さて、とっぷりと暮れた夜更けの事だ。ふと肩を叩かれて居眠りを覚まされると、対局中だったナーダル卿が目配せした。
見れば、ディエシーの野郎が扉脇の壁に耳を付けて、外の様子に聴覚を研ぎ澄ませている。
俺もまた、手詰まりのまま放置されている盤面を見詰めつつ、隣から聞こえる僅かな物音に耳をそばだてた。
やがて用心深く扉を閉める音を最後に、何事かを囁き合う小声と複数の足音が遠ざかって行くと、俺たち六人は互いに頷き合い、奴の合図を待って音も無く部屋を出た。
チラリと見えた姿は三人。常夜灯に照らされながら蠢く様子を見たところ、どうやら毛布ごと簀巻きにした王太子を担ぎ上げているようだ。
リノは息子の危機を目の当たりにして、一瞬、剣把に手をやったが、ギリと歯噛みしながらも踏み止まった。
距離を置いて物陰に身を隠しながら追っていると、奴らは通用口へ向かう裏階段の下で一旦停まった。
ディエシーは俺たちを無言で制すると、一番身軽なビヨンに、身振りで偵察を指示する。彼は軽く頷き、忍び足で階段を降りて行くと、踊り場の大きな花台の陰へ身を潜めた。
階下から聞こえて来るのは、小声ではあるものの紛れも無くあの子爵の声だ。
奴は苛立たしげに誘拐犯どもを急かし、彼らが出て行く気配と共に扉が静かに閉じられると、今度は大声で使用人を呼ばわった。
「誰かある」
「はい、只今」
遠くで答えた者が小走りに駆け寄って来ると、奴はふふと含み笑いを漏らす。
「仕度をせい。今宵は念入りにな」
「畏まりました」
二人の声が遠ざかり、やがて扉の閉まる音が聞こえると、ビヨンは呆れ顔で俺たちを振り返り、苦笑交じりに肩を竦めて見せた。
やれやれ、既に事は成ったと見て、早々に祝杯の準備か。ガツガツとせっかちな野郎だぜ。
彼の合図を機に、奴らを追うべく階段を降りたところで、夜回り中の下男らしき男と出くわす。が、素早く懐に飛び込んだディエシーが、鳩尾に軽く拳を喰らわせると声も無くくずおれた。
そのまま担ぎ上げて階段下へと隠すと、俺たちは溜息をつきつつ冷や汗を拭い、扉を開けて静かに外へ出た。
一瞬、見失ったかとも思ったが、だだっ広い庭園を注意深く見渡していたリノが、不意に一点を指差した。
遥か先に広がる森の中へ、複数の影が足早に入って行く。その様子は、東の空に掛かる細い月明かりの中でも見て取れた。夜目が効くあたり、さすがは元山賊ってところか。
奴らを追って庭園を横切り、森へ入ると、幽かな月光すら葉陰に遮られて闇が一層濃くなる。
木々の間に身を潜めつつ追跡するが、ディエシーは度々制止の合図を出しては、森の音に潜む賊の気配に耳を澄ましていた。
そんな調子で暫く分け入って行くと、遠くに小さな灯が見えた。恐らくは森番か狩人の小屋だろう。
窓の向こうで動く人影が確認出来るほど近付いた時、小屋の裏手から、馬が鼻を鳴らすのが聞こえた。微かに轅や軛が軋む音もする。馬車が用意されてるのか。そいつに乗せられたらアウトだな。
薄闇に慣れた視界の中で、ディエシーが俺、ビヨン、サデアスを指差し、小声で裏手へ回るように指示する。
俺たちが頷き、足音を忍ばせて遠巻きに裏へと回り込むと、表から奴の指笛が闇を劈いた。
途端に小屋の中が騒然となり、数人がばらばらと飛び出して行く。たちまち響く剣撃の音の中、今度は待ち構える俺たちの目の前へ、王太子を担いであの三人が飛び出して来た。
「させるかァ!!」
雄叫びと共に躍り出たビヨンに続いて、俺たちも負けじと斬り掛かるが、不意を突かれた奴らは劣勢のまま追い詰められ、喉元へ切っ先を宛がわれると、面食らった様子で呆気なく剣を捨てた。
が、その時だ。不意に背後の馬車が走り出した。しまった。既に乗ってる奴がいたのか。
「ランジャ!」
「任せろ」
すかさず剣を捨てて弓を取り、精霊石の矢を三本纏めて番える。
こんな闇夜じゃFCSは使えない。ならば目視と勘と神頼みだ。パラメータは125。発動は当てずっぽうで3秒後を入力。御神祖様なら誰でもいいや。御加護って奴を一丁頼むぜ!
