まぁ、売り物が何であるにせよ、あんな豪華な美女がいるとなれば、件の宿屋は大変な混雑になるだろうななどと思いつつ、夕暮れ時に自分たちが逗留する宿へ戻ると、物凄い人だかりになっていた。
何事かと看板を見上げると、フーシェの宿と書いてある。そういえば、城下に入って最初に目に付いたところに入ったというだけで、店の名前なんて見ちゃいなかった。
どうやら奴もそうだったようで、顔を見合わせると互いに苦笑を浮かべていた。
人込みを掻き分けてどうにか中へ入り、客室のある二階に通じる吹き抜けの階段を上りかけたとき、酒場の客を忙しそうに裁いていた店主がやってきて、二階の角部屋に向かって叫んだ。
「ロナ! お客さんがお呼びだよ!」
返って来た返事はあの艶っぽい声だった。ロナ嬢はあの扇情的な衣装のまま現れると、軽やかな足取りで階段を駆け下りて行く。
目の前を通り過ぎる、仄かな甘い香りにつられて彼女の行方を目で追うと、酒場の入り口に、剣を佩いた身なりのいい貴公子が、従者を何人も従えて彼女の到着を待っていた。
「おやおや、イルシュ王んとこのドラ息子じゃねぇか」
奴が面白そうな口調で言う。奴によるとあの青年はマグノリエ城主の王太子らしい。
「ウィレム殿下には態々のお運び、恐悦至極に存じます」
ロナ嬢は艶然と微笑むと、薄衣の裾を持って深々と頭を下げる。王族にも劣らない完璧なカーテシーだ。
だが、王太子殿下は美女の出迎えにも拘らず、柔らかな後れ毛が飾る彼女のうなじを、憮然として見下ろすばかりだ。
「殿下は御主の術を掛けられて以来、毎夜悪夢が絶えぬと仰せだ。術を解く薬を処方して貰いたい」
傲然として口を閉ざしたままの王太子に代わって、従者の一人が居丈高に迫るが、彼女はそれを鼻で笑うと科を作って言った。
「私が作れる良い夢は三度まで。四度目からは悪夢になると、何度も申し上げたじゃありませんか。どんなに良い薬でも、あんなに立て続けにお使いになっては、毒にしかなりませんわ」
「我等は御主の御託を聞きに来たのではない。早く薬を渡せ!」
尚も迫る従者に、彼女は高笑いを叩きつけると、馬鹿にした口調で言い放つ。
「あんな弱い薬に解毒剤ですって? そんなもの無くたって、七日も我慢すれば消えるわよ。忠告を聞き入れなかったんだから自業自得でしょ?」
「おのれ薬師風情が……!」
怒号と共に剣が抜かれると、面白がって見物していた客たちはどよめき、給仕たちは悲鳴を上げる。が、王太子は彼を制して剣を納めさせると、引き攣った笑いを浮かべて彼女に歩み寄った。
「よくよく無礼な女だ。我が従者を愚弄したとあっては、この場で手打ちにすべきところではあるが、その美貌はあまりにも惜しい。側女として仕えるのならば許してやらぬでもないが、どうだ?」
「あら、お城の後宮には名だたる美女が沢山おいででしょう? 私のような端女に御執心とは、一体どうした事かしら」
彼女が含みのある口調で言いながら、紅い口角をにっと引いて妖艶に笑うと、彼の顔色から一瞬で血の気が失せる。
「そういえば、御側女の御一方が、若君を御産みあそばされたそうですね。私からもお祝い申し上げますわ。何でも、礼部卿閣下にそーっくりなお子だとか」
彼女の一言で、店内中の客からどっと笑い声が沸く。青ざめていた彼の顔がみるみる赤くなって行くのが面白い。
気が付けば二階の客室にいた客までも、部屋から出てきて手摺越しに見物している。
「せっかく王子様を生されたのにお里に返されるなんて、お可哀相な御側女ですこと。もしかして殿下が私をお召しになりたいのは、その方の代わりかしら。端女がお好みなところは王様譲りなのね」
「何を?!」
「あら、違ったかしら? ならばどうして殿下は王様にもお后様にも似てらっしゃらないの?」
「き、貴様、私ばかりか父上をも侮辱する気か!」
叫ぶと同時に彼が剣を抜くと、再びどよめきと悲鳴が上がったが、彼女は臆する様子も無く、あの挑むような燃える眼差しでじっと見据えると、彼の放つ殺気を鼻で嗤い、斬り掛かる切っ先をひらりとかわすと科を作り、手招きで挑発する。
その仕草に激昂した彼が矢継ぎ早に剣を繰り出すが、いずれも掠りもせずかわされている。
その様は丸で舞踏のように華麗で、手首や足首に幾重にも飾られた金の輪が立てる涼やかな音が、次第にリズムを伴って楽の音にも聞こえてくる。
酔客たちにもそう聞こえるのか、野次や歓声がいつしか手拍子に変わり、彼女もそれに答えて微笑さえ浮かべつつ軽やかに舞う。対する王太子殿下は汗だくで息も絶え絶えだ。
その隙を狙い澄ました彼女の、世にも美しい回し蹴りが彼の手首に命中すると、弾き飛ばされた剣が店の灯に煌き、くるくると回転しながら落下すると、彼の目の前の床に音を立てて突き立った。
