大親方への早馬は、マルデリの宿に帰った早々に出した。
翌朝には、監獄城から戻ったディエシーと合流したが、奴の疲れ果てた様子からして、結果はお察しだった。
朝っぱらからの自棄酒に付き合った後、悪酔いの後始末は道々リカバリセルに任せる事にして、取り敢えずは神都へ戻り、そこで大親方からの返事を待つことにした。
休暇って気分じゃないけど、殿上人様とのコネも無い俺たちには、何かしようたって出来る事なんて何も無いしな。
何だかもう、糞野郎の奸計にまんまと嵌められた屈辱感と徒労感で、心身ともにボロボロだ。
こんな時は、女の柔肌にでも甘えたい気分だけど、真っ先に脳裏に浮かんだのは、ベルの妖しく誘う美しい裸身ではなく、ベニカの屈託のない笑顔だった。
前回神都を出てから早三月か……。きっとまた成長しただろう。エスネの森に向かう九十九折を辿りながら、早く逢いたいような、でも少し怖いような、複雑な思いを抱きつつ拍車を当てる。
森を抜けて邸に辿り着くと、馬丁に手綱を預けながら、彼女の部屋のバルコニーを見上げる。
が、いつもなら蹄の音を聞き付けて、身を乗り出すように覗いてる筈の、無邪気な顔は無かった。
たちまち萎んじまった期待感に、溜息をつきつつ玄関へ向かう。そう言えば、今日は平日だったっけ。まだ昼過ぎじゃ、今頃は修行の真っ最中だろうなどと思い返しながら大扉を開くと、居合わせた女中が気付いて、「お帰りなさいませ」と笑顔で迎えてくれた。
彼女に荷物を預けながら、報告書には何て書こうかと気の重い算段をしていると、長い廊下の幾つ目かの角から、ひょこっと小さな頭が覗いた。
続いてひょこひょこと同じような小さな頭が並んでこちらを伺う。そのうちの一つが「ランジャ様!」と嬉しそうに叫ぶや否や飛び出して、一目散に駆けて来る。
何だ、居るんじゃないか。隠れてたなんて悪戯な娘だと苦笑しながら待ち構えていると、すんでのところで立ち止まり、困ったような顔で自分の両手と俺の顔を交互に見た。
何をやってたんだか知らないけど、両手ばかりか、身に着けた可愛らしい前掛けまで粉だらけで真っ白だ。
どうやらこのまま抱き着いてはいけないと躊躇しているようだ。が、
「構うもんか、来い!」
と腕を広げてやると、ぱーっと顔を輝かせていつものように飛び付いて来た。
また少し背は伸びたけど、相変わらずの痩せっぽちな体の重みと、頼りない程の柔らかい温もりと、ほんの微かな甘い匂いが懐かしい。
「ランジャ様、ランジャ様、お帰りなさい」
抱き上げて抱き締めると、俺も彼女も粉だらけだ。夢中で頬擦りした後、俺の頬に顔の下半分を全部押し付けるような、熱烈な口付けで歓迎してくれる。
その鼻の頭にも粉が付いてるのを見て、思わずクスと笑うと、彼女は恥ずかしそうに指先で払い除けた。
「お帰りなさい、ランジャ様」
「御邪魔してます」
足元から聞こえる可愛らしい声を見下ろすと、彼女の親友のラケルとシーラに加えて、銀髪で色白の少女が、葡萄色の瞳で眩しそうにこちらを見上げていた。
「ただいま、ようこそ」
と答えながらベニカを降ろしてやると、彼女に駆け寄って「モイラです」と紹介してくれた。
「やぁ、初めまして」
と言ってやると、ぺこりと会釈して白い頬をぽっと染める。彼女もまた粉だらけで、それがぽっちゃりした容姿とも相俟ってマシュマロみたいだ。
「何だかみんな真っ白で、丸で粉屋か水車番だな」
と笑う俺の言葉に、彼女らは初めて気付いたように顔を見合わせると、互いの顔に付いた粉を指差して笑い合った。
