その内お呼びが掛かるだろうと思いつつ、だらだら身支度をしていると、程なくして扉がノックされた。
来客を告げる家令氏かと思って応対すると、開いた扉の向こうに現れたのは、鼻眼鏡の向こうでやんちゃそうに微笑む赤い瞳だった。
クラヴァットを結ぶのもそこそこに、「あ、どうも」と面食らいつつ気の抜けた挨拶をする俺へ、大親方は上機嫌で頷いて見せると、「御邪魔するよ」と言いながら遠慮無く入って来た。
「おぉ、遠くに港が見える。素晴らしい眺めじゃないか」
暢気そうな歓声を聞いて、家令氏と思わず顔を見合わせて肩を竦めると、お構い無しに部屋を横切り、勝手にバルコニーへ出た彼を、慌てて追い掛ける。
午後の穏やかな陽光を浴びて、眼下に広がる庭園を見下ろすと、夫人に連れられたベニカとユージェニーが、談笑しながら足取り軽く歩いて行くのが見えた。
付き従う侍女と女中が手籠を下げている様子から、どうやら薔薇園で茶を楽しむつもりらしい。
大親方は、こちらに気付いて手を振る彼女たちに、手摺越しに笑顔で手を振り返すと、その後ろ姿に視線を置いたまま、隣へ歩み寄った俺へ、
「どうだね? 金糸雀嬢は」
と問うた。
「夫人の御心遣いもあって、あれ以来発作も無く、症状は落ち着いてるようですがね。尋問には、未だに応じて貰えなくて往生してます」
そう言いながら溜息をつく俺に、彼はにやっと意味深に笑う。
「という事は、女誑しの色事師だという君の噂は、真っ赤な嘘だという証左だな」
「何すかそれ」
思わず苦笑しながら突っかかると、今度は声を上げて笑う始末だ。大方、マセ餓鬼門下生どもが、この前の乱闘騒ぎを元にでっち上げた噂に違いない。そいつを面白がってる彼も彼だ。
「まぁ、彼女も迷っているのだろうね。報告書の入手を命じたのが何者かは判らんが、恐らくは、侯爵閣下の御為とでも吹き込まれたんだろう。だが、敵とするべき石使いは、彼女の想い人であり、恩人であり、幼く可愛らしい友人でもある」
「板挟み、って奴っすか」
「恐らくは、ね」
茶器の音を振り返ると、ティーテーブルに茶の準備が整えられたところだった。家令氏の「どうぞ」との慎ましやかな笑顔に応え、大親方を促す。
彼の愛飲する薔薇実茶が饗されているあたり、相も変わらず完璧な対応だ。
「さて、先だって話していた釣りの計画だが……」
彼は一口旨そうに飲むと、カップを置きながら大きな溜息をつきつつ切り出した。
「この一週間の間に、侯爵閣下から何か接触はあったかね?」
「いいえ、何も」
「そうか、ならば様子見といったところかな。だが、近々必ず遣いを寄越すだろう。仮に蓮火幇とは無関係であったとしても、金糸雀は閣下の大のお気に入りだ。それが美形の青年石使いと一つ屋根の下とあっては、アイヴァン君ならずとも、気が気ではないだろうからねぇ」
幾分茶化した口調で言いながら、彼は俺の苦笑をいたずらっぽい眼差しでチラと盗み見る。
「閣下は、恐らく儀礼上アレーネ殿を御招待申し上げるだろう。その時、君には護衛として同行して貰いたい。彼女からの申し入れとあらば、閣下に否は無いだろうからね。
君が探るべき情報は二つ。閣下の、ヴィスロ枢機卿推挙の経緯と、『聖櫃』と呼ばれるものの正体だ」
「『聖櫃』?」
初めて聞く単語に、思わず顔を上げて覗き込むと、いつになく引き締まった表情で首肯する。
「『毒蛇の抜け殻』――枢機卿が宮中に残した書簡に記されていたものだ。それに曰く、『聖櫃の手掛かりは、或いは亡き石使いが有していた可能性もありや』と。前後の文脈を読み解く限り、彼らの言う亡き石使いとは、どうやらマルセル君のようでね」
「マルセル……! って事は、その『聖櫃』ってのは、あの連続放火事件で賊が捜し求めていたもの……?!」
「だとすれば、蓮火幇が件の報告書を狙った理由も、朧気ながら判って来る。彼らは、我々がその情報を握っていると思い込んでいるようだ。随分と買い被られたものだが、しかし、我々が持っているものはあの報告書が全てであって、残念ながらその正体までは判らない。そこで、釣り餌の出番だ」
彼は再びカップを取ると、悪餓鬼の顔でにやっと笑う。
「僕が触れ回っている偽の経歴では、君は僕の師兄の落とし胤という事になっているのは知っているね?」
「えぇ、まぁ」
「宮中の習わしの例に漏れず、僕の師であった方にも、何人もの門弟があるんだが、その中にアストル司祭と言う方がいらしてね」
「アストル司祭ってぇと、報告書にあった被害者の一人っすね?」
「如何にも。実は、大召喚の聖旨が下されるまで、猊下はロアルデで司祭の座にあったんだ」
