翌週末、俺たちは何の因果かあの劇場にいた。まぁ、先週の精霊祭の礼がしたいとかで、ドミニクの奴が招待状を寄越したからなんだけどさ。
学園祭の俄か舞台ならいざ知らず、止ん事無き御歴々御用達の国立劇場ともなれば、堅苦しい正装は必須。
しち面倒臭い事この上無いと思いはしたものの、手放しで喜ぶベニカと夫人の、ドレスや簪はどれにしましょう、いっそ新調しましょうかとの大はしゃぎを見るにつけ、どうやらそうも言ってられないようで、内心渋々ながら招待を受けることと相成ったのだが、この手の外出は邸を出るところからして大騒ぎだった。
時折、夫人が旧友との茶会だの、宮廷関係者の冠婚葬祭だので、御出座しになる事もあったけど、前の晩から、やれ御召し物がどうの、手土産がどうの、随伴の侍女や近侍は誰にするのと、傍で見ているだけで気忙しい。
それを今朝は俺たちにまで科された訳で、馬車に乗り込む頃には、既に一仕事終わった気分でぐったりだったのだが、劇場に着いたら着いたで、今度は宮廷の古株の御登場を目聡く見付けた御歴々の、引きも切らない挨拶攻勢に遭遇し、個室になってる貴賓席へ入る頃には、一体ここまで何をしに来たのか、忘れそうになる程の有様だった。
尤も、ベニカにとっては初の社交界デビューとなったようで、紹介される面々に教え通りの淑女振りで応対し、その折り目正しくも可愛らしい姿に、度々お褒めの言葉を頂戴しては、夫人共々御満悦の様子だった。
ドミニクは許婚同伴でやって来た。今日ばかりはさすがに気楽な御忍びとは行かないようで、いつもアリサが控えめに微笑んでいる場所には、許婚嬢について来たと見られる、高慢ちきが鼻ッ先に貼り付いているような侍女が立っていた。
「ドミニク殿、本日は御招き有難う。三人でとても楽しみにしていたわ」
「ようこそ御出で下さいました、アレーネ様。ささやかではありますが、日頃親しくさせて頂いております御恩をお返し出来ればと思い、御招きした次第で御座います」
弾んだ声で礼を言う夫人に、奴が満面の笑顔で答えていると、許婚嬢もまた早速進み出て来て完璧なカーテシーを披露する。
「アレーネ閣下には御機嫌麗しく、御目通りの栄に浴し、恐悦至極に存じます」
「こんにちはイサベル殿。私も御役目を辞して久しゅう御座います。アレーネで結構ですわ」
最大限馬鹿丁寧な拝礼に、夫人が微笑ましげな優しい微笑を浮かべつつ、そっと手を差し伸べると、彼女はそれを眩しそうに見上げ、恐縮しきりな様子で応える。
何でも、神祖の御世から続いているとか言う、大貴族の末っ子一人娘だとかで、豪奢な髪飾りで派手に結い上げた漆黒の巻き毛や、手の込んだ仕立ての絢爛豪華なドレスは言うに及ばず、他人に頼り切った様子のとろんとした眼差しや、鼻に掛かった甘え声からも、さぞかしちやほやされて育ったであろうことが窺い知れる、所謂「砂糖菓子の様な娘」だった。
「伯爵閣下の御機嫌は如何?」
と柔らかな声で問う夫人に、早速甘える様に拗ねた顔をしながら、
「相変わらず、狩りに夢中ですわ」
と肩を竦めて見せる。
「我がデアネル伯爵家は、宮廷との所縁も深う御座いますのに、何故あのような穢れに満ちた野蛮な遊戯をお好みになるのかしら。ドミニク様との婚儀も間近だと言うのに、私の立場も考えて下さらないと困りますわ」
そう言いながら紅く塗った唇をツンと尖らせるけど、襟を飾ってる見事な銀狐のティペットは、父君の戦利品じゃないのかね。
「あらまぁ」なんぞといつもの調子でころころ笑う夫人の隣で、心密かに突っ込みつつ苦笑を浮かべていると、今度は俺の目の前にやって来て、こっちにもあの馬鹿丁寧な拝礼をして見せた。
「ランジャ様でいらっしゃいますね? ドミニク様からは度々お話を伺っております。止ん事無き御仁の御落胤でいらっしゃると聞き及んでおりますが、その高貴な御方が何故、石使いなどに身を窶しておいでなのでしょう?」
さて、毎度御馴染みの質問だ。取り敢えずは「まぁ、色々と……」なんぞと言葉を濁しつつ、適当にあしらっておくかと目論んでいると、彼女はそんなのお構い無しとばかりに、こっちの返答すら碌に待たず畳み掛けて来る。
