27-1
その夜の事だ。晩飯を食った後、報告書を少しでも片付けておこうと文机に向かっていると、小さなノックが響いた。
振り返りながら応じると、細く開いた扉から夜着姿のベニカがこっそり覗き、きょろきょろと辺りを見回してから、足音を忍ばせてそーっと入って来る。
その様子に思わず小声で「どうした?」と尋ねると、小走りに駆け寄り、背伸びをしながら俺の耳元に顔を近付けて、
「アレーネ様に見付かると、笑われちゃうから」
と囁いた。何だ。内緒で添い寝をして貰おうって魂胆だったか。だけど、これじゃ何やら夜這いみたいだぞ。
苦笑しつつ時計に目を遣れば、既に良い子はおねむの時間だ。続きは寝かし付けた後にするか。
書き掛けの書類はそのままに椅子を立つと、彼女はいそいそと寝室の扉を開け、薄暗がりの中をベッドに駆け寄ってぴょんと飛び乗る。
そのはしゃぎようにクスと笑いを漏らしつつ、精霊石ランプのシェードを細目に開け、上着を脱いで横になると、彼女は世話女房よろしく大人びた手つきで毛布を掛け、隣に潜り込むと嬉しそうにしがみ付いて頬擦りして来る。
「精霊祭には、必ず来て下さいね」
「勿論。芝居も観なきゃならんし、手製の菓子も買わなきゃならん。週末は大忙しだ」
少々おどけた調子で言ってやると、俺を見上げてにこっと微笑んだ。
「一緒に精霊役をやるモイラには、五つ離れた石読みの姉様がいるの。一昨年ご結婚されたばかりなんですって」
「へぇ。あの子の姉さんじゃ、さぞかし美人だろう」
すると彼女は一瞬拗ねた呆れ顔になるが、にっといたずらっぽく笑って「美人です」と答える。どうやら泰然自若も板に付いて来た御様子で。
「その姉様がこの前、生まれたばかりの赤ちゃんを連れて、本部に遊びに来てくれたんです。みんなで見せて貰ったの。
ふわっとミルクの匂いがして、ほっぺが桃色でぷくぷくしてて、凄ォく可愛かった。髪の毛もぽわぽわで、手なんか、こんなにちっちゃいの」
自分の手だって十分小さいのに、その小さい手でさらに小さい輪を作ると、瞳を輝かせながら俺に見せる。
そう言えばいつだったか、クレイグんとこの三つ子を見た彼女に、こんな子供が欲しいと言われて散々咽せた事があったっけ。
「ねぇ、ランジャ様」
「ん?」
「赤ちゃんて、どうやったら出来るのか、知ってます?」
一撃で心臓がひっくり返る必殺の質問。
思わず「え、えぇっ?」とうろたえながら訊き返す俺の顔を、彼女は意外な反応だと言わんばかりに、びっくりしたような顔できょとんと見詰める。
まさか俺が留守の間に、口さがない誰ぞから要らん知識を仕入れて、無闇な耳年増になんぞなっちゃいないだろうな。
まだどきどきしている心臓を宥めつつ、試しに、
「知ってる。キャベツ畑で採れるんだぜ」
と、年甲斐も無くカマトトぶってみると、
「それは違います」
ときっぱり否定されてしまった。畜生、何だか嫌な汗が出てきやがったぞ。
「じゃぁ、何だよ」
と半ばヤケクソ気味に訊いてやると、うふふと意味深な笑いの後に、
「幸せな気持ちが赤ちゃんになるんです」
との得意げな答が返って来た。
その可愛らしくも他愛無い回答に、何やらどっと排出された疲労感と共に妙な安堵感を得ると、思わず腹の底から特大の溜息が出る。つくづく心臓に悪い問答だ。
「モイラの姉様が教えてくれたの。旦那様に抱き締めて貰うと、心が幸せな気持ちで満たされるから、それが一杯になった時に赤ちゃんになるんですって」
「あーなるほどね」
だが凄い理屈だ。
「だったら私にも、もうすぐ赤ちゃんが出来るかもしれません」
いやいやいやいや無理無理無理無理。何やら物凄く期待に満ちた顔で言ってのける彼女が可笑しくて、笑いを堪え切れない。