「精霊祭の為の御菓子を作っていたんです」
頬に付いた粉を払いながら、ラケルがはきはきと答えると、その隣からシーラが恥ずかしそうに、
「カリナさんに教わって」
と補足する。
「精霊祭?」
「石使いのお祭です」
俺の問いに、ベニカが意気揚々と答えた時だ。厨房のある角から、香ばしく甘い香りと共に、お抱え料理人カリナの三角巾を被った頭が覗き、ホールの真ん中で俺を囲んではしゃぐ少女たちに向けて、「焼けましたよ」と明るい声を張り上げた。
歓声を上げて駆け去る彼女たちの後ろで、ベニカは何を思ったか、ふと立ち止まると俺の元に駆け戻って来た。
「応接間で待ってて下さい。ランジャ様にも味見して欲しいの」
「了解。任せろ」
そう言って片目を瞑って見せると、彼女はうふふと嬉しそうに笑うが、俺のクロークの裾が焼け焦げていることに気付いてはっとすると、一転、心配そうな半泣きの顔で見上げる。
「あぁ、野宿の時に、うっかり焚火で焦がしちまったんだ。本部に行って新しいのと換えてもらうさ」
少しばかりおどけた口調で肩を竦めてやると、ほっと溜息をつき、今度は、
「もう、ランジャ様ったら」
と、苦笑交じりの呆れ顔になった。
厨房へ駆けて行く小さな後姿を見送ると、二階の自室へ上がって旅装を解く。着替えを終える頃には、玄関に入る寸前まで圧し掛かっていた陰鬱な気分が、いつの間にやら無くなっている事に気が付いた。
彼女の存在は、まったく以て滋養薬かクレイドルのようだななどと思いつつ、応接間のある階下へ降りて行くと、アレーネ夫人が家令氏を伴って上がってくるところに出くわした。
「お帰りなさい、ランジャ殿。お疲れ様でした」
「只今戻りました。長らく留守にしまして申し訳ありません」
くしゃくしゃ頭を掻きながら詫びる俺に、夫人はそっと首を振って優しく微笑んでくれる。
「丁度良かったわ。これからドミニク殿もお見えになるのよ。あなたも如何かと思って呼びに行くところだったの。賑やかなお茶会になりそうで楽しみだわ」
「つい先程、ベニカ料理長に、毒見役を仰せ付かったところに御座います」
幾分芝居掛かった仕草で慇懃に頭を下げて見せると、彼女は家令氏と顔を見合わせ、「あらまぁ」と言いながらころころと柔らかい声で笑った。
アレーネ夫人と連れ立って応接間へ入ると、ちびすけたちがカリナや女中たちと共に、笑いさざめきながら賑々しく席をを整えているところだった。
程なくして来客の気配があり、ノックに夫人が答えると、家令の案内で入って来たのは、新米神官のドミニクと、その侍女のアリサだった。
ベニカたちも何やら野郎の来訪に慣れた様子で、俺の留守中に、こいつが度々邸を訪れていることが窺い知れた。
「御無沙汰しております。中々御出でにならないので、いつお逢い出来るかと心待ちにしておりました」
奴は俺の顔を見るなり小走りに駆け寄って来ると、無邪気な笑顔で言いながら、勝手に掴んだ手を上機嫌でぶんぶん振る。
丸ですっかり懐いた子犬だ。こいつに尻尾があったなら、きっと千切れんばかりに振ってるところだろう。そう思ったら、何やら端正な王子様顔なのに、ワンとでも鳴きそうな気がして、思わず吹き出しちまった。
それを見てアリサも可笑しそうにくすくす笑う。いつぞやの骨折もすっかり癒えたようで、既に添え木も包帯も無く、立ち居振る舞いも垢抜けて、更に綺麗になっていた。
「元気そうだな」
と言ってやると、
「御蔭様でこの通りに御座います」
