そんなある日の午後、家令氏との連絡の為に将軍邸へ赴くと、打ち合わせを終えての帰り際に、小姓に呼び止められた。何でも王太子殿下の御召しらしい。
用があるのなら家令氏にでも伝言を頼めばいいものを、直々に話ってのは何事かと訝りながら、案内について行くと、辿り着いたのは邸の中庭だった。
美しく整えられた庭園には、初夏の日差しが溢れている。薫風に満ちる花の香りや、梢のさざめきに触れると、日々の喧騒に忙殺されていた心身も、暫しの間ながら癒される思いがする。
会釈をして邸へ戻る小姓の後姿を見送ると、一つ大きく伸びをしてから王太子の姿を探す。
小径を辿りつつ見渡すと、艶やかな夏の花に彩られた、広大な芝生の真ん中に佇む影を見付けた。
彼はこちらに気付くと、「どうも」とぞんざいに片手を挙げながら歩み寄る俺に、「来たか」と硬い表情で呟くように言って向き直った。
「御主らホルザレン会の働きには感謝している。カレル殿にもそう伝えて貰いたい」
「毎度ご贔屓に。殿下も、美女たちのお相手も夜毎とあっちゃ、お疲れなんじゃないっすか?」
幾分茶化した口調で言ってやると、彼は硬く結んだ口元をにやりと僅かに緩めながら、「何を言うか」と返す。
「だが確かに、大義の為とは言え、世を欺くのは些か心が重いものではあるな。何も知らぬ頃であれば、思い悩むこともなかったであろうが……」
彼はふと目を伏せながら誰に言うとも無く呟くと、何やら思い詰めたような顔で溜息をついた。
悩み事の相談なら、俺みたいな気の利かない鈍感野郎よりも、実父のリノを始めとして、人生経験豊富な適任者が沢山いるだろうに。
「で、話ってのは何すか?」
取り敢えず、聞くだけは聞いとこうと思って切り出すと、その場の空気が俄に緊張を孕んだ。
何だよ。あんまり深刻な話なら、いよいよ以って俺向きじゃないぞと身構えると、彼は決心したように大きく深呼吸をするなり、俺の目を見据えて徐にこう言った。
「ベルナデット殿とは、どういった関係なのか訊ねたい」
「え? どう……ったって、仕事仲間っすけど」
思わずどきっとして戸惑いながら答えると、「まことであろうな」と詰め寄る。その剣幕に圧されつつ「えぇ、まぁ」と曖昧に答えると、何故か彼の眼差しは苛立ちも露な険を含んだ。
「偽りを申すな!」
「え、えぇ?!」
唐突に怒鳴られて面食らってる俺をよそに、彼は煮え滾る怒りを抑えるような口調で続ける。
「ロネルセン子爵の別邸を発つ日の早朝に、御主の部屋から彼女が出て来たのをビヨンが見ている。……夜着にガウンといった出で立ちだったそうだ」
あれま、見られちまったのか。それじゃ言い逃れのしようも無いな。目撃者がお祭野郎のビヨンじゃ、相棒のサデアスやリノには、さぞかし面白おかしく語って聞かせた事だろうよ。きっと彼はそれを耳にしちまったに違いない。
思わず肩を竦めた仕草が火に油だったか、彼は尚も畳み掛けて来た。
「御主には、神都に許婚があるのではなかったか」
「まぁ、いるにはいるけど……」
「ならば何故彼女を……!」
握り締めた拳が震えて、今にも血が滲んで来そうだ。そうか。ディエシーがあの時、意味深な笑みを浮かべながら言った、「恋の鞘当」ってのはこの事だったのか。
「御主には命を救われた恩もある。御主らの力なくして今の私はないという事も、重々に承知している。だが、これだけは……彼女の事だけは譲れない!」
彼が投げ付けた何かが、胸に当たって足元に落ちた。ふと見ると、上物の洒落た手袋が一双。え? 手袋? って事は、まさか……。
「拾え! 拾ってくれランジャ殿!」
うろたえる俺に業を煮やしたか、彼はやにわに剣を抜くと俺の胸元に突き付ける。リノを師匠としただけあって、ロナにあしらわれたいつぞやとは、打って変わったキレのある構えだ。
「彼女は私にとって美神ティファレスも同然。その純潔を穢し、慰み者にするなど言語道断! このような不逞を看過出来ようか。さあ拾え! 剣を抜け! たとえ御主が『雷神の御子』であろうと、恐れはせんぞ!」
