今日は何だか色々あって疲れた。
珍しく晩飯時に帰って来たディエシーを交えて、持ち寄った情報の交換や、決行の日取りを含めての、今後の方針などの諸々を話し合った後、部屋のベッドに潜り込んでうとうとし始めた頃だ。バルコニーから、カンというような軽い金属音が一度だけ聞こえた。
浅い眠りを覚まされてカーテンの向こうに夜目を凝らすと、叢雲の隙間から差す月光に浮かび上がったのは、小柄な人影だった。
咄嗟にベッド脇の剣に手を伸ばし、音も無く窓を開けて侵入して来た影を見据えつつ、静かに鞘を払う。
やがてしなやかな身のこなしで忍び寄り、ベッドを覗き込んだ気配に切っ先を突き付けると、賊は「おっと」と小さく声を上げて立ち止まり、白い歯を見せながら両手を挙げた。目深に被った粗末なフードを外すと、漆黒の長いポニーテールが翻る。
「よう、久し振り」
剣を鞘に納めながら言ってやると、ニーナはにやっと笑いながらベッドに腰掛ける。サイドテーブルに載った精霊石ランプのシェードを細く開けると、薄明かりに浮かんだ白い顔は、冬に逢った時よりも少し大人びて見えた。
「何だよ。寝込みを襲ってやろうと思ったのに」
「そりゃ大歓迎だな。情に篤い美人盗賊殿」
茶化し気味の口調に、彼女は「何だいそりゃ」と、声を忍ばせながらも可笑しそうにくすくす笑う。
「随分とご活躍のご様子で」
「まぁね。隠し鉱山が潰れちまったんで退屈だし、だったら、前に言ってた秘密の計画でもやろうかって話ンなってさ」
「今度は城下で義賊をやってるって?」
「そんな大層なもんじゃないさ。王子様が動き易くなる様に、下地を作ってるってとこだよ」
「何だよその下地って」
「城下のみんなを味方につけるんだよ。『大河レルト』もその一つさ。まぁ、たまたまだったんだけど、御神祖様の歌だってみんなが勝手に解釈してくれたんで、いい具合に流行ってくれたんだ。みんなあたいよりも上手く歌うんで、ちょっぴり面白くないけどね」
なるほどね。秘密の計画ってのは、王太子支持の宣撫活動だったか。
「なのにさ、一体何なんだよあれは」
彼女はいきなり毛布の上から跳び掛かって来ると、獲物を捕らえた豹の様に、顔を近付けて潜めた声を荒げた。
「あたいらが折角味方を増やしてやったってのに、毎晩毎晩女侍らせて乱痴気騒ぎだなんて、王子はどうしちゃったのさ。あれじゃ丸っきり元通りの盆暗じゃないか。
隠れ家で約束してくれたのは嘘だったのかい? リノはあいつに騙されちまったのかい?」
早口で捲くし立てるところを、「まぁまぁ待て待て」と宥めると、俺の腹に跨ったまま、憤懣やるかたないといった顔で大きな溜息をつきつつ腕組みをする。
「ありゃ王子の側の『秘密の計画』さ」
「え? 何それ」
ぱちくりと片目を瞬かせる彼女に、
「取り敢えず降りてくれ。喋りにくいから」
と言うと、顔を赤らめながら慌てて飛び退き、起き上がる俺と向き合って胡坐を組んだ。
「で、その計画って?」
「まぁ、言ってみりゃ目晦ましってとこさ。何しろ『秘密』なんでね。あんまり詳しくは言えないが……」
「ひょっとして、マウロがやってる仕事も関係あるのかな」
「マウロ? 奴が何をやってるって?」
「何か、スランフール侯爵様に頼まれて、使いッ走りやってるみたいだよ。酒屋に化けて城門へ酒樽を届けるついでに、言伝を貰って来るだけとか言ってた。
何だか知らないけど、『金狼の旦那、金狼の旦那』って、すっかり懐いちまってさ。エンツォが焼餅焼いてやがるよ」
そうか。城内のアルド卿との連絡に使ってるのか。貴族の子弟でもある小姓じゃ面が割れてるし、使用人じゃ機密保持に不安があるけど、「口も堅いが義理にも堅い」と言ってのけた彼なら適任てとこだな。
「王子なら大丈夫さ。お前らは引き続き『味方を増やす作戦』てのを頼むぜ」
「しょうがねぇな。他でも無ぇ『雷神の御子』様の頼みとあっちゃ、やらないわけにゃいかないね」
生意気な口調と共に突き出した拳へ、苦笑しつつ軽く拳をぶつけてやる。
「城下のみんなが言ってる『御神祖様の御世』ってのは、今よりいいのかな」
「良くなってもらわにゃ困る。でなきゃ、お前のお袋さんだって帰って来れねぇだろ?」
「え? 母ちゃん? 母ちゃんに会ったのかい?」
咄嗟に四つん這いになって身を乗り出すと、切なげな表情で俺の顔を覗き込んだ。大胆不敵な女盗賊でも、やっぱり母ちゃんは恋しいか。
