いつもなら森を渡る風の音と、小鳥の囀りくらいしか聞こえない森閑としたアレーネ邸が、その日ばかりは華やかな楽の音と、笑いさざめく紳士淑女の声に彩られていた。
何でも、週末に催された薔薇愛好会の花比べで、夫人の出品した新種の薔薇が絶賛され、噂を聞いた殿上人から、金鵠宮の庭園へ献上せよとの御達しを賜ったらしい。今宵はそれの祝賀会なのだそうだ。
俺たちも正装での晩餐に引っ張り出され、御列席の御歴々に紹介されたが、どちらさんも何やら浮世離れした雰囲気の老神族ばかりで、嘗ては陰謀渦巻く宮中に身を置いていたとは思えない程、穏やかで飄々とした御仁ばかりだった。
同じく御招待に与ったドミニクにとっては、お馴染みの大先輩ばかりのようで、おぉリロイ君のご養子か。随分立派になられたものだなんぞと、丸で孫みたいな扱いをされて、些か不満そうな様子だった。
少し遅れてアイヴァンも来訪。奴は昨日今日とマルデリの神殿へ出張だったが、夫人からの達ての申し出を受けて駆け付けたらしい。
先んじて祝儀にと届けられていた、例の国章付きの葡萄酒も、乾杯の際に舌の肥えた面々から絶賛されていただけに、大広間へ姿を現したところを、夫人から新進気鋭の農学博士として紹介されると、この度の快挙の功労者として、万雷の拍手を以って迎えられた。
「時にアレーネ殿、この素晴らしい花は、未だ無銘と伺いましたが……」
彼を囲んでの園芸談議で一頻り盛り上がる最中、一人の御隠居が、テーブルの上の大きな銀器に活けられた件の花を示して訊ねると、他の面子も窺う様な表情で夫人を振り向く。
「無銘とは、何と勿体無い事を」
「金鵠宮庭園に献上ともなれば、聖下の御目に留まる事もありましょう。是非、銘を」
すると夫人は、自分を囲む顔を見渡していたずらっぽく微笑み、
「実は、素晴らしい銘を考えて御座いますの」
と言いながら、何を思ったか、銀器から抜き取った一輪を手に、談笑する俺たち若造連中の輪へ歩み寄る。
夫人は丁重な拝礼で迎えたユージェニーへ、手にした花を差し出すと、怪訝そうに見上げるその耳元にそっと髪挿した。
美しい黄薔薇だ。橙掛かった花芯から、縁へ向かって仄かな若草色に変化する檸檬色の花弁は、宛ら金色に輝くかのように瑞々しく、可愛らしい花型とも相俟って、あどけない美貌に良く似合った。
「この花には、あなたの名を頂きたいの。宜しいかしら?」
「私の、名を……?」
問いを繰り返しながら戸惑う眼差しで見上げる彼女に、夫人は優しい表情で深く頷く。
「えぇ。華やかだけれど、清楚で可憐。『金糸雀』と銘打つに相応しい花と思うのだけれど」
それを聞いた列席者からも、それは良い銘だと口々に賛同が上がるが、当の本人はふと哀しげな表情で目を伏せると、俯いて小さく首を振った。
「そんな、勿体のう御座います。聖下の御園を飾る誉れ高き花に、私如き端た女の二つ名など……」
「いいえ。この度の栄誉は、あなたのものでもあるのよ。アイヴァン殿との親交を得られたのも、あなたがこの邸にあっての事なのだから」
「閣下……」
彼女は夫人の温和な微笑を眩しそうに仰ぎ見て呟くと、その向こうで見守る、想い人の温かい眼差しに応えるかのように、頬を仄かに染めながらそっと頷いた。
「光栄の至りに御座います。御情けに縋る病身なれば、これに報いる事も叶いませんが、名花『金糸雀』とアレーネ閣下の栄誉に、せめてものお祝いとして歌を捧げとう存じます」
「まぁ、素敵。是非聴かせて」
「では、『栄誉の花』のアリアを」