慰み者って……。当のご本人が聞いたら、一瞬で膾にされそうだな。それにその言い草じゃ、丸で俺が嫌がる彼女を無理やり手篭めにしたみたいじゃないか。まさか色事師で鳴らす美男殿下の口から、こんな純情極まる台詞を聞こうとは……。
ひょっとして、並み居る美女たちとあれだけ浮名を流しながら、心底本気で惚れたのは彼女が初めてだとか言うんじゃないだろうな。その手の経験は、野暮で鈍感で不器用な俺なんかよりも、遥かに豊富だろうと思ってたのに……。
何だかその青臭い一途さが妙に眩しくて、ふっと笑いを漏らすと、彼の切っ先が更なる殺気を帯びた。
「何が可笑しい! 既に彼女は己のものだとでも申すか!」
「いや、ハナっから俺のものなんかじゃ無ぇよ」
「何?!」
「忘れられない男がいるんだとさ」
手の甲で静かに切っ先を払うと、彼は狼狽も露な眼差しで俺の顔を見詰めたまま、力なく剣を下ろす。
「誰だ、それは……」
「テオドールって名の神官で、彼女の許婚だ。五年前、エスネの森で起きた事件に巻き込まれて死んだそうだ」
「神官……」
「俺に似てたんだとよ。彼女は俺に奴の面影を求めてるに過ぎないのさ。彼女の心は、未だに奴が抱え込んだままだ。手に入れるには、奴の亡霊に挑まにゃならん」
剣を手にぶら下げたまま呆然としている彼に、手袋を拾って差し出してやる。受けて立つ気は無いと理解してくれたか、無言のままおずおずと受け取った。
「そいつを投げ付ける相手は俺じゃない。その亡霊だ。あんたには、奴と……テオドールと闘う気概はあるのかい?」
俺の言葉を聞きながら、彼は俯いて手袋を固く握り締める。
「俺はどうやら勝てそうに無くてね」
言いながらにやりと笑ってやると、はっとして顔を上げる。「ランジャ殿……」と言い掛けたその肩を、ぽんと軽く叩いて「御武運を」と告げると、そのまま背を向けて庭園を横切り、邸内へと向かった。が……。
「何やってんだよお前ら……」
花壇を囲む植え込みに潜む人影へ、半ば呆れた口調で声を掛けると、がさがさと音を立てて最初に現れたのは、苦笑いのディエシーだった。
「おい、試合放棄だとよ。賭けは無しだ」
奴の声に答えて、「何だ」だの「つまらん」だのと呟きながら、ビヨン、サデアス、リノの一味とナーダル卿、それに加えて呆れた事にトビアス将軍まで、葉っぱをつけたままの頭を、極まり悪そうにくしゃくしゃ掻きながら出て来た。
「や、これはしたり」
「これはしたりじゃないっすよ、何なんすか将軍まで……」
「殿下がランジャ殿と決闘となれば、勝負の行方を見定めるのも我らの務め。いや、貴卿も中々の手練れと聞き及んでおったので、その、万が一の時には助太刀を、と……」
ナーダル卿が巨体を屈め、何やらしどろもどろに言い訳してる横で、
「で、どうせなら賭けようって話になってさ」
と、ビヨンがおとぼけ顔でしれっと言ってのけ、「な」とリノたちを振り返ると、連中はにやにや笑いながら、「まぁ、そう言う訳だ」と臆面も無く答えて、脱力に更なる疲労感を上乗せしやがる。
そんな俺をよそに、「やれやれ」なんぞと言いながら歩み去る将軍たちを、苦笑交じりの溜息で見送っていると、彼らの後ろでディエシーがふと振り返った。
「疑似餌が潮時を報せて来た。そろそろ釣り上げるぜ」
奴は不敵な笑みを浮かべ、親指を立てて見せる。
「俺とナーダルが走らなきゃ、女神の裳裾は翻らないッてんなら、一丁走ってやるかってとこョ」
その言葉に、先を行くナーダル卿も足を止めて振り向いた。
「『豺狼走ラザレバ』、か……。いずれの観戦武官殿か存じ上げぬが、裳裾の中身が気になるとは好色な奴よ。なぁ、ディエシー殿」
そう言って豪快に笑う彼に、奴もまた「まったくだ」と苦笑しながら肩を竦める。
「御大にも伝えてくれ」
と言い残して上階へと上がって行く二人に、「了解」と片手を挙げて応じると帰途に就いた。
はて、了解したはいいが、奴はどうやって城内と連絡を取ってるんだ?