「あぁ、セブランでな。エブロイス侯爵様ってェ大貴族の別邸で、女中をやってたよ」
「大貴族の女中かぁ……。じゃぁ、きっと稼いでるんだね。母ちゃん、元気だった?」
「あぁ、元気だった。お袋さん、お前にそっくりだな。結構美人だったぞ」
言いながら片目を瞑ってやると、えへへと照れ臭そうに笑う。
「何でも、高利貸しに騙されて、村ごと人買いに買い叩かれたんだそうだ。帰って来れないのはその為だって言ってた」
「そうだったのか。じゃぁ、借金が棒引きンなりゃ帰って来れるのかな。だったらあたい、街中の高利貸しから証文盗みまくってやるよ」
「で、塔の天辺から撒いてやるってか?」
すると今度は意地悪そうにいひひと笑うが、ふと沈んだ顔になるとぺたんと座り込んで俯いた。
「でも、やっぱり逢えないや。こんな顔じゃ、母ちゃん泣くよ」
「まぁ、そりゃ泣くだろな。可愛い娘の顔にこんな傷を付けられりゃ。だけど、お前がお袋さんを心配してるのと同様に、お袋さんもお前の事を案じてたよ。きっと逢いたいに決まってるさ。やんちゃな幼馴染に嫁いで仲良くやってるって言ったら、良かったって言って喜んでたぜ」
「はぁ? 何それ。あたいが誰に嫁いだって?」
「何だよ。エンツォとよろしくやってるんじゃなかったのか?」
思わず呆れた声を上げる彼女ににやりと笑って見せると、真っ赤になった顔を隠すようにぷいっとそっぽを向く。
「リノが、ダレン伯爵が数百倍の男前になって城下に帰って来たんだ。あんな御節介野郎になんぞ構っちゃらンないね」
「そうか。リノに逢っちまったのか」
言いながらくすくす笑うと、「何だよ。逢っちゃ悪いのかよ」と口を尖らせる。
「マウロが心配してたぞ。ありゃまずい。焼け棒ッ杭に火が着いちまうって」
「余計な御世話だ。焼け棒ッ杭も何も、あたいが好きなのはずーっとリノだけだよ。……もっとも、顔見たのはつい二、三日前だけどね。
何だか照れ臭くてさ、顔だけ見られりゃいいやと思って、こんな風に将軍の御邸に忍び込んだんだ。で、さっきみたいに寝顔を覗き込んだら、突然腕を掴まれてさ。
こちとら口から心臓が飛び出すかと思ったのに、にやっと笑って『歩く癖で判るぞ。ニーナ』だって。寝た振りしてやがったんだよあの野郎。人が悪いよな」
悪態じみた口調で愚痴るけど、頬を染め、残った右目を生き生きと輝かせながら夢中で喋る姿は、ダフネたち小娘軍団と少しも変わらない、どこにでもいる普通の少女だ。
「あいつも山猫団の噂を聞いたとかで、『無茶するなよ』って口付けしてくれた。まぁ、おでこに軽くだけどね。相も変わらずの子供扱いさ」
苦笑交じりに肩を竦めて見せ、猫のように音も無くベッドから飛び降りる。
「あんたも、あんまりベル姐さんにちょっかい掛けてると、ベニカが妬くよ」
大きく伸びをしながらの言葉に、思わずカッと頭に血が昇るが、
「な、何だよ、覗いてたのかよ。悪趣味だぞ」
とうろたえる俺をよそに、彼女は、
「えぇ? 何をォ?」
なんぞととぼけながら、意味深ににやっと笑って見せる。
「このマセ餓鬼め!」
と、伸ばした手をひらりとかわすのを追って、満月の煌々と照らすバルコニーへ出ると、手摺の端に鉤縄が掛けられているのに気付いた。
どうやらこれを伝って忍び込んだらしい。彼女はそいつを握りながら、「じゃぁね」とひらひら手を振ると、攀じ登った手摺から不意に宙へ身を躍らせ、闇に沈む裏街へと消えた。
その日、俺は裏通りのタリスの薬屋を訪れていた。
店先には、去年ベニカがよく座っていた椅子がそのまま置かれていて、近所の野良猫が日陰の涼風を求めて寝そべっていたが、俺が顔を出すと、面倒臭そうな顔で一瞥してからのろりと飛び降り、悠然とした足取りで店の裏へと去って行った。
「よう、頼んでおいた奴、出来てる?」
「これはランジャ様! ご無沙汰しております」
タリスは作業の手を止めると、驚いたような声を上げながら、いそいそとカウンターから出て来た。
「ディエシーさんからのご注文の品でしたら、親父が支度しておる最中です。奥へどうぞ」
「あぁ、悪ィね」
「ベニカは元気ですか? 背は伸びたかな?」
「御蔭さんで。ちょっとは伸びたけど、相変わらずちびすけだ」
言いながら苦笑して見せると、彼は朗らかに笑いながら奥へと続く扉を開けてくれた。
