地回りの者が示した当日、黒猫屋でクレイグと待ち合わせると、彼に革封筒ごと偽報告書を持たせ、刻限を待って別々に店を出た。
冷えると思ったら、夜霧ともつかない細かい雨が、音も無く降ってやがる。
フードを被りながら裏路地へ出て夜目を凝らすと、街灯すら無い薄暗がりの中、聳え立つ国立劇場が微かに零す窓の灯の中に、消え入りそうに華奢な人影が黒く忽然と見えて来た。
通りすがりを装いつつ横目で一瞥すると、どうにか紫色と見て取れるクロークを纏うそいつは、フードを目深に被ってはいるものの、確かに若い女のようだ。
劇場と宿屋の間の路地に潜り込み、密かな人声に耳をそばだてると、「もし」と呼び掛けるクレイグの声に続いて、暫し小声での遣り取りがあり、
「じゃぁ、確かに渡しやしたからね、頼んますよ」
と、懇願しながら駆け去る彼の靴音が聞こえた。
こっそり覗き込むと、女は封筒の中を検めもせずに、そそくさとクロークの中へ隠し、辺りを素早く見回してから、小走りにこちらへ駆けて来た。
咄嗟に飛び出して立ち塞がると、一瞬息を呑んで立ち竦むが、身を翻して逃げようとしたところを捕まえ、悲鳴を掌で塞ぐと、先程の路地へと引き摺り込んだ。
「何をなさいます、お放し下さい」
必死に抵抗する細腕に加えて、こうも可愛らしい声で抗議されると、何やら極悪人になったような気分で、さすがに良心が疼くな。
「何もしやしない。訊きたい事があるだけだ」
極力優しい声で言ってやると、ふっと腕から力が抜けるが、顔を背け、身を硬く縮こませたままだ。
「懐の書類はどうするつもりだ?」
「申せません」
「誰に渡す手筈だ?」
「申せません」
「誰の差し金だ?」
「申せません」
「あんたは何者だ?」
「申せません」
何だよ。優しくしてりゃ付け上がりやがって。
立ち居振る舞いや言葉遣いから見れば、育ちは悪くなさそうだけど、こんな仕事をしてるくらいだ。どうせまともな筋の人間じゃないだろう。
業を煮やして、
「いい加減にしろよ」
と、半ば苛付きながら胸倉を掴むと、僅かな抵抗の後、いきなり頽れるように脱力した。
慌てて抱き留めた体が異様に震えてる。確かに寒い夜ではあるけれど、こんな上物のクロークを着てりゃ、ここまで震える程じゃないだろう。冗談じゃない、俺は断じて何もしてないぞ。
「おい、どうした」
と問うと、苦しげな吐息の下で、「助けて」と小さく喘ぐ声が聞こえた。何かおかしい。
ヤクザ者の手先なんぞ知った事かと思いつつも、捨て置くわけにもいかない。己の甘さに思わず舌打ちをしてから抱き上げると、そのまま黒猫屋へ向かった。
華奢な肢体は頼りない程軽くて、小刻みに震える様は、丸で森で拾った小鳥の雛だ。そして、時折微かに漂う甘ったるく不吉な匂い。
こいつを画策したのは、やっぱり蓮火幇の連中に間違いない。畜生、偽薬師どもめ。こんな小娘まで薬漬けかよ。
店の扉を押し開けると、フード越しの俺の目配せに、女将は一瞬にやりと意味深な微笑を浮かべたが、抱えた女の様子を尋常でないと察したか、常連客にカウンターを任せると、一緒に二階へと上がって来た。
「ここまでへべれけに酔わせなくたって、あんたの男前なら素面でだって落とせるだろ?」
「え? い、いや、違うって!」
笑いながらの呆れた口調に、慌てて首を振って見せながら、案内された奥の部屋へ入る。
女はベッドに横たえると、荒い呼吸の下でがたがたと震えながら、苦しげな様子で蹲った。
溜息をつきながらフードを外し、
「店の裏で拾ったんだ」
と取り繕うと、女将は「ふぅん」と何やら含んだ物言いで答え、部屋に備え付けられた水差しから洗面器に水を汲むと、濡らして絞った手巾を手に戻って来た。
「随分苦しそうだけど、薬師を呼ぶかい?」
彼女が言いながら、脂汗を滲ませた女の顔を拭おうとフードを外した時だ。俺たちはそこに現れた可憐な美貌に、思わず顔を見合わせた。
「ユージェニーじゃないか。何だってこの子がこんなところに?」
「いや、訳が判らんのは俺だって同じだ。まさかこいつがあの金糸雀だなんて……」
彼女は俺と共に暫し唖然として女の顔を見下ろしていたが、はっと顔を上げ、
「と、兎に角、薬師だよ! すぐ呼んで来るから」
と言うと、「頼む!」の声を背中で聞きながら、あたふたと出て行った。
こいつは一体どう言う事だ? 何だって大貴族様の妾が、ヤクザ者の手先なんぞやってる?