思わず肩を震わせる俺の顔を、緑色の大きな瞳が不思議そうに覗き込む。
「いや、多分出来てないと思うぞ。残念ながら」
一頻り笑ってから何とか息を継ぎつつ言ってやると、あからさまに落胆した顔になる。
「そうですか……。私、今までランジャ様に沢山抱き締めて貰ったから、きっと赤ちゃん出来るくらい一杯になってると思ったんですけど……」
「いや、まだまだ足りねぇだろ。お前はまだ子供で体も小さいから、きっと少しずつしか溜まんねぇぞ」
しゅんとして俯く頭をそっと撫でながら言ってやると、
「やっぱり、これも『大人になってから』なんですね」
と、寂しそうに溜息をつく。
「何だってそんなに急いで大人になりたがるんだか……」
「子供のままじゃ、出来ないことだらけです」
「俺が代わりにやってやるよ」
「でも、ランジャ様はお留守です」
涙声で言いながらしがみ付いて来る、微かに震える小さな体を抱き締めながら「ごめん」と詫びる。
そうだよな。寂しいよな。夫人や友達が優しくても、俺の代わりにはならないもんな。お前がいつも笑顔でいてくれるのをいい事に、俺の方こそ甘えていたのかも知れん。
「モイラの姉様も、旦那様が石使いだから、鉱山に入ってしまうと何か月もお留守だそうです。でも、今は赤ちゃんがいるから寂しくないって。だから、私も赤ちゃん欲しいです」
「そうだったか……。だけど、お前にゃまだ無理だ」
「早く大人になりたいです」
しゃくり上げながら言う彼女の濡れた頬を、掌で覆いながら、指の腹でそっと拭ってやる。
「ゆっくり大人になれ。そうすれば、大人になるまでに一杯になるさ。急いで大人になっちまったら、いざって時に幸せの量が足らなくなっちまうぞ」
些か説教臭い物言いながらも優しく言ってやると、彼女は答えを求めるように見上げて来る。深く頷いて見せると、何やら幸せそうな表情で「そうかぁ……」と呟いた。
「納得したら寝ろ。ぐっすり眠って幸せな夢を見たら、きっとそれも勘定に入るぞ」
冗談めかして言ったのに、彼女は素直にこくりと頷くと、「頑張ります」と微笑んで瞼を閉じた。何も夢を見る事まで頑張らんでもよさそうなものを。
思わず微笑を浮かべつつ、毛布の上から小さな背中をゆっくり静かに叩いてやっていると、程なくして静かな寝息を立て始める。
大人になるまでに、ほんの些細な幸せでもいいから沢山溜めておくといい。俺のいない寂しさに負けない様に。
いつもなら閑散として寂しい週末の本部が、今日ばかりは大勢の来客でごった返している。
玄関ホールにテーブルを並べただけの簡素な俄か屋台では、ベニカたち御手製の焼き菓子を始めとして、紙細工に小さな精霊石を入れた玩具のランタンや、綺麗に磨いた色石に革紐を通しただけの首飾りなど、些か不器用ながらも、子供らしく可愛らしい品々が売られていて、ラケルとシーラが他の門弟たちと共に元気な売り声を上げていた。
玄関を入ってすぐの屋台では、年かさの女子門下生たちが、訪れた客たちに薄荷水を振舞っていて、辺りには爽やかな香りが満ちている。男子門下生は案内役に忙しそうだ。
ベニカから是非買ってくれと頼まれていた焼き菓子は、中々売れ行き好調なようなので、品切れにならないうちに一袋買っておく。
玩具のランタンは子供たちに人気な様子で、何人ものやんちゃ坊主たちが、得意げな顔でぶら下げていた。
ドミニクとアリサの主従も、瞳を輝かせて興味深そうに見て回っていたが、どうやら俺の弟弟子と勘違いされているようで、馴染みの鉱夫や商店街のおカミさん連中から、「頑張れよ新入り」だの、「しっかり修行なさいましね」などと励まされている。
