「それに、私は神界をこの目で見てみたいのです。賢者と共に神界を旅することが出来たなら、それは無上の喜びとなるに違いありません」
どうやら、夢見る青年神官殿の好奇心は底無しの様だ。実際の神界が、紛い物ばかりが犇めく地底の箱庭と知ったら、その落胆は想像するに難くは無いな。知らぬが花って奴だ。
「またお邪魔してもよろしいでしょうか?」
帰り際に奴は俺たちに窺うような顔で訊ね、夫人から「是非御出でになって」と笑顔で告げられると、丸でベニカのようにぱーっと顔を輝かせ、丁寧に礼を言うと、アリサと共に嬉しそうに帰って行った。やれやれ。すっかり懐かれちまったか。
「ドミニク殿は素直でイイ子ね。でも、少し心配だわ。あの好奇心の強さが仇にならなければいいけど……」
四頭立ての立派な馬車が門へ向かうのを見送りながら、夫人は寂しげに呟いて小さな溜息をつく。
確かにご心配はご尤もだが、あの年頃の野郎なんて、みんなあんなもんじゃないですかね。
ベニカお待ち兼ねの宝石商、フィリベール氏は、翌日の朝一番でやって来た。何でも、俺が仕事で留守になると聞き、職人を急かして大急ぎで仕上げて来たらしい。
旅支度のまま応接間で受け取った品物を、彼の説明を聞きながら検めて見たが、丁寧な仕上がりで文句無しの出来だった。
代金を支払い、彼が「またの御贔屓を」と満面の笑みで邸を辞すると、俺が手にした天鵞絨張りの赤い小箱を見上げ、わくわくそわそわしているベニカに気付き、思わずクスと笑みが零れた。
「こういう物を手渡す時の、こっちの世界の流儀ってのを俺は知らないんだが……」
少しばかり茶化した物言いで切り出した俺を、彼女はきょとんとした顔でぱちくりと瞬く。
「俺のいた世界じゃ、こうやるんだ」
言いながら徐に跪くと、彼女は慌てて抱き起こそうと、小さな手を差し伸べようとするが、にやっと笑って目の前に小箱を差し出し、そっと蓋を開けて見せると、中から現れた指輪に歓声を上げ、緑色の大きな瞳を輝かせた。
「結婚して下さい」
その一言に、彼女は弾かれたように顔を上げる。
「結婚して下さい。この指輪は婚約の証です。どうぞ受け取って下さい」
「ランジャ様……」
「家族になろう、ベニカ。但し、カミさんにするのは大人になってからな。それまで俺はお前の親父だ」
言いながら小さな指輪を取り出し、ただでさえ大きな目を更に真ん丸に見開いたまま、俺の顔をじーっと見詰める彼女の左手を取ると、小さな細い薬指にそっと嵌めた。
窓から差し込む朝の光の中で、白銀の百合の花が、薄桃色の真珠を包んで控え目に輝いてる。
彼女はそれを夢でも見ているかのように呆然と見詰めていたが、突然溢れて来た涙をぽろぽろ零すと、いきなり俺の首に抱き付いた。
「夢じゃありませんよね?」
「あぁ。夢じゃない」
「本当ですよね。おからかいになってるんじゃありませんよね?」
「何言ってんだよ。本当だって」
何度も何度も念を押す彼女に、思わず苦笑が浮かぶ。
「お待ちしていました。その御言葉を、ずっと、ずっと……! 大好き、ランジャ様。大好き、大好き……」
涙でぐしゃぐしゃになりながら、何度も頬擦りする彼女の髪を優しく撫でながら、そっと抱き締める。小さくて痩せっぽちで温かくて、純真で泣き虫で夢見がちな、未だ幼い俺の許婚。
「今日からまた出掛けなきゃならないけど、ちゃんと食べてちゃんと寝て、友達と沢山修行して沢山遊んで、心配せずに待ってるんだ。いいな?」
両手で包み込んだ頬の涙を指の腹で拭ってやると、彼女はこくりと大きく頷く。袖口で目元を拭おうとして、嵌めたままの指輪に気付くと慌てて外した。
「あっ。何か書いてあります」
内側に彫り付けた文句に気付いたようだ。両手で持って暫くの間小さな文字に目を凝らしていたが、困惑顔で俺を見上げる。
「読めません……」
アルコロジーで使われてた公用語だから、地上人の彼女には読めなくて当然だ。文言を書き付けたメモをフィリベール氏に内緒で手渡した時、彼は文字を見て、「ほぉ、これは神界文字ですな」と感心した顔で呟いてたっけ。
「『無垢なる者へ永遠《とわ》の幸を』」
「『無垢なる者』……?」
「お前の事だよ。俺は無垢なお前が大好きだ。どんな辛いことがあっても、お前の幸せそうな顔を見れば帳消しになっちまうくらいにな。だから、お前にはずっと幸せであって欲しいんだ」
「私、幸せです。ランジャ様のお側に置いて貰えるのなら」
「俺たちはもう家族だよ。ずっと一緒だ。お前を幸せにするためには、時々仕事にも行かなきゃならないけどな」
そう言って肩を竦めて見せると、彼女は少し寂しげに微笑んで小さく頷き、手にしていた指輪を箱にそっと納めると、蓋の上からぎこちない仕草で口付け、大切そうに頬擦りした。
「じゃぁ、行って来るよ」
「どうぞ御無事で」
頷きながら立ち上がって荷物を手にすると、優しい微笑を浮かべたまま、黙って俺たちを見守っていてくれた夫人を振り返る。
「ベニカをお願いします」
いつものように言って会釈する俺に、彼女は静かに頷く。
「あなたがベニカさんの父上になるのなら、私はお祖母様になりましょう」
「アレーネ様、そんな、畏れ多いです」
言いながら慌てて駆け寄るベニカに、彼女はそっと身を屈めると、いたずらっぽく微笑んで見せた。
「私も長らく独りだったけど、可愛らしい孫と素敵な息子を一度に持てるなんて嬉しいわ」
「え? 息子って、俺っすか?」
面食らいながら自分を指差す俺に、彼女は澄ました顔で、
「えぇ、そうよ。精々親孝行に励んで頂戴ね」
なんぞとおどけた口調で言ってのけると、くしゃくしゃ頭を掻きながら苦笑する俺をよそに、ベニカと顔を見合わせて楽しそうに笑った。