そう言えばいつだったか、セブランの偽薬師イスカが言ってたっけ。蓮火幇々主は巫女でも女官でも宮廷薬師でもないって。だったら、枢機卿評議会の後ろ盾たる、神都生え抜きの貴族ならどうだ?
ヴィスロ枢機卿の背後を探っていた、ザーリャ殿下の調査結果によれば、あの毒蛇を宮中に押し込んだのも、彼女の主たるノランサリエ侯爵だった可能性が高いと聞いたし、こいつは、ひょっとすると、ひょっとするかもしれないぞ。
そんな事をつらつら考えながら、腕組みをしたままうろうろと室内を歩き回っていたが、彼女の魘される声にふと足を止めると、ベッドに歩み寄り、苦しげに喘ぐ青白い顔を見下ろした。
「助けて、助けて……薬、誰か薬を……」
震える体を抱き締めるか細い腕に、うっすらと鬱血しているのは、俺が力任せに掴んだ痕か。何だか悪いことしちまったかな。
その上、うわ言のように繰り返し助けを求める姿を見ていると、敵意よりも、むしろ憐憫の情すら湧いて来たりもする訳で。
気が付くと、いつのまにやらベッド脇の椅子に腰掛けていて、女将が置いて行った手巾で脂汗の滲む額を拭い、クロークの上から背中を優しく撫でてやっていた。
「大丈夫、もうすぐ薬師が来る。それまで頑張れ」
固く閉じた瞼を縁取る金色の長い睫毛に、涙が玉を結んで零れ落ちて行く時、彼女が微かな声で呼んだのは侯爵ではなく、アイヴァンの名だ。
それを聞いた俺の脳裏に浮かんだのは、あの劇場での茶話会で、手を取り合い、名残惜しげな眼差しを交わしていた二人の姿だった。
小さく響いたノックに応えると、女将が連れて来たのは、修行薬師と見られる若造だった。
彼は俺に気付くと、はっとして居住まいを正し、折り目正しく一礼してから、ベッドに歩み寄って診察を始めたが、程なくしてこちらを振り返ると、困惑した顔で首を振って見せた。
「これはちょっと、僕の手には負えないようです。師匠に御越し頂きますので、暫しお待ちを」
「やっぱり、邪法薬の中毒か?」
俺の言葉に、彼は一瞬驚いた様子で顔を上げるが、ふと表情を引き締めると深く頷いた。
「恐らく。ケイディシアの仲間から聞いた症状に良く似ています。今、聖山では、件の水煙草を分析の上、解毒法の研究を急いでいる最中とか。神都の師匠であれば、何か新しい情報をお持ちかも知れませんので」
「なるほど」
「では、失礼します」
彼は短く言って丁寧に頭を下げると、足早に店を出て行った。
彼を裏口まで見送りに行った女将は、戻って来るなり、
「何だか大事になっちゃったわね」
と肩を竦めて見せる。
「病弱で薬が手放せないって噂は、聞いたことがあったけどねぇ」
彼が応急処置で投与した薬が効いたのか、いつしかユージェニーは静かな寝息を立てていた。
彼女はその寝顔を、憐みを含んだ眼差しで見下ろしながら、深い溜息をつきつつ首を振る。
「難しい事は判んないけどね、心の病が発作に出る病気なんだってさ。ウチに良く来る劇場の職人が言ってたよ」
「心の病?」
「何でも、旅芸人の座長に手籠めにされそうになった時、抵抗して声を潰しちまったとかで、一座を放り出された事があったんだってさ。可哀想に。その時の夢でも見るんじゃないのかね」
「……そうだったのか」
「高い薬を飲み続けなきゃならないそうだけど、才能を惜しんで拾って下さった侯爵様の御計らいで、今や売れっ子の歌姫だ。この子にしてみりゃ、妾にでも何にでも喜んでなるだろうさ」
あの水煙草に含まれていた幻覚剤……紫花天蠍晶は、用法を厳格に規制されてはいるものの、正法でも使う事があるとロナも言っていた。
名門侯爵のお抱えともなれば、腕も確かな正法薬師だろうし、彼女の発作を和らげる為に、件の薬種が持つ阿片成分を利用しているのだとしたら、強ち邪法とも言えないかもしれない。
だが、イスカもまた正法薬師を装う為に、エブロイス侯爵が常用していた鎮痛剤は、正法で処方していた。
何よりも、ユージェニーはあの場所に居て、クレイグから報告書を受け取っている。と言う事は、やはり侯爵は蓮火幇の重鎮か?