と、嬉しそうに微笑んでくれた。
どうやら準備が出来たようで、俺たちは小さな菓子職人たちの案内で席に着く。
用意された皿の上には、小さく可愛らしい菓子が並べられていて、少女たちが身を乗り出し、これはジンジャーブレッド、これは胡桃のクッキー、こちらは干しパイナップルのマフィンなどと、競う様に説明してくれる。
アレーネ夫人もドミニクも、最上流階級の育ちで舌も肥えているだろうに、どれもこれも美味しい美味しいと褒めながら口に運び、その都度安堵の笑みを見交わす少女たちの様子に目を細めていた。
日頃あまりこう言ったものは、好んで食べる方じゃないけど、疲れた体が甘味を欲してるのか、俺もまた勧められるまま手に取っていた。温かい茶と共に、じんわりと心が和んでいく。
「ところで『精霊祭』って何?」
「石使いのお祭です」
俺の問いに一斉に答えた彼女らは、図らずも揃ってしまった自分たちの声に、顔を見交わして楽しそうに笑う。
「春分と秋分は精霊の休日なんです」
「日頃働いてくれている炎の精霊と氷の精霊を労う日なの」
「御神祖様が始めたそうです」
榛実のビスコティーニが思いのほか旨くて、思わず手を伸ばした二つ目を掲げながら、
「じゃ、これは精霊への捧げ物?」
と尋ねると、今度は一斉に首を振る。
「本部や神殿で売るんです。売上金は施療院に寄付するの」
「姉様たちは薬草茶を淹れるんですって」
「門下生たちで神祖バーゼルのお芝居もやるんです」
なるほどね。要は学園祭みたいなものか。ホルザレン会の理念である「神と社会への貢献」ってのを、実地で体験させようって目的なんだろう。
ドミニクも俄然興味津々な様子で聞き入っている。こいつは相も変わらず下々の暮らし振りを知りたがっているようだ。
「神祖バーゼル……。それが石使いの始祖なのですか?」
意外そうな顔で聞き返す奴に、少女らは「はい」と元気良く頷く。
「バーゼルは北方三国の最北、ケテルに伝わる神の名。それを祖としているとは、ホルザレン会も中々に歴史のある組織なのですね」
「結成は、神祖の御世と伝えられておりますわ。聖下の御為に神殿を構え、神炉を置いたのもバーゼルの御業と伝えられているとか。
会長のキール殿が金鵠宮への御召しに与れるのも、きっとその御偉功の賜物なのかも知れませんね」
優しく柔らかな口調で言葉を継ぐ夫人の声に、瞳を生き生きと輝かせて耳を傾ける彼らだけでなく、俺もまた甚く興味をそそられた。祭壇だけでなく、神殿も神炉も石使いの手に成る物だったとは……。
いつだったか、ベルやカレル大親方から、石使いが神殿の管理を任されるようになったのは、二十一年前に聖旨が下されて以来だと聞かされたけど、殿上人ってのは、元々からして石屋が作ったインフラの上に、ただ乗っかってるだけの存在なんじゃないかとも思えて来る。
ひょっとして、エレイン親方の言っていた「ホルザレン会の本来の使命」ってのは、ここいらへんにあるんじゃないだろうか。
「その、神祖のお芝居は私たちにも観せて貰えるのでしょうか?」
ドミニクの質問に、彼女らは「勿論です」「是非いらして下さい」「御忍びでどうぞ」と、満面の笑顔でいそいそと答える。
「私とベニカが、精霊の役をやるんです」
頬を染めながら控え目に言ったのはモイラだ。声もまたマシュマロみたいにふわんと柔らかい。
「私は赤毛だから炎の精霊で、モイラは銀髪だから氷の精霊なんですって」
何やら得意そうに長い編み下げの先を握って見せるベニカは、少しばかり興奮気味な様子だ。
