どうやらこの手のチェス盤は、どこの宿屋の酒場でも備え付けてあるものらしい。
この日以来、夕食が済むと決まって大親方から勝負を持ち掛けられ、小銭を賭けての対局に付き合わされる羽目になった。
大抵の場合は大親方の総取りで終わるんだけど、ベルも意外と強い。のっけから鴨られてお終いの俺なんぞは、最後まで盤を挟んでの睨み合いを続ける二人を置いて、先に寝ちまうもんだから、勝負の行方を知るのは、翌日の朝飯の席なんて有様だ。
「で、昨夜はどっちだったんすか?」
俺の気の無い質問に、大親方は大きな溜息と共に額に手をやると、大袈裟な仕草で頭を振る。それを受けてのベルのしたり顔を見るあたり、どうやら彼女の勝ちだったらしい。
「凄いなベル。ホルザレン会の古株を手玉に取る何て大したもんだ」
その言葉に気を良くしたか、ベルは「どういたしまして」と余裕の笑顔だ。
「ランジャ君も中盤まではいい勝負じゃないか。なのに、手詰まりになって考え込むと、途中で眠ってしまう。実に勿体無い」
苦笑気味に嘆く大親方に、「悪い癖でしてね」とくしゃくしゃ頭を掻いて見せると、ベルは可笑しそうにくすくす笑う。
「あなたとチェスをする時は、気付け薬が必要ね」
「いや、遠慮しとくよ。それで負けたら面子が立たねぇや」
俺が情けない物言いで肩を竦めると、二人は声を上げて笑う。こんな連中だ。一見すれば暢気な旅行者としか思えないだろう。
俺たちをつけ回していた一団も、離れたテーブルで朝食を摂っていたが、疑惑を見当違いと思ったか、互いに目配せを交わすと、早々に宿を引き払う事にしたようだ。
鼻歌交じりの上機嫌で帰って来たディエシーには目もくれず、支払いを済ませるなり、そそくさと出て行った。
奴は面食らった様子でそいつらを見送っていたが、俺と目が合うと意味深な笑みを浮かべた。
「よう、昨夜はどうだった?」
「ベルナデット嬢の勝利に御座います」
席に着きながら問う奴に、大親方は悔しそうな振りをしつつ、慇懃に頭を下げて見せる。
「おお、御大と互角たァ凄ぇな。今夜の一杯はお前さんに奢って貰わにゃ」
奴が片目を瞑りながら指を差すと、ベルは「お任せを」と微笑みながら、上着の上から懐を叩いて見せた。
「そっちは?」
「あぁ、ビヨンに会った」
給仕が運んで来た朝食を頬張りながら、事も無げに言う奴を、全員が注視する。
先行するリノ一行から連絡事項がある場合は、奴とビヨンが宿場町で一番とされる娼館で落ち合う事になっていた。
「彼は何と?」
「向こうにも御贔屓さんが付いたそうだ。で、何とか凌いだらしいが、相手は少々ややこしい連中みたいでな」
「ややこしい連中?」
俺が聞き返すと、奴は鋭い眼差しで周囲を一瞥してから、
「詳しい事はここを出てからだ」
と言ってにやりと笑い、水代わりの葡萄酒を煽った。
朝食を済ませた後、身支度をして宿を引き払う。
みんな奴の言葉を待っているようだったが、奴はいつに無く警戒している様子で、一向に話を切り出す様子を見せず、日暮れ時に森の中の廃駅に宿を定めるまで、その話題に触れる事は無かった。
「で? 今朝言ってた御贔屓さんってのは?」
いつまでも切り出さない事に焦れた俺が話をせっつくと、奴はベンチに横になったままスキットルをあおっていたが、「おう」と答えるとのろのろと起き上がり、その声に集まった一同を見回してにやりと笑った。
「ビヨンの話によると、襲って来たそうだ」
「えぇ?!」
「何と!」
「殿下は? ご無事なんですか?」
俺たちは慄然として顔を見合わせたが、奴の「無事だ」の一言に、取り敢えずは安堵の溜息を漏らした。
「して、賊の正体は?」
「判らねぇんです。どこのどいつで、何が目的やら」
厳しい表情で問う大親方に、奴は少しばかり呆れた様子で肩を竦めて見せる。
「何ですと?」
「寝静まった頃に野営地へ踏み込んで来て、問答無用で掻っ攫おうとしたのを、連中の剣技に気圧されて逃げてったらしいんだが、賊はリノ一味を見て、『貴様ら何者だ。若君を何とする』とほざいたそうだ」
「強盗か山賊か……しかし若君と呼ぶあたり、オルロフ卿の正体は見破ってるようだ。一体何が目的なんだ?」
奴と俺の言葉を受けて、大親方もまた眉根を寄せて腕組みをすると、「ふむ……」と低く唸る。
