何だかちょっと、ディエシーとの格の違いを見せ付けられた様な気がして、癪に障ると言うか、己自身の不甲斐無さが腹立たしいと言うか、何と言うか……。
尤も、同じ連絡員の身の上とは言え、曲がりなりにも十五年間辺境国の重職にあった野郎と、ついこの間まで、地底で安閑とサラリーマンやってたポッと出の事務屋とじゃ、比べるべくも無いんだけどさ。
奴は玉座を足枷と言い切って、不満たらたらだった様だけど、あの野郎をファルエル王の後釜に据えた神都上層の判断は、強ち間違いでも無かったんじゃないかと、他人事ながら思う訳で。
ともあれ、やるべき事はやらにゃならん。
夫人は薔薇愛好家の懇親会だとかで、朝早くから出掛けて行った。その事に、何やら少しばかり安堵している自分に呆れたが、そんな己の軟弱に喝を入れてやろうと、前々から気になっていた「マルセルの報告書」とやらを閲覧する為、再び本部へと赴いた。
地下へ続く階段を降りたところで、書庫の扉の前でうろうろしている人影を見つけた。入るべきか入らざるべきかと迷っているようにも見えるその人物は、どうやらクレイグのようだ。
階段の途中から「何やってんだ?」と声を掛けると、飛び上がらんばかりに驚いた様子で振り返り、「だ、旦那……!」と狼狽も露わに呟いた。
「そこは監査か親方以外は入れないぜ」
その狼狽ぶりにこっちこそ驚きつつ歩み寄ると、彼は、
「えぇ、まぁ、そりゃ承知なんですがね……」
と、極まり悪そうに答える。何やら様子がおかしい。
「閲覧したい資料があるんなら、俺が代わりに見て来てやろうか?」
と提案してやっても、
「いや、そういう訳じゃねぇんでして」
と要領を得ない。一体何事かと問おうとした時、彼は唐突に俺の腕を両手で掴むと、縋る様な思い詰めた眼差しで見上げて来た。
「旦那、旦那は監査でやしたよね?」
「まぁ、一応……」
「それと見込んで頼みがあるんでさァ。ちょいと話を聞いて貰えんでしょうか?」
「あ、あぁ、いいけど……何?」
うろたえつつ承諾すると、彼は、
「ここじゃ何でやすから」
と言いながら外へと促し、表通りへ出ると銀鱗亭へと向かった。
昼はとうに過ぎていたが、店内は遅い昼食を摂る荷役夫や、女給たちでそこそこの賑わいだった。
敢えて混雑する店を選んだあたり、恐らく人には聞かれたくない類の話なんだろう。奥のテーブルを選んだ彼について席に着くと、注文を取りに来た給仕には、加密列茶を二人前頼んだ。
「一体どうしたよ? あんたらしくもない」
運ばれた茶を飲んで一息ついた頃合いに、努めて明るく訊いてやると、彼は「面目無ぇ」と申し訳なさそうに頭を下げたきり、頭を掻いてみたり、貧乏揺すりをしてみたりと、落ち着かない様子で言いあぐねていたが、暫しの重い沈黙の後、漸くぽつぽつと話し始めた。
「実は、旦那に、書庫から一冊、借りて来て貰いたい書類があるんでさ」
「いや、そりゃ俺でも無理だ。あそこの資料は全て帯出不可と聞いたぜ?」
「えぇ、そこはもう重々承知の上なんでやすが、そこを曲げて、何とか……」
彼は丸で俺の目から逃れようとするかのように、硬く瞼を閉じて俯いたまま深々と頭を下げる。
「何か、あったのか?」
声を潜めつつ顔を覗き込んでやると、彼はテーブルの上に置いた手を拳に固めながら、
「あっしが悪いんです」
と声を殺して呟き、何やら覚悟を決めたかのように、大きな溜息をついた。
「みんなあっしが悪いんです。古馴染みにイイ顔しようと、大盤振る舞いが過ぎたんだ。終いにゃ奴らも調子に乗って、金までせびるようになって来やがって……。
だけど、断ったら面子が立たねぇなんて、つまんねぇ意地が働いちまって、気が付いたら借金塗れってな有様でさァ」
「やれやれ、何やってンだよ。カミさん孝行が聞いて呆れるぞ」
「いやもう面目次第も無ェこって……。石使いになれたもんで、ちょいとばかしイイ気になってたのかもしれやせん。で、悪い事は重なるもんで、今度は下のちびの一人が流行り病でして……」
「えぇっ? 大丈夫なのか? 薬師は?」
「取り敢えずは施療院に連れてったんですが、あそこじゃ応急処置しか出来ねぇそうで……。ちびの為にゃ何としても薬代を工面したいんでやすが、金貸しも、もうこれ以上は貸せねぇよと、取り合っちゃくれねぇんです」
話を聞いてるだけでも、何だかこっちまで特大の溜息が出て来る。まったく、一体どれだけ借りたのやら。
修行を積んで苦労の末に石使いになったってのに、長年に亘って染み着いた、鉱夫特有の遊び人体質までは治らなかったって事か……。
「カカアにも頭下げて、また働きに出て貰ってるんですが、これが情け無ぇ事に焼け石に水ってな有様でして。
ちびの容体はどんどん悪くなるしで、ほとほと困ってたら、先日、柄の悪いのが家にやって来ましてね。ある仕事を請け負ってくれたら、借金は全て棒引きにしてやるなんてぬかしやがるんですよ」
「それが、さっきの報告書の件って事?」
「へぇ、そうなんでやす。返す当てが無ぇと踏んだのか、何でも金貸しが地回りの者にあっしの証文を売りとばしたとかでして……。だけど、あっしじゃ書庫へは入れねぇ。で、旦那にお願いしようと思った次第なんす」