「家の者に訊ねますれば、石使いとは、下々を相手に精霊石を商えど商人ではなく、怪しげな術を以って石の精霊を操れど魔道師ではない、まこと不可思議な者どもであるとか」
「まぁね」
どうやらこっちの言い分を聞く気は無いと見た。「イサベル殿……」と、困惑気味の微苦笑で止めようとする亭主の姿すら目に入らない様子だ。
「僭越では御座いますが、如何な貴人と言えど、いつぞやのようなドミニク様へのご無体を思えば、左様な者たちとの交わりなど、お考え直しになっては如何かと存じますわ」
「はぁ……」
よく喋る女だ。好奇心に直結したような口から、矢継ぎ早に繰り出される、不躾な質問と要らん御節介の連射に、些か閉口しつつ思わずベニカと呆れ顔を見合わせる。いやはや破れ鍋に綴蓋と言うか、似た者夫婦と言うか……。
だけど、「まぁまぁ」と慌てた様子で執り成すドミニクの姿を見ていると、こいつには万事控えめで奥床しいアリサの方が似合いの様な気もする。実際、彼女と共にいる時の方が、奴は心安らいだ様子に見えたし。
身分差は如何ともし難いとは言え、彼女は今頃、どんな思いで主の帰宅を待っているのやら。
序曲が始まると、観客席に溢れていたざわめきは次第に静まり、手摺から身を乗り出して、物珍しそうに階下を見渡していたベニカも、隣の席に一丁前な澄まし顔でちょこんと納まる。
夫人のドレスとお揃いで作ったと言う、大きな銀色のリボンの付いた、桃色の帽子の下から俺を見上げると、期待に頬を紅潮させながらにこっと微笑んだ。
程なくして始まった芝居は、三部形式の堅苦しいオペラ・セリアで、内容も、花の精霊と若い騎士の悲恋と言った、昼寝には丁度いい極めて退屈なものだったが、この精霊を演じたユージェニーなる歌い手は、掛け値無しに素晴らしい歌姫だった。
迫真たる演技力もさることながら、明るく澄んだソプラノで歌い上げるコロラテューラなんぞは、その華奢で儚げな体の、何処から出て来るのかと驚く程の声量。
幕間の休憩にと赴いた喫茶室で耳にした噂によれば、あどけない美貌を縁取る細く柔らかなベビーブロンドや、潤んだように輝く淡い茶金色の瞳とも相俟って、贔屓筋から「金糸雀」の二つ名をも頂戴した、今を時めく人気女優なんだそうだ。
この手の情緒纏綿な御伽噺に目の無いベニカにとっては、どうやら大感動巨編だったようで、騎士の戦死を知らぬまま、野の花となって彼を待つ精霊の、永遠の愛を誓うアリアを歌い上げる山場なんぞは、何とは無しにむず痒い気恥ずかしさを禁じ得ない俺をよそに、ハンカチを握りしめたまま頻りに啜り上げていた。
やがて終幕となり、カーテンコールを見届けてから漸く個室を出る。
この後は、出演者と興行主を囲んでの茶話会なんだそうだ。御贔屓筋御一同様へのファンサービスってことらしい。
休憩を挟むとは言え、さすがに三時間も御行儀よく椅子に縛り付けられていると、背中から腰までバキバキに凝っちまってて、出来る事なら今すぐ帰って堅苦しい衣装を脱ぎ捨て、自室のベッドでだらだらしたいってところだけれど、夫人と顔を寄せ合って、わくわくしながら話し合うベニカを見ている限り、どうやらもう暫く付き合ってやらにゃならんようだ。
上流階級の暮らしってのも、優雅に見えて中々体力を要するものらしい。今後に備えて、いつもの筋トレに背筋強化のメニューも追加しておいた方がよさそうだな。
喫茶室に移動すると、精々二十組程度の客しかいなかった。その大半が、夫人と挨拶を交わしていた宮廷関係者ばかりであることを見れば、貴賓席フロアをそっくりそのまま持って来たと言った風情の、上得意中の上得意ってな面子であることが窺い知れる。
案内された席に着き、饗された軽食と淹れたての熱い茶で一息入れていると、俄かに大きな拍手が沸いた。
皆が注目する入口を振り返ると、衣装のままの主演二人と、興行主と思われる初老の紳士が入って来たところだった。