そう告げながら一礼して宴席の中央へ進み出ると、目配せに笑顔で応じる楽師たちの伴奏の中、期待に満ちた拍手を浴びながら深々と拝礼する。
そして、ひとたび大きく息をつくと、シャンパンの泡のように煌めくソプラノで大広間の空気を満たし、清々しく澄んだ声音で列席者たちをたちまち酔わせた。
咲き誇る花を美姫になぞらえ、英雄に捧ぐ栄光を讃える詞の一節もまた、あの日観た舞台の絢爛たる一幕を想起させるが、時折、アイヴァンと密やかに眼差しを交わしつつ、朗々と歌い上げるその声は、いつにない艶と哀調を帯び、何やら切なく胸に迫るものすら感じて、丸で全身が総毛立つような感動を覚えた。
ベニカもまた重ねた両手を胸に押し当てたまま、目に涙を一杯に溜めながら、うっとりと聞き入っている。
これが稀代の歌姫、金糸雀の真骨頂か。彼女を見い出したノランサリエ侯爵も、中々の見巧者って奴だな。
翌朝、寝惚け眼で階下に降りると、ふと通り掛かった玄関ホールの様子に度肝を抜かれた。
見渡す限りの大輪の百合、百合、百合……。大理石の広い床が見えなくなるほどの、大量の白百合に占領されていたのだ。
ベニカは「ぅわぁ、凄ォい!」と歓声を上げるなり、大小様々な花器に活けられた花々の間を、丸で蜜蜂のようにはしゃぎながら駆け回り、時折立ち止まっては、うっとりした顔で小さな胸一杯に香を吸い込んでいた。
「お早う御座います」
咽せ返る様な芳香の中、面食らって言葉を失ったまま突っ立ってる俺に、初老の女中頭が、花鋏を手にしたまま笑顔で挨拶する。
「何すか、これ……」
「カレル様からのお祝いの品と伺っております」
「何だ。犯人は大親方か」
あくびをしながらくしゃくしゃ頭を掻く俺の悪態に、彼女はうふふと楽しそうに笑う。
そう言えば昨夜、宴には所用で出席出来ないとの報せがあったと、少しばかり寂しそうな様子で夫人が言ってたっけ。こいつはその埋め合わせって事なのかな。
「朝早くに届けられましたので、きっと咲いたばかりの花なので御座いましょう。素晴らしい香に、お嬢様も殊の外お喜びで御座います」
家令氏から聞いた話では、彼女は夫人が十代の頃に、この邸に召し抱えられて以来の古株だと言っていた。既に老境にある女主人であっても、彼女にとっては永遠にお嬢様なんだな。
尤も、あの少女の様に純真無垢な、可愛らしい雰囲気には、幾つになってもその呼び名が似合いそうではあるけれど。
「薔薇の祝儀に百合を寄越すなんざ、あの御仁も随分と気障な演出をしやがるな」
にやりと笑いつつ、今を盛りと咲き誇る花を見渡すと、彼女もうっとりとした顔で傍らの一輪に触れた。
「『白百合の君』は、宮中にあった頃のお嬢様の愛称で御座いましたから、カレル様には、きっと往時を忍んでの贈り物なので御座いましょう」
「『白百合の君』、か。なるほど夫人にはぴったりだ。さてはあの爺さん、本気で口説き落とすつもりだな」
すると彼女は、いたずらっぽい笑みを浮かべながら、丸で秘密を打ち明けるかのように声を潜める。
「お年を召した今でもお美しくて御出でですが、巫女でいらした頃のお嬢様は、それはそれは女神様のようでいらして、止ん事無き殿方からの求婚が、引きも切らさなかったので御座いますよ。世が世なれば、いずこかの玉座にあったやもしれません」
「玉座ってぇと、ひょっとして、ナクルタツリの……?」
「えぇ。リシルロカン陛下に御座います。当時はお嬢様も御心を寄せていらしたように思えたのですが、何故お受けにならなかったのか、私には未だ以って判りません」