「そう言う事か」
言いながら渋い顔でくしゃくしゃ頭を書く俺を、彼は窺うような眼差しでおずおずと見上げる。
厄介な仕事を引き受けてくれたもんだ。天下のホルザレン会が秘匿する情報と引き換えだ。売っ払ったら、さぞかし高値が付くだろうよ。
「で、そのヤクザ者が欲しがってる物ってのは、一体何の報告書なんだ?」
「へぇ、何でも、五年前の連続放火事件の資料だそうです。奴らの言う事にゃ、さる御偉い殿上人からの依頼だそうでして……」
「何だと?!」
思わず声を上げると、彼は身を縮こませるようにして、
「頼んます、旦那! この通りだ」
と平伏する。
何やら一気にキナ臭い話になってきやがった。エスネの森連続放火事件の資料だと? そいつはもしや「マルセルの報告書」じゃあるまいな。
あの事件には死んだ毒蛇を始めとして、錚々たる御歴々が名を連ねている筈。当時の関係者にしてみりゃ、消せるものなら消し去りたい情報に違いない。
もしもその依頼者とか言う殿上人様とやらが、蓮火幇関係者だったとしたら、こいつはクレイグ一人に止まらず、ホルザレン会にとっても脅威だぞ。
「話は判った。で、その仕事ってのは、どう言う手筈になってるんだ?」
「へぇ、一週間だけ待ってやるとかで、手に入ったら、黒猫屋の裏路地に持って来いって。そこに紫のクロークを着た女を待たせておくそうです」
「なるほどね。取り敢えず、この話は俺に預けてくれないか?」
「え? 引き受けて下さるんで?」
途端に顔を輝かせる彼に、
「まだ保留だ」
と苦笑気味に首を振って見せると、朴訥そうな小さな目をきょとんと瞬かせる。
「ちょいと策を思い付いたんでね。ところでクレイグ、いつだったか、カミさんの贈り物だと自慢していた、洒落た火種入れがあったろ? 今、持ってるか?」
「へぇ、ありやす。これだけは、何があっても質入れしちゃなんねぇと思いやして」
彼は神妙な口調で言いながら懐に手を入れると、大切そうに取り出したそれを目の前にそっと置く。が、
「そいつはいい心掛けだ」
と言いつつ取り上げて懐へ押し込むと、「あぁっ!」と叫んで手を伸ばした。
「な、何をなさるんで……!」
「質草さ。事が済むまで俺が預かる。とは言っても、素人にゃ代金の相場は判らないんでね。……えーと、当てずっぽうでこんなところかな。で、この分は俺から嬢ちゃんへの見舞だ」
俺が言いながら目の前に金貨を数枚積むと、面食らった様子で見上げて来る。その顔に目顔で促してやると、彼は震える手で受け取り、言葉も無く何度も押し戴いてから懐へ入れた。
店を出ると、彼はそのまま真っ直ぐ小走りにレセリ師の薬屋へ向かった。
その背中を見送ってから本部へ戻ると、地下への階段を駆け下りて書庫の扉をノックし、司書嬢の開錠を待って中へ入った。
「閲覧ですか?」
大きな執務机に着きながら、彼女は相も変らぬ無機質な声で問う。
「いや、あんたにちょっと協……」
「マチルダです」
俺の言葉を遮っての訂正に、「失礼」と片眉を上げて見せると、不愛想にも見える無表情な口元に、僅かながら笑みが浮かぶ。
「マチルダ姫には、御協力を賜りたき儀、これあり」
幾分茶化し気味に言い換えると、意外にも、
「苦しゅうない。何なりと申されよ」
と、微苦笑交じりの返答が返って来た。何だ、結構ノリのいい娘じゃないか。
ちょいとばかし面食らいつつ苦笑を返す俺を、彼女はクスと控えめに笑いながら、
「何でしょう?」
と改めて訊く。
「偽の報告書を一冊、作って貰えないか?」
「偽の……?」
俺を見上げるアーモンド形の黒い瞳が、怪訝そうに真ん丸く見開かれる。
「中身は白紙でもいいけど、出来れば古紙で。古い黒表紙を使って、それらしく見えるように装丁して欲しいんだ」
「どう言う事でしょう?」
「実は、ここの資料を狙ってる奴がいるらしい。恐らく、手前ェの悪事の証拠を、俺たち石屋が握ってると踏んで、消したがってるんじゃないかと思うんだ。出来ればそいつらの尻尾を掴んで確証を得たい」
「経緯を伺ってもよろしいでしょうか?」
「うーん……。友人の私生活に係わる事なんで、関係者以外には秘匿して貰いたいんだけど、いいか?」
「勿論です」
それならばと出来るだけ詳細にクレイグの事情を説明する。彼女は黙って一部始終を聞いた後、暫しの間考えを巡らせていたようだったが、ふと俺を見上げると大きく頷いた。
「会長にお伺いを立てたいので、少しお時間を頂けますか?」
「期限は一週間だ。それまでに頼む」
「判りました」
歯切れのいい返答を得ると、当初の目的だった資料の在り処を訊き、借りたランタンを片手に書棚の密林へと踏み込む。
無人の空間に響く俺の靴音すら、びっしり詰め込まれた紙の山に吸い込まれて、立ち止まると耳鳴りがしそうなほどの静けさだ。
件の報告書は、年代別に並んだ棚の比較的新しい列にあった。取り出した一冊を手に通路の文机に納まると、ランタンの灯を頼りに頁を繰る。
彼女は会長に許可を得ると言っていた。と言う事は、ここは会長直轄の部署なのか。
彼女が着けている黒地に金の翼刃章は、未だにここ以外では目にした事は無いけれど、それと何か関係があるんだろうか。