階段脇を擦り抜けて狭い廊下を行くと、突き当りの部屋から微かな物音が聞こえて来る。軽くノックすると「どうぞ」の声が返って来た。
「毎度。ホルザレン会っす」
林立する大きな薬瓶に埋もれていたフラム師は、入り口に建つ俺を分厚い老眼鏡をずらして見遣ると、破顔一笑するなり椅子を立って迎えてくれた。
「おぉ、これはランジャ様。お久しゅう御座います。どうぞこちらへ」
「どうもご無沙汰。悪ィね、急がせちまって」
「何、簡単な処方ばかりですので。しかし、酔い覚ましや強壮剤は兎も角として、毒消しやら
彼が眉間に皺を寄せながら手に取る赤い小瓶の中で、小さな琥珀色の結晶が涼やかな音を立てて転がる。
中身はルラトイ山の登山道で焚かれている、強烈な幻覚効果を齎す香だ。今回ディエシーの野郎が注文したのは、あれよりも薬効を弱めたものらしい。
「宴の余興に使うんだとさ」
肩を竦めながらにやっと笑ってやると、彼もまた得心顔でにやりと返す。
「なるほど、左様で御座いますか。はてさて、如何なる宴になりましょうか……。
この度はお嬢様がお見えでないので、私共も少々安堵しております。もしも御出でになられたら、どんな薬を調合なさることやら」
「ロナのことだ。これっぽっちじゃ生温いとでも言い出すに違いないな」
その言い草に彼は軽やかな声を上げて笑い、薬の入った袋を手渡しながら、
「神祖カーリャの御加護を」
と呟くと、何やら含んだ表情で片目を瞑って見せた。
長老薬師ともなれば、こちらの情報なんぞ全て把握済みに違いない。大方、高みの見物ってとこだろうな。
思わず苦笑を浮かべながら、袋と共に差し出された伝票を受け取ると、そこには宛先以外何も書かれていなかった。
「え? これって……」
「セブランでは、薬師たちが御世話になったと聞きました。私からも御礼申し上げます」
俺の言葉を遮るように深々と頭を下げる彼を、戸惑いながらも慌てて制する。
「いや、俺は救ってやれなかったんだ。礼どころか、謝らなきゃならないのはこっちの方だよ」
「何を仰いますやら。有望株を一人、助けて下さったではありませんか」
訝しむ俺をよそに、彼は目を細めながら言葉を継いだ。
「ジェイドですよ。利発で飲み込みの早い子だと、リコナも感心しているそうです。あれはいい薬師になりますよ」
あぁ、ハシュエルの国境で拾った、あの仔猿みたいな見習い薬師か。
リコナの寛大さには感謝すべきだとは思うけど、大切な跡取りを死に至らしめた一味の残党を受け入れるには、容易ならざる葛藤があっただろう事は想像に難くはないな。
「彼のお蔭で、僅かではありますが、蓮火幇の内情に関する情報も入手出来ました。これを元に、大薬師長から、『ホルザレン会を我らが剣とし、その盾となるべし』との御達しも出ております」
「で、これ?」
手にした伝票をひらひら振ると、彼は、
「甚だささやかでは御座いますが」
と微笑みつつ深く頷いた。
「先だっては、旧蓮火幇の生き残り全てが聖山に赴き、現蓮火幇を名乗る輩とは無関係であることを大師に宣誓しております。
実際、ジェイドの受けたという修練は、正法とは掛け離れた歪なものでした。彼のように、年端の行かぬ子供に邪法のみを覚え込ませて、手下として使い捨てている様子。
ラトリ亡きあと、幇主を名乗っている人物が何者なのかは、未だ不明ではありますが、このような外道が罷り通るは、我々正法の薬師にとっても、甚だ遺憾で御座います故」
「なるほど。連中は俺たち共通の敵となった訳だ」
「如何にも。剣を持たぬ我ら薬師でも、戦う術はあります」
「そいつは心強い。恩に着るよ」
挨拶代わりに手にした袋を軽く掲げて見せると、彼の会釈を受けて店を後にした。
やはり現蓮火幇はナクルタツリとは無関係か。だが、ロナや監査の連中の見解によれば、奴らの薬術や暗殺法は、紛れもなく蓮火幇のものだと言う。だとすれば、奴らは一体、どこの誰からその技術を手に入れたんだろう。
もしも宮廷や評議会に関係者が紛れ込んでいるのならば、その情報は宮廷薬師から聖山へ齎される筈だけど、イスカは幇主は殿上人ではないと言っていた。
あの女狐の証言を鵜呑みにするのは些か癪ではあるけれど、長老たるフラム師ですら奴の正体を掴めていないのなら、不本意ながらも信じざるを得ない。