些か口惜しゅう御座いますね、と、苦笑交じりに言いながら肩を竦めて見せると、彼女は丁寧な会釈と共に奥へと戻って行った。
彼女たち使用人にしてみりゃ、我らが姫様が辺境王へ御輿入れなんてのは、この上ない栄誉なんだろうけど、ナクルタツリの現状を思えば、王と夫人が想いを遂げたとして、果たして幸福な未来があったかどうかは甚だ疑問だ。
あの国が満身創痍ながらも何とか永らえているのは、偏に王太后たるトルフィニ師の女傑ぶりに依るものだろうし、どこまでもおっとりと優しい夫人に、あんな試練を背負わせるのは酷ってもんだろう。
結果オーライと言っちまえばそれまでだけど、情だけじゃ決められないのが、王家の婚姻の辛いとこなんだろうな。
祝賀会は、昨夜限りのささやかなものだったが、噂を聞き付けた御歴々からの祝儀が、カレル大親方の白百合攻めを筆頭に次々と届けられ、昼を過ぎても、使者を乗せた馬車が車寄せに途切れる事は無かった。
夕方、ベニカを迎えに行って帰って来ても、贅沢な仕立ての四頭立てが停まっていた。
改めて夫人の人望と顔の広さに感心しながら、既に花の洪水に呑み込まれつつある邸内に入る。
ベニカが夢中で喋る今日一日の出来事を、楽しく聞かせて貰いながら二階の自室へ上がる途中、家令氏に伴われたユージェニーが、部屋から出て来たところに出くわした。
お帰りなさいませ、と会釈する家令氏と共に、彼女も頭を下げるが、何やら緊張した様子で顔色が優れない。
思わずベニカと顔を見合わせ、その後ろ姿を見送っていると、二人は応接室へと入って行った。どうやら表の馬車の主は、夫人では無く彼女を訪ねて来たようだ。
途中で擦れ違った女中を捕まえて訊ねると、客は案の定、ノランサリエ侯爵邸の家令氏だとの事。さては、見舞いを装って、報告書入手の成否でも確認しに来やがったか。
訊きたい事は山ほどあるけれど、晩飯の後にでも再度の聞き取りをしてみるか。取り敢えずは夫人の面子を立てて、応接室へ乗り込むような無粋は控えておこう。
ベニカの部屋で晩飯時を待ちながら、伝書鳩のミカと戯れる彼女の、他愛ないお喋りの続きに相槌を打つ。
ミカは一層彼女に懐いたようで、籠から出しても大人しくされるがままになっている。頭の上にそーっと乗せ、放した両手を広げて見せる無邪気な得意顔に、思わず笑みを浮かべつつ拍手してやった。
「もうすっかり良くなったじゃないか。そろそろ放してやったらどうだ?」
「そうですね。ミルジオさんも心配しているでしょうし、ミカもお仕事があるものね」
言いながら差し出した手に止まらせると、彼女は「ね、ミカ」と愛おしげに呼び掛ける。
「そんな風に餌をたらふく食って、日向でぼんやりしてる毎日じゃ、今に飛び方を忘れちまうぞ」
俺の言い草に、うふふと楽しそうに笑うけど、口ではああ言いながら内心は名残惜しいんだろう。ミカはそんな想いを知ってか知らずか、小首を傾げて怪訝そうに見上げる。
そう言えば、あの時拾った紙切れは、未だに上着の懐へ押し込んだままだったっけ。こいつが齎す筈だった情報が届かない事で、どこかで何かの事態が行き詰ったりしているんじゃないだろうか。そんな思いが、脳裏に一瞬だけ浮かんで消えた。
階下に来客の帰る気配があり、程なくして響いたノックの音に応えると、女中が晩飯の支度が整った事を告げに来た。
はしゃぎながら俺の手を取って急かすベニカの様子に、彼女は微笑ましげな笑みを浮かべつつ共に部屋を出ると、ユージェニーの部屋の扉を叩いた。
