俺たちは随分と長い時間、部屋の前の廊下でうろうろと歩き回ったり、座り込んだまま扉を凝視したりしていた。
大親方の老体を気遣って、ニコライが小声で休息を勧めていた様だが、
「年寄り扱いとは随分じゃないかね?」
と茶目っ気たっぷりに断られ、皆と疲れた顔で苦笑を見交わしたりもしてたけど、それ以外は誰もが重く押し黙ったままだった。
漸く扉が開かれると、現れたフラム師に全員で駆け寄る。
彼は俺たちの顔を見回すと、
「傷がはらわたに達していました。何とか一命は取り留めましたが、予断を許さぬ状態です」
と、厳しい顔で告げた。
殿下は唇を噛み、拳を握り締めながら聞いていたが、「かたじけない」と硬い口調で短く答えていた。
血と薬品の臭いの充満する室内へ静かに招き入れられると、朝日がカーテン越しに柔らかく照らすベッドの上で、リノは静かな寝息を立てていた。
薬が効いているのか、殿下が小声で「父上」と呼び掛けても反応は無い。
「殿下もお疲れで御座いましょう。お休みになられた方がよろしいかと存じます」
血塗れの器具を片付けながら、タリスが心配そうに進言するが、彼はリノの寝顔に視線を置いたまま、無言で力無く首を振るばかりで、ベルに「殿下……」と優しく促されても頑として動こうとしない。
その様子に、彼女は小さく溜息をつくと、彼の為に枕元へ椅子を用意しながら、皆と困惑顔を見交わす。
が、俺と目が合った瞬間、何かを思い付いた様子ではっとした顔になると、フラム師に歩み寄ってそっと耳打ちした。
彼は幾分怪訝そうな顔で彼女の言葉を聞いていたが、深く頷くと、サイドテーブルに林立する薬瓶の中から黒い一本を選び、中から丸薬を一粒取り出した。
彼女はそれを手に殿下の元へ戻ると、
「殿下、御無礼を御赦し下さい」
と一言詫び、やおら丸薬を口に含むと、自分を見上げた彼の頬を掌で優しく包むなり、何事かと見守る俺たちの目の前で、いきなり口付けた。
一同呆気にとられる中、ビヨンが思わず口笛を吹き、ダフネはニコライとびっくり顔を見交わす。
殿下が目を白黒させながら、口移しに押し込まれた丸薬を飲み下すと、彼女は女神の微笑を浮かべて見せ、「これはこれは……」とにやにや呟く大親方を振り返ると、いたずらっぽい仕草で肩を竦めた。
件の丸薬は眠り薬だったようだ。彼が敢え無く陥落すると、彼女は傍らのソファへと促し、優しい手つきでそっと毛布を掛けた。
タリスはその様子をにこにこ見守りながら後片付けを終えると、施療院へ行くと言って部屋を出て行った。修行に来ている薬師たちにも、手伝ってもらうことにしたらしい。
折良く戻って来た将軍からも、城内の使用人から助手の手配をとの申し出があり、城内挙げての看護体制になるそうだ。フラム師の口振りでは状況は厳しそうだけど、何とか回復して欲しいもんだ。
あとは専門家に任せるとして、俺たちも一先ずは休息を取ることにした。
ビヨンは、自分も看護要員に入れてくれと食い下がっていたようだったが、サデアスに、
「何だ。御主もベル殿の接吻が欲しいのか?」
と茶化されると、「おうよ、願ってもねぇや」と返し、当の彼女からは苦笑交じりに睨む振りをされていた。
部屋を出て何気なく振り返ると、ベルが丁寧な拝礼と共に、静かに扉を閉めたところだった。
俺の視線に気付くと、そっと歩み寄って来て、不安と疲れを滲ませた眼差しで見上げるが、
「どうした。疲れたか?」
との問いには、軽く首を振って見せた。
「何だか怖いの……」
「怖い?」
「大公に……レヌス卿にもしもの事があったら、殿下は二人の父君を失うことになってしまうわ。私如きが殿下のお力に何てなれるのかしら……」
いつもは毅然として豪胆な女剣士なのに、こんな時の彼女は脆く儚げで、つい抱き締めたい衝動に駆られる。
だが、既に彼女は殿下のもの、明日の王后陛下だ。俺なんぞが気安く触れていい相手じゃない。
伸ばし掛けた手を諦めて軽く溜息をつき、「何言ってンだか」と笑ってやると、怪訝そうな顔で小首を傾げる。こんな可愛らしい仕草を間近で見られるのも、あと少しか……。
「御后様がそんな弱気でどうするよ。殿下が弱音を吐いた時に、尻を叩いてやるのがあんたの役目だろ?」
「でも……」
「大丈夫、あんたならやれるさ。傍にいて、微笑んでやればいい。微笑んで『大丈夫』と言ってやるんだ。殿下も言ってたろ? それだけで神祖の加護にも等しいってさ」
そう言ってやると、彼女は重ねた両手をそっと胸に当て、「神祖の、加護……」と、言葉を噛み締めて祈るように呟く。
答えを求めるように再び見上げる顔に深く頷いてやると、不安げに揺れていた銀の瞳は、決意を秘めた鋼の色に変わった。