疑似餌役のアルド卿は、情報撹乱で王と側近を翻弄した挙句、警備責任者の座をまんまとせしめたとかで、あれ以来ずっと城内に缶詰の筈だけど……。などと考えを巡らせつつ、通路を急いでいた時だ。
「見て見て! あの石使いさん、神使様よ!」
出し抜けに聞こえた嬌声に面食らって立ち止まると、突進して来た婀娜な化粧の着飾った女どもにたちまち包囲された。
「あら本当! 宴のお客様かしら」
「まぁ素敵。今夜のお相手は是非私に」
「いいえ、私がお相手いたしますわ」
「神使様はどちらの門閥でいらっしゃるの?」
「綺麗な方……。丸でお人形さんみたい」
どうやら足止め喰らってるうちに、娼妓たちの出勤時間になっちまったらしい。
「え、あ、いや、ちょっと、あの」
とたじろぐ俺にはお構い無しに、纏わり付いて来る彼女たちに揉みくちゃにされながら、這々の体で通用口から脱出すると、拾った辻馬車の座席に着くなり特大の溜息が出た。
あんなのを連日連夜相手にしてるのか……。頼り無いと思ってたけど、王太子殿下もああ見えて中々タフなんだな。
で、支部に帰ったら帰ったで、今度は出迎えてくれたベルが俺の顔を見るなり吹き出し、ダフネは顔を真っ赤にしながら「不潔です!」と叫ぶ始末。
思わずカチンと来て「何だよ」と突っ掛かる俺を、ベルは「まぁまぁ」と宥めながら二階へと促す。
自室へと招き入れると、彼女は俺をソファに座らせたまま続き部屋へ入って行き、暫く何やらごそごそやっていたが、程なくして戻って来ると、笑いを堪えながら手鏡を差し出す。
腑に落ちないまま覗き込むと、そこに映っていたのは、顔中口紅だらけの仏頂面だった。
「な、何だこりゃ!」
思わず叫んじまった俺を、隣に腰掛けた彼女は可笑しそうに声を上げて笑う。辻馬車の御者が、こっちを見てにやにや笑ってたのはこれのせいだったか。
門下生の若造や小娘たちが帰った後でよかった。連中に見られでもしたら、何て囃されるか判ったもんじゃない。
「さぁ、こっちを向いて」
俺の頬に細い指先を添えて自分の方へ向かせると、彼女はもう一度クスと笑ってから、洒落た小瓶の蓋を取り、中の液体を手巾に染み込ませると、俺の顔をそっと撫で始めた。
揮発するアルコールがひんやりと肌に涼しい。どうやら化粧水のようだ。仄かに甘い花の香りは、彼女の匂いと良く似ていた。
今になって思えば、殿下の素振りには思い当たる節が度々あった。エイメル邸での「商談」の時も、野宿の夜に忍んで来た時も、そして、この間の舞踏会でも……。
もしかしたら、それはあの山奥の廃駅で、初めて逢った時からなのかもしれない。
聡明で美しく、毅然として凛々しい彼女だ。俺以外に想いを寄せる男がいたって、何の不思議も無いよな。