「でも、リノたちの正体までは知らないところを見ると、向こうにはまだ、私たちの計画を気付かれていない証左でもあるわね。賊の襲撃は憂うべき事ではあるし、警戒するに如くは無いけど」
重くなった空気を払拭するかのように、幾分力を込めて言うベルの声に、奴もまた不敵な笑みを浮かべると、
「我らが姫様には御慧眼であらせられる」
と茶化し、彼女から苦笑を返されていた。
国境の峠を臨む宿場町は、荷車を引いた商人や、出稼ぎの人足で賑わっていた。
暗君の悪政に耐えかねて、一家で国を離れる者たちなのか、宿屋にはくたびれた様子の家族連れも何組か逗留していて、深刻な顔で行く末を話し合う親たちの足元では、事情を知らない幼子たちが無邪気にはしゃぎ回っていた。
ここでは既に到着していたナーダル卿一行が、俺たちとの合流を待つ手筈になっている。
この街じゃ一番大きな店だし、国境警備隊の詰所にも近いので、妙な連中が何か企んだとしても、おいそれとは動けないと踏んだらしい。
宿泊手続きを済ませ、部屋が整うのを待っていると、カウンターで支払いをしていた女の傍で、5歳くらいの少女が俺たちを振り返り、ベルが優しい笑顔を向けると、にっこりと可愛らしい笑顔を返してくれた。
待っているのが退屈なのか、彼女は繋いだままの母親の手を、大きく振りながら歌を歌い始める。舌ッ足らずなたどたどしい歌声に、その場に居合わせた皆が微笑ましげに振り向いた。
大河レルトは遥かに流る
銀の水面《みなも》は女神の御髪《おぐし》
実る麦穂は豊かにそよぐ
黄金《こがね》の沃野は女神の裳裾
何処かで聞いた事のある歌だと思ったら、レカンダへの道中でニーナが歌っていた、あの調子ッぱずれな祭唄だ。
思わず最後の一節を歌声に合わせて口ずさむと、それを聞いた彼女は母の手を放して俺の元へ駆け寄るなり、嬉しそうに顔を輝かせて見上げた。
「赤い目のおじちゃん、おじちゃんもこのお歌を知ってるの?」
「あぁ。友達に教えてもらったんだ。ソムル村の祭唄だって聞いたけど、あんたもそこの子かい?」
「ううん。あたいはカルナン村だよ。これはソムルのお歌じゃないよ。城下のお歌だよ。城下のお兄ちゃんに教えて貰ったの」
「え? そうなのか」
「うん」
彼女が大きく頷いた時、母親が慌てた様子で連れ戻しに来た。
「まぁ神使様……! ウチの子がとんだご無礼を……」
「いや、構わねぇよ。明るくてイイコだ」
恐縮しながら何度も頭を下げる母親を、彼女は不思議そうに見上げながら、
「しんしさまって、なぁに?」
と訊ねる。
「聖下にお仕えする、とても偉いお方よ」
の答えを得ると、外へと手を引かれて行く途中でふと俺を振り返り、
「さよなら、しんしさまのおじちゃん」
と小さな手を振ってくれた。
その可愛らしい仕草に、笑みを浮かべつつ手を振り返す俺の傍へ、ベルは静かに歩み寄ると、窓外の夕映えの中へ遠ざかって行く親子の後姿を見送りながら、小さな溜息をついた。
「黄金の沃野か……。きっと昔はそうだったんでしょうね。今は見る影もないけれど、本来レルト河畔の地味はとても豊かだと聞いたわ」
「あぁ、ニーナもそんな事を言ってたよ。あいつの故郷も、嘗ては見渡す限りの麦畑だったってさ」
「そうだったの」
優しい口調で言い、ふと寂しげに微笑むと、彼女は柔らかくハスキーな声で、少女の歌を小さく口ずさむ。
一度聞いただけで正確に覚えてしまうのは、無意識のうちに補助脳を使っているからなんだろう。神章を持つ監査の連中が、皆若くして親方並みの権限を許されているのは、石読みの技術や術譜の習得が、桁外れに早いが故なのかも知れない。
「歌にある女神とは、聖下のことなのかしら」
「恐らくは、我らが神祖かと」
歌い終えてぽつりと呟く彼女の問いに、穏やかな声で答えたのはサデアスだった。
「そうか、フィンデールの神祖は、美と豊穣の女神ティファレスだったわね」
彼女の即答に、彼は「左様」と深く頷く。
「懐かしい唄だ。ニーナが機嫌のいい時によく歌っていた。あの少女は、この祭唄が城下で流行していると言っていたが、もしかすると、城下に流れて来たソムルの民が、昔を懐かしんで口ずさんだものが、人伝に広まったのかもしれない」
その言葉を受けて、大親方は鼻眼鏡を掛け直すと、誰に言うともなく飄々と呟いた。
「神祖の女神を称える歌ですか……。出自を騙る暗君には、さぞかし耳の痛い事でしょうな」