でも、それ程の大物なら、宮廷薬師の誰かが聖山に報告してる筈……。あぁ、畜生、こいつは一体どう考えりゃいいんだ。
裏口から上がって来る複数の足音を聞き付けると、女将は扉を開けて薬師たちを招き入れた。
が、若造薬師と共に入って来たそいつは、雨に濡れたクロークのフードを脱ぐなり、開口一番にふざけた口調でこう言った。
「はァい。御無沙汰」
「ロナ……」
「神族の石使いって、依頼主はやっぱりあなただったのね。兎ちゃん」
「兎ちゃんはやめろと何回言ったら……!」
咄嗟に吹き出した女将の反応に、思わずカッとなって反射的に突っ掛かると、ロナはすんなり細い人差し指を紅い唇の前に立てて片目を瞑って見せる。
「レセリ老師は、神聖騎士団に呼び出されて出掛けちゃったの。検死とか言ってた。私は彼の代理よ」
「検死? 何か事件かい?」
早口で捲し立てる彼女の言葉に、女将が早速喰らい付く。噂好きなのは商売柄か。
「何でも、波止場で死体が上がったとか聞いたわ。溺死じゃないそうだから、大方、地回りのヤクザ者が、元締めの不興でも買って始末されたんじゃないかって言ってた」
それを聞いて呆れ顔で首を振る彼女に、苦笑で応えながら肩を竦めて見せると、ロナはベッドに歩み寄り、若造と共に患者の顔を覗き込む。
二人は暫しの間、何やら難しげな専門用語を交わしていたが、
「有難う。戻っていいわ」
と、輝くような笑顔で礼を言われると、若造は頬を染めながら、
「宜しくお願いします」
と丁寧に頭を下げ、俺たちにも会釈をすると施療院へと帰って行った。
彼女はそれを見送ると、雑嚢から取り出した器具や薬瓶を傍らの小さなテーブルに並べ、いつものように指差確認を始める。
「レセリ師の代理と言ってたけど、随分と若い娘さんが来たもんだ。あんな可愛い薬師さんで大丈夫なのかね」
「いや、彼女はああ見えても中々の名薬師だぜ」
彼女を遠巻きに見ながら、些か心配そうな小声で耳打ちする女将に、俺もまた小声で答えてやると、俄かに意味深な眼差しで俺の顔を覗き込んで来た。
「おやおや、何だい、そう言う事かい」
「え?」
「ディエシーの旦那が言うには、随分な堅物だって話だったけど、やっぱりあんた程の二枚目が女っ気無しだなんて、在り得ないよねぇ」
「えぇ?! あ、いや、違……」
「おっと、邪魔しちゃ野暮ってもんだね。どうぞごゆっくり」
女将は俺に否定する隙すら与えないまま、にやっと下卑た笑いを浮かべると、そそくさと店へ降りて行っちまった。
くしゃくしゃ頭を掻きながら、扉が閉まるのを大きな溜息をつきつつ見届けると、作業中の彼女に歩み寄って「どうだ?」と訊く。
「鎮静剤が効いてるから、今夜は目覚めないと思うわ。明日の朝、薬を欲しがるようなら、常用している薬の代わりに、これを飲ませて」
彼女はそう言いながら俺を振り向き、作ったばかりの薬包を摘まみ上げて示す。
「これは?」
「紫花天蠍晶を、天蠍水焔晶《てんかつすいえんしょう》に置き換えたものよ。紫花よりも薬効は弱いけど、その分毒性も遥かに低いから、飲み続ければそのうち寛解すると思うわ。時間は掛かるけどね」
「やっぱり、あの薬種だったか。不吉な匂いがしやがると思ったんだ」
「紫花天蠍晶の匂いよ。体臭に出るなんて、長期に亘って常用してる証拠だわ。でも、さっきの彼が見立てた毒煙草の中毒症状とは、ちょっと違うわね」
「え? そうなのか?」
「どちらかと言えば、宮中で使われてた薬と似た症状だけど、現物を見ない事には何とも言えないわ」