「そうね、しっかりしなきゃ。殿下の御為にも」
己を叱咤するような力強い口調で言うと、父子の眠る部屋へと踵を返す。
その後ろ姿を見送っていると、ふと立ち止まって俺を振り向き、「有難う」と微笑んでから扉の向こうへと消えた。
さようなら、俺の仔鹿。若き両陛下に、神祖ティファレスの加護有らんことを。
マグノリエ大公ことダレン伯爵重体のニュースは、騎士団や同志貴族の間だけでなく、一般兵や使用人たちによって城下へも瞬く間に広まった。
当初は、突如現れた謎の大公として、様々な憶測を呼んだようだったが、十八年前に暗殺された筈の悲劇の伯爵と判明するや、噂好きな連中によって、たちまち美談として伝わったらしい。
何でも、実は彼が今回のクーデターの首謀者で、正義漢たるトラビス、ナーダル両将を率いて暗君を退け、奪われた妃と王太子の為に玉座を捧げた、救国の英雄として持て囃されてるとか。
強ち間違っちゃいないとは思うけど、当の本人が聞いたら、「勘弁してくれよ」とか言って苦笑いしそうだな。
彼は二日目の夜には目を覚ましたそうで、呼び掛けに頷くなどの反応を示してるらしい。小康を得たってところなんだろうけど、フラム師によれば、まだまだ予断を許さぬ状態らしい。
その一方で、小娘たちの噂の的は、専ら王太子の求婚劇のようだ。
毎日毎日、大親方の御供で城へ召し出される俺やニコライ、果てはダフネと共に精霊石の配達で出入りしている連中まで、帰ったところを捕まえては取り囲み、城内に缶詰めになってるベルの現状を、根掘り葉掘り聞き出そうとする。
「姉様、侍女や女中さんたちにも慕われてるみたい。てきぱきと城内を取り仕切る姿は、王太子殿下よりも凛々しいって評判よ。
殿下も大公の御怪我で塞いだ御様子だったけれど、姉様に『父君も死魔と戦っておいでです』と励まされてからは、精力的に政務を果たしておられるそうなの」
些か大袈裟な物言いで、興奮気味に声を弾ませるダフネの報告に、彼女を取り囲んだ小娘軍団は、仕事もそっちのけで興味津々に聞き入っている。
「さすが姉様だわ」
「婚礼の儀が楽しみ。きっと素敵でしょうね」
「パレード見物は最前列を陣取りましょう。みんなで手を振らなきゃ」
「姉様お綺麗だもの。ローブも宝冠もお似合いになるわ」
「新しい宰相や尚書の中には、婚礼の儀の日取りさえ決まっていないのに、もう『陛下』なんてお呼びしてる方もおいでになるくらいなの。
姉様も、それにはちょっと困ってらしたけど、何だかとても幸せそうで、一層お綺麗になったように見えたわ」
「あーぁ、只でさえ高嶺の花だったのに、とうとう雲の上にまで攫われて行っちまったか」
尚も続けるダフネの言葉を受けて、若造の一人が大きな溜息と共に嘆くと、他の連中も口々に同調する。
玉の輿談義ではしゃいでる小娘軍団をよそに、どうやらこちらは死屍累々ってな有様のようで。
「無理も無いさ。我らが女神様を、あの好き者殿下が放っておく筈がない」
「地位も名誉も無い俺たちは、指を咥えて見てるだけかぁ……」
「だよなぁ。聡明な上にあれ程の美女だ。心を動かされない奴は男じゃないぜ。なぁ、ニコライ」
唐突に水を向けられると、ニコライは笑顔で相槌を打っていたそのままの調子で、うっかり「当然だ」なんぞと答えちまう。そうなると小娘どものいい餌食だ。
「あらぁ、そんなこと言っちゃっていいの? ニコライ」
「兄様、これは問題発言よ」
「聞き捨てならないわねぇ」
「ニコライ兄様は堅物だと思ってたけど、これは中々油断がならないかも。ね、ダフネ」
許婚の失言を聞いていなかったのか、
「え? え? 何何?」
と身を乗り出して来る彼女の様子に、彼はたちまち真っ赤になって、
「い、いや違うんだ。これはあの、その……」
と訳の判らない言い訳を始める。そんな二人を見て大爆笑だなんて、ここの連中も人が悪いと言うか何と言うか……。
不意に開いた扉から顔を出した石使い氏に呼ばれ、これ幸いと席を立った彼に、今度は、
「臆したか子爵殿!」
とからかい半分の声が飛ぶと、
「相手が悪い。一先ずは退却だ」
と笑いながら出て行った。
彼の一族も、新政権から名誉回復の内示を受けたそうだ。
子爵ともなれば領地の経営に加えて、騎士団への出仕も科せられる。腕を見込まれれば神聖騎士団への抜擢もあるだろう。
上流階級を遠く離れ、石使いとしての生活に慣れ親しんだ彼にとっては、些か荷が重いようで、暫くは信頼の置ける伯父に代官を任せ、騎士としての技量を磨きながら、ホルザレン会を通じての人脈形成に努めるらしい。
とすると、ダフネも来年は子爵夫人か……。ベルを羨ましがってるようだけど、こちらも中々玉の輿だと思うぞ。