「なるほど。何やら読めた気がします。俺は、その司祭猊下がロアルデに残した御落胤て訳だ。それをホルザレン会は、石使いとして抱き込んだ。となれば、蓮火幇の連中にしてみりゃ、『聖櫃』の手掛かりを手に入れる為と見るに違いない、と」
彼は「まずは合格点かな」と言いながら片目を瞑って見せ、立ち昇る茶の香りに微笑を浮かべる。
「恐らく、君は『遺産』を相続したと目されているだろう。『雷神の御子』の顕現を認めないとしながらも、彼らが君の抹殺を躊躇しているように見えるのも、その為だろうと思われる。
今後接触して来る者には、それらしい事を匂わせつつ、逆に情報を引き出して欲しい。難しいかもしれないが、今までの働きを見る限りでは大丈夫だ。君なら出来る」
その物言いに思わず苦笑を浮かべつつ、
「乗せるのが上手いっすね」
と皮肉ってやると、
「それが僕の仕事だよ」
なんぞとおとぼけ顔で切り返された。
「もう十年になるか……。猊下の葬儀の折、列席者の間でまことしやかに流れた噂があってね。焼け残った御遺体には拷問と思しき複数の傷があった、と……」
「拷問だって?!」
咄嗟に声を上げた俺に、彼は深く頷いて見せる。
「セブランの詮議と言い、辺境王や殿上人の暗殺と言い、当時の宮廷で、一体何があったってンです?」
些か噛み付く様な口調で詰め寄ると、彼はふと視線を落として顎に手を遣り、暫しの逡巡を見せた後、「……そうだな」と呟いた。
「当時宮廷では、水面下で二派に分かれての紛糾があった。敢えて言うなら、どんな組織にも起こり得る、守旧派と改革派の対立と言ったところかな。
司祭であった我々は、どちらかの道を選ばねばならなかったのだ。それが結果として戦乱を招き、多くの血を流す事になってしまったのは悲しい事だがね」
「対立……って、一体何を巡って?」
「聖下の御世を永遠たらしめる方法、とでも言っておこうか。長きに亘る歴史の中で、硬直し切っていた制度を大幅に改変する事で、聖下と宮廷の復権を唱えた改革派に対し、古に伝わる呪詛の解法を以って、聖下の御復活を願う事を選んだのが、今ある守旧派諸聖だ」
「蓮火幇の言う、『世界に神聖を取り戻す』って奴っすか?」
「左様」
「じゃぁ、あいつらは、その守旧派の意向で動いてるって事っすか?」
「思想としては守旧派の物だが、宮廷上層にいる僕の旧友たちの動向を見る限り、蓮火幇の暗躍は彼らの総意ではないと断言出来る。あの禍々しい手口を、聖下が御喜びになろう筈もないからね。
だが、現体制になってから既に十年が過ぎた。これだけの歳月を費やしても、未だに何らの成果も得ていない事に、焦りを感じている事も事実だろう。
そこへ来て更に、『雷神の御子』顕現の噂だ。審判の時が近付いたとなれば、彼らの動揺も尤もな事だ。
蓮火幇とは、己の無謬を確たるものとする為なら、神の子すら畏れない、そんな先鋭化が生んだ魔物なのかもしれん」
「奴らの出現は、俺が原因っすか……」
「蓮火幇は、元来からして宮中の暗部を担う者たちだった。ナクルタツリ王家の滅亡を受けて変質したとも言われているがね。それに、殿上人の分派は、二十一年前の大召喚の時代には既に兆しがあったんだ。君は切っ掛けに過ぎんよ」
「そう言えば、以前にも言ってましたね。大召喚は某かの事件を受けてものだった、と。そもそもその事件てのは、一体……」
「知りたいかね?」
途端にやんちゃな色を含んで覗き込んで来る赤い瞳に、この野郎と思いつつも素直に頷いた。
「知りたいっす。宮中の事だけでなく、この世界の全てを」
「いいだろう。僕の知る範囲で良ければ、この仕事が終わった暁にでも。但し、君にも話して貰うよ。君が、『雷神の御子』がこの世界に現れた、その理由をね」
思わず、「まったく、抜け目の無いこって」と呆れる俺に、彼は「御褒めにお与り」と茶化しながらにやりと笑い、カップに残った茶を飲み干すと、しみじみと深い溜息をつく。
「殿上人は今、君の動向を固唾を飲んで見守っている事だろう。『雷神の御子』が裁くのは、果たして現在の宮廷か、それとも、身を潜めて時を待つ改革派か……。
あの時、守旧派諸聖が選んだものは、茨の道だったのかもしれん。今にしてみれば、どちらも間違ってはいなかったとは思うがね」
誰に言うともなく呟いた後、ふと振り向き、まっすぐ俺の目を見据えて言った彼の言葉は、静かではあるが、いつになく力強い口調だった。
「いずれにしても、我々ホルザレン会は、聖下の御世を蔭ながら守護申し上げる事が使命だ。頼んだよ、ランジャ君」