三人は部屋の中央に進み出ると、列席者たちへ深々と拝礼する。精霊役への賞賛もさることながら、騎士役のテノール氏もまた長身の二枚目で、若い令嬢方から、「ローランド殿」「ファビアン様」と盛んに黄色い声が飛んでいた。
興行主からの、公演の成功と日頃のご愛顧に対する感謝などと言った、退屈極まる挨拶が終わると、漸くお待ち兼ねの、主演者たちによる挨拶回りが始まる。
夫人の列席を見て、俺たちのテーブルを最上位と判断したようで、真っ先にこちらへ歩み寄って来る。
その二人の姿に、ベニカは何を思ったか、あたふたと慌てた様子で椅子を降りると、テノール氏の足元に駆け寄るなり、両手を小さな拳に握ってこう叫んだ。
「ファビアン様は、死んではなりません」
こらこら、虚構と現実をごっちゃにするな。
部屋のあちこちから微笑ましげな笑い声が上がる中、歌姫と面食らった表情を見交わす彼に、
「すんません」
と苦笑交じりに詫びながら席へ戻るように促すと、彼女もはっとして顔を赤らめ、
「あ、ご、ごめんなさい」
と言いながら、そそくさと椅子に攀じ登る。
その様子に、彼はそっと歩み寄ると、
「お嬢様は、心優しい御方でいらっしゃる」
と嬉しそうに微笑み、彼女の目の高さに身を屈めると、よく響く甘い声で続けた。
「ファビアンは名誉に生きる騎士にて、戦に赴くは、陛下への忠義を示さんが為に御座います」
「でも、野の花のガートルードは、森の中でずーっと待ってます」
何やら泣きそうな顔で言い募る彼女に、歌姫は優しく首を振って見せる。
「たとえ永らえたとて、現世《うつしよ》では結ばれぬ運命《さだめ》。されば、永遠《とわ》の契りを結ぶ為、神界にて相見える事を選んだので御座いましょう」
「ガートルードは、それでいいのですか?」
「えぇ、きっと……。彼女はファビアン様に愛された事こそを、幸せと思っていたでありましょうから」
あの澄み切ったソプラノに、どこか物悲しい響きを添えて答える彼女を、ベニカは何やら納得のいかない顔でじっと見上げるが、
「大人になられる頃には、お嬢様にもきっとお判り頂ける時が参りますわ」
との言葉と共に、咲き零れる花の様な微笑を向けられると、やけに神妙な面持ちではいと頷いた。
夫人やドミニクたちとも挨拶を交わし、惜しみない賞賛へ丁重な謝意を述べると、二人は次なる贔屓筋のテーブルへと移って行った。
その後ろ姿をうっとりと眺めながら、ベニカは興奮冷めやらぬ様子で大きな溜息をつく。
「綺麗な人ですねぇ」
その言葉に、二人を振り返りつつ「そうだな」と答えてやってはみたものの、丁寧な拝礼と共に席を離れた時、彼女の体からふわりと香ったものに、不吉な匂いを嗅ぎ取ってしまったような気がして、俺は胸の奥がざわつくのを感じていた。
尤も、令嬢方がそれぞれ着けている香水が、渾然一体となって壮絶な臭気と化しているこの中じゃ、勘違いの可能性も無きにしも非ずだとは思うけど。
まったく、どいつもこいつもここぞとばかりに効かせて来やがって。せめて夫人御愛用の薔薇水にでも統一してくれりゃいいものを。
見渡せば、彼らの訪れているテーブル以外でも、俄か評論家と化した客たちで、侃々諤々と賑やかだ。若い御曹司連中などは、芸術論だか何だか知らないが、随分と熱くなってる様子。
議論が白熱する中、やおら立ち上がった一人が、顔を興奮に朱く染めながら、
「貴卿も判らん男だな」
と、同席の友人に指先を突き付けると、客たちが何事かと振り返る中、批難された側も、
「判らんのは君の方だ」
なんぞと応戦する気満々で席を立つ。
「当代一の歌姫なら、ここなるユージェニー嬢を措いて他にはあるまい」
「いいや、彼女の歌声が如何に優れようとも、マルガレーテ嬢の妖艶には遠く及ぶまい」
何だ、下らねぇ。もっと高尚な議論でも戦わせているのかと思ったら……。
同席している他の友人たちも、掴み合いでも始めそうな二人に慌てた様子で、席に着かせようと口々に諌める。
「貴卿らでは埒が開かぬだろう。今宵は幸いにして、アイヴァン卿が御来館だ。彼は、殊、芸術には一家言あることで名を馳せておられる。御意見を伺っては如何か」