当人たちは、最初のうちこそ面食らった顔をしていたが、すぐに慣れて、「はい、頑張ります」なんぞととぼけた返答で応じていた。
気が付くと、二人ともいつの間にか揃いの赤い色石を首から下げていた。御忍びの簡素な平服とは言え、明らかに上物と判る上着の胸元で光るそれは、何だか酷く浮いて見えるけど、二人とも宝物でも得たかのように嬉しそうだ。
「まじない石だそうです。夢が叶うと聞いて買い求めました」
奴はそう言うとアリサと顔を見合わせ、子供みたいに無邪気な顔でうふふと笑った。
「夢ねぇ……。エスネの森に生まれて、殿上人様になって、美人の許婚もいて、それ以上に夢があるなんて、あんたも随分と欲張りだなぁ」
苦笑しつつ呆れた口調で言ってやると、奴もまたにやっと笑って、
「そうです。欲張りなんです」
なんぞと宣う。
「私には聖騎士になる夢があるんです。父にも母にも反対されていますので、実現の為には、石のまじないにも力を借りなければ」
ぶら下げた石をぎゅっと握り締めながら、意気軒昂といった顔だ。そんな主の姿を、アリサは微笑ましげににこにこ見守っているが、
「で、あんたの夢は?」
と水を向けてやると、途端に耳まで赤くなり、
「ひ、秘密です」
とあたふた狼狽える。
その様子は、早速奴の好奇心に火を付けちまったようで、
「秘密? 主の私にも秘密なのか?」
と、興味津々に食い下がられると、
「申し訳御座いません。これだけは御勘弁を」
と、赤い顔のままぺこぺこ頭を下げていた。
大広間から芝居の開演を告げる親方の声が聞こえる。
一斉に移動し始めた客たちに混じって中へ入ると、広い会場一杯に並べられたベンチの向こうには、内陣に手作りの大道具を並べた、急ごしらえの舞台が見えた。
真ん中の列の後方に陣取ると、ドミニクたちはそわそわと辺りを見回したり、顔を寄せ合って囁き合ったりと期待に満ちた様子。
瞬く間に埋まった観客席を何気なく見渡すと、門下生の父兄らしき石使いの姿もちらほら見えた。気が付けば隣の席も石使いだ。
彼は奥方と共に軽く会釈した後、驚いた様子で俺を二度見すると、
「これはこれは……」
と言いながら握手を求めて来た。
「ランジャ様でいらっしゃいますね。お噂は娘から兼ね兼ねお伺いしております」
「あーこりゃどうも御丁寧に。こちらこそよろしく」
そう言えば俺だって父兄の一人だったっけと、今更ながら実感しつつ笑顔で握手に応じていると、窓に次々と暗幕が張られ、騒々しかった会場はひそひそ囁き合う声に包まれた。
暗かった舞台にさっと灯が点り、その光の輪の中に、銀髪の大柄な門下生がクロークを翻して颯爽と現れると、会場からは万雷の拍手が沸いた。
『我が名はバーゼル。聖下の命によりこの地に降り立てり。いざ、暗き世界に光を齎さん』
堂々たる主役振りに再び拍手が沸くが、最前列から、
「いよっ! 待ってました我が息子!」
と野太い声が飛ぶと、慌てた様子で舞台の縁に駆け寄り、立派な付け髭の口元に人差し指を立てながら顔を顰め、
「父ちゃん頼むよ」
と声を潜めて呼び掛ける。どうやら声の主は彼の親父っさんのようだ。
「あー悪ィ悪ィ」
と暢気に答える父親に、あちこちからくすくすと笑い声が漏れ聞こえて来ると、彼は極まり悪そうな様子で舞台へ戻り、顔を赤らめつつも咳払いで居住まいを正した。
『出でよ、炎の精霊。出でよ、氷の精霊』
御神祖様が杖を振り上げて舞台の袖に呼び掛けると、
『お呼びでしょうか、バーゼル様』
の声と共に、ちびすけ二人が軽やかな足取りで駆け出て来た。彼女らの、ひらひらの衣装を纏った可愛らしい精霊姿に、またしても拍手が沸く。
いいぞベニカ。モイラも可愛いけど、お前の方が小さくて可愛らしくて中々の精霊ぶりだ。などと思いつつにやけていると、となりの席からも、