俺たちが食堂へ向かうべく階段を下り掛けたその時だ。突然、背後で絹を裂く様な悲鳴が上がった。
咄嗟に振り向いて駆け上がり、助けを呼ぶ声がする部屋へ飛び込む。
「助けて、誰か、誰か……!」
続き部屋の扉を蹴り開けた一瞬、何が起きているのか判らなかったが、女中に羽交い絞めにされたユージェニーが、髪を振り乱しながら己が喉元へ刃物を宛がっている事に気付くと、その腕に飛び付いて捻り上げ、得物を取り上げた。
「如何なされましたか?!」
悲鳴を聞いて駆け付けた家令氏に、肩で息をしながら取り上げたペーパーナイフを示した瞬間、彼女は女中の腕を振り解いてバルコニーへ駆け出ると、今度は手摺から大きく身を乗り出した。
「コラ待て、何やってンだ!」
思わず叫んで駆け寄り、飛び降りようとするその柳腰を抱き留めると、僅かな抵抗の後、彼女はその場へと力無く泣き崩れた。
「ランジャ様、お願い、どうぞ死なせて……」
「死んでどうする! 馬鹿な事を考えるんじゃない! 一体何があったってンだ。えぇ?」
跪き、両手で掴んだ華奢な肩を揺さぶりながら顔を覗き込んでも、彼女はむせび泣きながら首を振るばかりだ。昨日まではあんなに幸せそうに笑って、素晴らしい歌声まで聴かせてくれたってのに。
「大丈夫よ」
優しく包み込むような声を振り返ると、夫人は俺たちへ静かに歩み寄り、身を屈めて俺の肩にそっと手を置くと、瞼を閉じて小さく首を振って見せる。
何やらガサツを窘められた気がして、極まり悪さにくしゃくしゃ頭を掻きながら立ち上がると、夫人は俺と入れ替わりに跪き、震える彼女の体を抱き締めると、涙に濡れた顔に頬を寄せ、乱れた髪を優しく撫でた。
「大丈夫よ。ここの誰も、あなたを傷付けたりはしない」
「アレーネ様、私……」
「判っているわ。侯爵閣下への御恩を思えば、その命に背く事は出来ない。だけど、この邸を出てしまったら、アイヴァン殿との逢瀬は二度と叶わない。ならば、いっそ、と……」
暫しの逡巡の後、腕の中でそっと頷く彼女に、女神の様な憐み深い眼差しが注がれる。
「でも、あなたが命を絶ってしまったら、アイヴァン殿はどう御思いかしら?」
静かに腕を解きながら、濡れた瞳を覗き込むように問うその言葉に、彼女が弾かれたように顔を上げると、夫人は大きく頷いて見せた。
「『騎士と精霊』のアリアで、あなたも歌っていたわね。『我が命は、汝が命』と。彼を愛しているのなら、大切にしなければいけないわ」
諭しながら差し伸べる手に、おずおずと応えた手を握って立ち上がらせると、夫人は彼女の細い肩を抱き抱えるようにして部屋へと戻って来た。
「有難う、ランジャ殿。あなたがいてくれて本当に良かった」
優しい言葉に、「いえ」と答えるだけで精一杯の俺に、
「ベニカさんが心配しているわ。抱き締めてあげて」
と微笑む。はっとして振り返ると、ベニカは泣きそうな顔で家令氏の腕に抱かれていた。
彼が俺の礼に目礼で答えて床へ下ろすと、彼女はユージェニーに駆け寄り、ひしとしがみ付くなり火が付いたように泣き出した。
「死んじゃ嫌です。ユージェニーさんが死んじゃうなんて嫌。お芝居と一緒だなんて嫌ッ。ファビアン様もガートルードも死んじゃ駄目ですぅ」
自分にしがみ付いて泣きじゃくる彼女を、ユージェニーは暫し憔悴した顔で見詰めていたが、ふと跪いて小さな体を抱き締めると、
「御免なさい、御免なさい……」
と、潤んだ声で何度も繰り返し詫びていた。