友人氏が示す席を見遣れば、のほほんと暢気そうな様子で、悠然と茶を飲む貴公子の姿があった。あれは紛れもなく名門男爵家の三男坊にして同期入社の石使い、アイヴァンだ。
来ているとは気付かなかったが、芸術愛好家を標榜する風流人の彼であれば、この場に居てもおかしくは無いな。
彼は自分に集まる視線も気にせぬ風に、ゆったりと優雅な仕草でカップを置くと、静かに立ち上がり、議論していた二人へ丁重に頭を下げる。
「御指名を賜りましたので、僭越ながら自説を披露させて頂きたいのですが、よろしいでしょうか?」
彼の申し出に、二人ばかりでなく、見守っていた客たちからも一斉に拍手が沸く。それに対して会釈で謝意を示すと、一つ、軽い咳払いで会場を静めた。
「確かに仰る通り、マルガレーテ嬢は芸歴も長く、それ故に、円熟の極みにある技巧に妖艶さも加わって、実に魅惑的な声をお持ちだ。
先の舞台では助演でありましたが、その素晴らしさに、私を始めとして多くの観客が魅了された事と存じます。
一方で、ユージェニー嬢は未だ若く、些かの拙さも否めぬでありましょうけれど、瑞々しく清らかな声には神性すら感じられるものがあり、それは該博な諸兄も御承知の事で御座いましょう。が、しかし……」
勿体を付けた口調で言葉を切ると、彼は続きを待って注目する御歴々の顔を見渡しながら、
「マルガレーテ嬢の音域は、アルトだ」
と、いたずらっぽい微笑を浮かべる。その一言を受けて、たちまち客たちの間から溜息にも似た賛同が上がった。
「アルトのマルガレーテ嬢と、ソプラノのユージェニー嬢、この二者を比べるは、紅薔薇と白百合を比べて、どちらが美しいかを論ずるようなものでは御座いませんか?」
その問い掛けに、議論していた二人の頭も冷えたようで、互いに「あぁ、左様であった」「如何にも」と言いながら頷き合う。
「なれば、当代一のアルトはマルガレーテ嬢、そして、当代一のソプラノは我らがユージェニー嬢としては如何かと」
どうやら納得のいく答えを得たようだ。拍手で歓迎の意を表する二人に倣って、客たちもまた彼に拍手を送る。
その中を、歌姫は小走りに彼の元へと駆け寄ると、やおら足元に跪き、感激に頬を染めながらその手に縋った。
「あぁ、アイヴァン様、どうか御手への口付けを御許し下さい」
瞳を潤ませて懇願する美女に、彼は愛おしそうに手を差し伸べて立ち上がらせると、
「精霊の口付けは、勇敢なる騎士ファビアン殿のもの。御許しを乞わねばならないのは私の方に御座います」
と言いながら、握ったままのたおやかな手を大切そうに押し戴き、その白い甲にそっと口付けた。
興行主はこれを商機と見たか、それならば、二大歌姫の競演と言うのは如何でしょうと提案する。
客たちもそれには大いに興味をそそられた様で、やれ脚本は誰某がいいだの、演奏は何某楽団にすべきだのと喧しい。
その一方で、彼の周りには、いつしか若者たちが集まって来て、芸術談義に花を咲かせていた。
どうやら令嬢方には、揉め事をソツ無く収めた彼が格好良く見えたようで、傍目には両手両足に花といった風情だ。
だが、宴は永遠には続かない。ある一団が、興行主に今夜の礼を言って慌ただしく席を立つと、会場は熱が冷めたように閉会の空気に満たされた。やれやれ、やっとの事で釈放かと、俺たちもまた帰り支度を始める。
その時、扉の前でふと立ち止まった大柄な紳士が、会場を振り返ってざわめく人混みを見渡すと、少しばかり苛立たしげな口調で歌姫の名を呼ばわった。
「ユージェニー、何をしておるか」
「はい。閣下、只今」
返答はアイヴァンの傍らから上がった。彼女と共に席を立った彼が、名残惜しげに握っていた手をそっと放すと、歌姫は優雅な仕草でドレスの裾を捌きながら、自分を呼んだ偉丈夫の元へ駆け寄るが、部屋を出る前にもう一度だけ、自分を見送る彼と切なげな眼差しを交わしていた。
「今宵もブルーノ卿がお相手か……」
誰かが吐き捨てる様に呟いた一言が、胸の奥に苦いものを滲ませる。
美しく着飾って華やかな舞台に立とうとも、所詮は芸妓。飼われねば囀れぬ身の上か。