「あぁ、何て可愛いんだモイラ。丸で本物の精霊みたいだ」
なんぞと呟く声が聞こえて、思わず振り向く。
そうか、彼女の親父っさんだったか。向こうもこっちの視線に気付いたか、親馬鹿同士で思わず苦笑を見交わしちまった。
舞台の上では、精霊たちが御神祖様の命令で働く姿を、民草に扮した門下生たちと共に、くるくると楽しげに舞いながら表現している。
やがて大道具係が背景を秋に差し替えると、彼女たちは民の手を離れ、舞台の真ん中に座り込むなり肩を寄せ合って眠ってしまった。
『あぁ、精霊たちよ、何としたことか』
彼女らを前にして大袈裟に嘆く御神祖様をよそに、ベニカはこっそり瞼を開くと、観客席をきょろきょろ見回す。
どうやら俺の姿を探してるらしい事に気付き、苦笑しながら小さく手を振ってやると、一瞬、ぱっと顔を輝かせた後、慌てて瞼を閉じて演技に戻った。
精霊たちを抱きかかえながら途方に暮れる御神祖様に、やがて天から一条の光が差す。
『バーゼルや、そなたも精霊もわらわの為に良く働いてくれた。そなたと同様、精霊にも安息の時を与えようぞ』
顔を上げて仰ぎ見る彼に、鈴を振るような綺麗な声で優しく語り掛けるのは、どうやら女皇聖下役の女子門下生らしい。
声だけの出演のようだけど、一体どんな美人ちゃんやら、ちょいとばかし容姿が気になるね。
『何と慈悲深き御言葉。精霊たちよ、いざ我らも民草と共に聖下の御偉功を讃えん』
晴れやかな表情で高らかに宣言する彼の雄姿に、
「いいぞーアレクセイ! いよっ、男前ッ!」
と再び声が掛けられると、折角の名場面は爆笑に包まれる。
自慢の息子から、
「勘弁してくれよ父ちゃん」
と、げんなりした顔で窘められると、鉱夫らしき風情の大柄な親父っさんが徐に立ち上がった。
何事かと一同固唾を呑んで見守る中、彼が一杯機嫌の赤ら顔で振り返り、
「あー、どうもすんません」
と観客席へ深々と銀色の短髪頭を下げると、更なる爆笑に拍手までが加わって、何とも賑やかな幕引きとなった。
笑いさざめきながら大広間を後にする客たちと、次の催し物目当ての客が入れ替わる中、三人で談笑しながら待っていると、ベニカは着替えを済ませた共演の門下生や、取り巻きの賛辞に照れた様子の主役氏らと共に楽屋から出て来た。
両親の元へ駆け寄ったモイラと、暫し笑顔で手を振り合っていたが、人混みの中に俺たちの姿を見付けた途端に一目散に駆けて来る。
ぎゅっと飛び付いて来たところへ「よ、お疲れ」と声を掛けてやると、えへへと照れ臭そうに笑った。
その顔はいつもの無邪気な彼女なのに、うっすらと舞台化粧の残った唇に、何やら妙に大人びた色気を感じてしまって、不覚にもどきっとさせられちまった自分に呆れたり何かして。
「ドミニク様、アリサさん、こんにちは。お芝居は如何でしたか?」
「やぁ、こんにちは。とても楽しく観させて貰いましたよ。ねぇ? アリサ」
「はい、若様。とても可愛らしい精霊でしたね」
二人に褒められて気を良くしたか、彼女は頬を上気させた晴れがましい笑顔で俺を見上げる。
「よし、名女優に贔屓筋からの御祝儀だ。欲しい物があったら言って御覧」
言いながら抱き上げてやると、唐突な提案に少々面食らった様子だったが、にこにこ見上げるドミニクたちを見回すと、はたと思い付いたように顔を輝かせ、
「みんなで一緒にお茶が飲みたいです」
と答える。
「よっしゃ、どこへ行く?」
と問いながら下へ降ろすと、「御案内します」と軽やかな足取りで玄関へと駆けて行っちまった。
俺たちはその様子に苦笑を見交わしつつ、開け放たれた大扉の前で、早く早くと急かす様に手招きする彼女を追った。