「それは素敵だ。ぜひ観に行かなければ。ねぇ? アリサ」
「まぁ、若様ったら。またイサベル様に叱られますよ」
声を弾ませながら自分を振り向く奴を、彼女は苦笑交じりに窘める。
きっとこの調子じゃ、アリサばかりを連れ回して、度々城下へ繰り出しているに違いない。許婚が焼餅を焼くのも頷けるってもんだ。
「ところで、ランジャ殿は、どちらに御出でだったのですか? 随分と長い間ご不在だったようですが……」
奴は俺を振り向くと、茶菓を片手に気楽な口調で問うが、「フィンデール」と一言答えた途端、「何と」と呟きながら慌ててカップを置き、俄かに瞳を輝かせて身を乗り出して来た。
夫人も少女たちも向こうの噂を耳にしていたか、幾分驚いた様子で顔を見合わせると、揃って俺に注目する。
「あちらは大変な騒ぎだったのではありませんか? 宮中でも政変の噂で持ち切りです。城下は、国内はどんな様子であったのか是非お伺いしたい」
日頃は下界の雑事などどこ吹く風と言った殿上人も、さすがに国境を接する隣国の政変ともなると、無関心ではいられないってとこだろう。
「まぁね、大変と言えば大変だったかな。こっちじゃどんな噂になってるって?」
「何でも、王太子が神祖を継ぐ者として忠臣と共に民衆を率い、王に退位を迫ったとか。
嫖客として名を馳せていたのも、暗君に叛意を悟られまいとする奇計であったのならば、若年ながら早くも明君の兆し、と、師兄方の間でも専らの評判です」
どこから仕入れた情報なんだか知らないけど、概ね正確に伝わっているようだ。
やんちゃ王子の買い被られ様に、少しばかり苦笑を浮かべつつも、
「まぁ、そんなとこだ」
と答えてやると、奴は何やら得意げな微笑をアリサに見せる。
「それにしても、暗君イルシュはどうにも赦せません。神祖の血統を騙り、畏れ多くも聖下の御許し賜うた玉座を穢すなど、言語道断です。
アステリオ城幽閉の刑に処されたと聞きましたが、王族として厚遇するなど、大騙り如きには分不相応だとは思われませんか?」
奴は白い肌を俄かに朱に染め、整った眉を顰めて、穏やかな口調ながらも率直に怒りを表す。
「祭司長猊下の御詮議があるんだとさ」
と呆れ気味に言ってやると、
「左様に御座いましたか」
と言いながらも、憤然として納得のいかない様子だ。が、どうやら宮中に届いてる噂はここまでのようだ。
あの二人の囚人が不審死を遂げた何て続報が届きでもしたら、普段は静かなこの森界隈でも、きっと蜂の巣をつついたような有様になるだろうな。
「宮中からも枢機卿が一人、詮議に掛けられる為にしょっ引かれたって話だけど?」
幾分カマを掛けつつ訊いてやると、今度は一転、面食らったように「えっ」と声を上げて目を瞬かせ、同様に驚いた様子の夫人と顔を見合わせる。
「何でも、王のやらかしたあれこれに関わりがあるらしい。ヴィスロって野郎なんだが、宮中では一体どんな人物で通ってたんだ?」
「どう、と申されましても……。評議会とはあまり接点がありませんので、どういった方が御出でなのかまでは、私のような新参に窺い知る事は難しいです」
俺の問いに、奴は申し訳なさそうな口調で肩を竦めると、夫人を振り返り、
「御存知ですか?」
と尋ねる。
彼女は優しく微笑んで、
「とても有能な方と伺っておりますわ」
と答えてはくれたが、ふと窓の外を遠く見遣りながら、
「そう、ヴィスロ殿が監獄城へ……」
と呟く表情は、何やら呪詛を解かれたかのような安堵を覗かせていた。