斉射で放った矢が馬車を追い抜き、行く手正面の朽木に突き立った瞬間、落雷に似た爆音と共に裂けた幹が、業火に包まれて燃え上がった。当たったよ、おい。
炎に驚いた馬が棹立ちになり、車体が横転する。御神祖様の太っ腹に感謝しつつ剣を拾い、御者台から転がり出て来た人影に駆け寄ると、そいつは小賢しい事に、すかさず抜剣して挑み掛かって来やがった。
数合斬り結んだ感触では、かなりの手練れと見たが、燃え盛る炎に照らされながら対峙するその顔は、おっとりとして幼さすら感じる程の青二才だ。
小兵ながらバネの利いた体躯を、上品な身なりに包んだ佇まいは、宛ら名門貴族の従騎士といった風情か。
「トゥラシオンの流れを汲む剣技とは。中々やりますね、御子様」
「何?!」
うろたえる俺に、奴は場違いなほど爽やかな微笑を浮かべて見せると、一手強かに打ち据えるなりひらりと飛び退いて身を屈め、
「ならば、これはどうかな?」
の言葉と共に、懐に入れた手から光る何かを放った。
咄嗟に庇った腕に激痛が走り、思わず跪く。瞬時に反応した補助脳に閉鎖されたか、肘から先の感覚が消え失せ、取り落とした剣が大きな音を立てる。
凄まじい毒だ。リカバリセルがフル稼働だってのに、体中が痺れて酷い眩暈がする。呼吸が苦しい。
どうにか動く左手で、探り当てた毒針を抜き去った時、蹲ったうなじに切っ先の冷気を感じた。
「へぇ、まだ生きてるんだ。凄いな」
肩で息をつきながら無理やり抉じ開けた目の前に、磨き込まれたブーツの爪先が見えた。銀の拍車が光る。
「見付けたら殺せって言われてたけど、何だか勿体無いなぁ。あなたなら色々実験出来そうなのに……」
鈍臭いナノマシンめ、これしきの毒に何を手間取ってる。早く分解しやがれ!
「何者だ……貴様……」
「僕ですか? ルジェと申します。御子様に名を尋ねられるなんて光栄だなぁ」
「なん……だと?! 貴様、ケイディ……シアの」
あの毒煙草事件の容疑者が何だってこんなところに……? バルナタートへ逃げ込んでいたとばかり思っていたが……。畜生、こんな時に体が動かないなんて!
「あぁ、そう言えば御子様はあちらでもご活躍でしたね。あれは楽しかったなぁ。あの実験のお蔭でいい薬が出来ましたよ。ちょっと効き目が強すぎちゃったようですけどね」
実験だと? 楽しかっただと? なんて奴だ。狂ってやがる。
「何故、ここに……」
「ヴィスロ殿の御言い付けでね。イルシュ陛下の権勢にも陰りが見えて来たようだから、次に使えそうな人物を見極めに来たんです。どうやら見込み違いだったようですけどね。
あなたこそ何故ここに御出でなのですか? 本当なら、あなたは今頃僕たちのものだったんだ。なのにヴィスロ殿ったら、たかが巫女如きにかまけて逃がしてしまうんだもの。
石使いなんかに先を越されちゃったら殺すしかないじゃないか。まったく残念でならないよ」
丸で、ゲームの負けでも惜しむかのような、気楽な口調で言いやがると、奴はこれ見よがしに大きな溜息を一つつき、両手で剣把を握り直して大きく振りかぶった。その瞬間、不意に体が軽くなる。
咄嗟に足払いを掛けると、もんどりうった奴に飛び掛って馬乗りになった。放り出された剣が音を立てて背後の下草に突き刺さる。
だが、形勢逆転にも拘らず、奴は組み敷かれたまま、俺の顔を好奇心に満ちた輝く眼差しで見上げていた。
「凄いや。僕の調合した毒が効かないなんて……!」
「黙れ偽薬師。貴様らの目的は何だ。何故イルシュ王に、ジョセル王に組する。何故ホルザレン会に敵対する」
「そんなの決まってるじゃありませんか。この世界に神聖を取り戻す為です。あなた方石使いは、魔道を以ってそれを穢した。排除されて然るべきですよ」
「血で穢してるのは手前ェらじゃねぇか!」
「多少の犠牲は仕方ないでしょう? 判ってないなぁ」
のらりくらりと暢気な口調が癇に障る。何だって蓮火幇の連中は、こんな風に神経を逆撫でするような奴らばっかりなんだ。
「本当なら、世の乱れを正すのは『雷神の御子』の筈だ。なのにあなたは石使いどもを滅ぼすどころか、飼い馴らされて言いなりになってる。何故です?」
「俺は御子なんかじゃねぇ」
「ならばあの技は何です? あれを神技と呼ばないのであれば、魔術としか言いようが無い。あなたが魔道師なのであれば、それを亡き者とするは聖下に仕える者の務め」
「うるせぇ。手前ェらの親玉は誰だ。俺を殺りたきゃそいつが来やがれ!」
遠くからビヨンの声が俺を呼んだ。駆け寄って来る足音も聞こえる。すると奴は舌打ちと共に掴んだ砂礫を投げ付けると、俺がひるんだ隙にするりと抜け出した。
「クソ! 待ちやがれ!」
慌てて追おうと飛び起きた時、濛々たる白煙に包まれて、ほの赤く燻る裂けた樹の向こうには、既に奴の影すら無かった。