こちらを見上げながら首を振る硬い表情に、思わず眉を顰めながら「宮中?」と問い返すと、彼女は大きく頷く。
「一月前だったかしら。ヴィスロ枢機卿が逮捕されて、監獄城送りになったでしょう? その後、体調を崩す神官が続出したのよ。宮廷薬師でも原因が特定出来ない症状だとかで、ハグル薬師長の方から急遽、典薬寮へ応援要請があったの」
「で、あんたが?」
すると彼女は、
「神都と聞いて、あまり気は進まなかったけどね」
と、不満顔で片眉を上げて見せる。
「だけど、殿上人の奇病と、あの毒蛇枢機卿に何の関係が……?」
「あいつ、こっそり幻覚剤を売り付けてたのよ」
「幻覚剤?! 神官にか? 一体何の為に?」
「何だかよく判らないけど、『神託を聞く為』とか言ってた。それが叶わないと、神官から司祭への叙聖に与れないとかで、あまり出来の良くない連中が、大金を積んで奴から買ってたらしいわ」
馬鹿な話だ。そんな薬如きに頼ったところで、クレイドルに入れば、ものの数分で分解されちまうってのに。
そもそも神託なんてものは、凡人になんぞおいそれと聞けるような代物じゃないだろう。神章を持つ神官だとしても、「賢者」とチャネル出来るのは選ばれた者のみだと、ドミニクも言っていたし。
「やれやれ。薬で神憑りになったところで、そんな胡散臭い奴を、神様が受け付けるとでも思ったかね」
言いながら肩を竦めて見せると、彼女もまた、
「浅薄にも程があるわ」
と溜息をつく。
「後ろ盾となった貴族への面目もあるし、平民神官ともなれば、司祭の座は一層魅力でしょうから、必死になるのは判らないでもないけど、幻覚剤の類は、得てして中毒性の強い薬種が多用される物よ。薬が効かないとなれば、もっと強い物を欲しがるようになって、あっという間に中毒に陥るわ」
「するってぇと、奇病の正体は禁断症状ってとこか」
「恐らく。枢機卿が逮捕されて、薬が手に入らなくなったのが原因でしょうね。この薬はその治療薬なの。ハグル師の依頼を受けて作ったばかりの新薬よ。で、この人も殿上人なの? 可愛らしくてとても綺麗な人だけど」
「歌姫さ」
半ば呆れた口調で答えた俺を、彼女は「えっ」と驚いた顔で見上げる。
「何で? どうして歌姫が殿上人の薬を? そもそもあなた、この人とどういう関係なの? こんな如何わしい場所に連れ込んで、一体何をするつもりなのよ?」
矢継ぎ早に繰り出される、非難がましい質問に、思わず「えぇっ?」と怯む俺に、彼女は憤然とした様子で両手を腰に当てると、こっちへ向き直って更に畳み掛けて来た。
「あなたねぇ、あのベル姉様をフィンデールの馬鹿王子に獲られちゃったって聞いたから、さぞかし落ち込んでるだろうと思ってたのに、もうこんな美人の御相手がいるなんて一体どう言う事? ディエシーの悪い癖でもうつったのかしら?」
「え? いや俺は何も……」
「まったく、神族のくせにだらしが無いったらありゃしないわ。あなたなんかには勿体無いとは思ったけど、あの姉様が御執心ならばと、こっそり応援してあげてたのに」
「勝手に応援するな」
「許婚がこんな女誑しじゃ、ベニカの気苦労が思い遣られるわね」
「いや、だから彼女は違うって!」
「言い訳する前に一杯奢りなさい。下に降りてからゆーっくり聞いてあげるから」
俺の鼻先に人差し指を突き付け、勝ち誇ったように宣言するなり、勝手に部屋を出て行く彼女を、
「お、おい、ちょっと待てよ! 患者は……!」
と問いながら慌てて追うと、「大丈夫よン」の声を残して、先に階下へ降りて行っちまった。