その瞬間に沸くやんやの喝采に、王太子御一行は捨て台詞を残して退散し、彼女は酔客たちの賞賛に投げキスの大盤振る舞いで答える。
「お騒がせしちゃってごめんなさい。お詫びに今夜の夢の御代は要らないわ」
その一言で更に沸く酔客一同。店内は賑やかな事この上ない。
「あんな盆暗が跡取りじゃ、フィンデールも長くねぇな」
呆れた口調で笑う奴の前を、客の歓声に答えつつ階段を上って来たロナ嬢が通り掛ると、奴は「お見事」と声を掛ける。
彼女はふと足を止めて俺たちを振り向くと艶やかな笑顔で礼を言ったが、
「あの蹴りはバルナタートの体術だな」
と、奴が探るような呟きを放つと、一瞬表情を凍り付かせた。
「あなたたちもどう? 見たい夢を見せてあげるわよ」
彼女は取り繕うように早口でそれだけ言うと、有無を言わさぬ様子で俺たちの手を取って階段を上がろうとしたが、俺と奴の間にベニカがいることに気が付くと、困ったような苦笑を浮かべて言った。
「悪いけど、お嬢ちゃんにはまだ早いわ」
明らかに期待に満ちた眼差しで彼女を見上げていただけに、ベニカの落胆振りは察して余りある。
だが、何やら妖しげな薬の話もあったし、すぐに戻るからと言い聞かせると素直に部屋へ戻って行ったが、俺たちがロナ嬢に急かされながら件の角部屋へ入って行くまで、小さく開けた扉から心配そうにこちらを窺っていた。
角部屋の中は異様な光景だった。
恐らくこの宿の中では一番広い部屋と思われるが、家具の一切が取り払われた真ん中に、香炉を乗せた精霊石ランプが一つだけ灯り、その薄明かりの中、大勢の男たちが、雑魚寝状態で所狭しと転がされているのが見える。
焚き染められた香の匂いを嗅いだ瞬間、強い酩酊感に視界が歪むような錯覚を覚えたが、すぐに分解されたので事なきを得た。転がってる連中は、この香で眠らされているんだろうか。
彼女は部屋の奥に空きを見付けると、俺たちをそこに座らせ、死んだように眠る男たちの合間を縫って続き部屋へ入ると、二つの杯と水差しを手に戻って来た。
「薬酒よ。これを飲めばすぐに夢が見られるわ」
杯を俺たちに手渡し、跪いた彼女がそれぞれに水差しの中身を注ぐと、果実酒に似た甘い香りが立った。
「美女の酌で酒が呑めるなら、それだけでも十分だけどな」
ディエシーの軽口に意味深な含み笑いで答えると、彼女は胸の谷間から、掌に納まるほどの小さな硝子瓶を取り出して立ち上がり、薬が切れてぼんやりと起き上がった男の前に跪くと、小瓶の蓋を取って香りを嗅がせていた。
どうやらあれは気付け薬のようだ。目を覚ました男は彼女の術を褒め称え、礼を言うと大きなあくびをしながら部屋を出て行った。
「多分、俺たちには効かないな」
「効いてる振りしとけよ。あの女の素性を探ってやるってのも一興だ」
俺の小声の呟きに、奴は面白そうな口調で答えると、薬酒を一気に煽って寝転がる。俺も奴に倣って飲み干すが、香よりも更に強い酩酊感に眩暈を起こしそうになった。
あぁ、リカバリセルがフル稼働してるのが判る。どれだけ強い薬かわからないけど、完全に分解するまで少し掛かりそうだ。
そんなことを考えながら横になって目を閉じると、薬はほんの数秒で分解されていたにも拘らず、眠ってしまったらしい。
疲れが溜まっていたとは言え、瞼を閉じると眠っちまう癖だけは何とかしなけりゃいけないな。
すぐそばで聞こえる微かな話し声に目を覚まされて、横になったままぼんやり瞼を開けると、横たわる奴の分厚い胸に、女の影が撓垂れ掛っているのが見えた。
どきっとして慌てて寝返りを打ったが、漏れ聞こえる会話の内容は、どうにも色気のあるものじゃなさそうだ。
「さぁ、今は十年前よ。あなたはどこにいるの?」
「……神都だ」
耳元で囁く女の声に、奴は眠そうに答える。声の主はどうやらロナ嬢らしい。一体何をやってるんだ?
「そう。神都にいるの。そこであなたは何をしているの?」
「陛下の……護衛」
「そう。陛下の護衛をしているの。陛下はどこの王様なの?」
「バルナタート王……デュロン陛下」
え? 違うだろ? 何言ってるんだディエシーの奴。まさか本当に薬が効いてるんじゃないだろうな。
「そう。やっぱりね。イイ男だと思ってたのに残念だわ。さようなら」
その瞬間、鞘鳴りが聞こえたのと、俺の剣が彼女のうなじを捕らえたのと、奴がダガーを持つ彼女の手首を掴んだのとがほぼ同時だった。
「何だ。起きてたのか」
呆れた口調で言いながら、片膝立ちで剣を納める俺を、奴は彼女の手首を握ったまま、苦笑交じりに横目でちらりと見上げた。
「お前も野暮だねぇ。折角あったかい思いをしてたってのに。だが今のは悪くなかったぜ。腕を上げたな」
「そりゃどうも」
手首を捻り上げられた彼女が、小さな悲鳴と共にダガーを取り落とすと、今度は奴が彼女を組み伏せた。恐怖に引き攣る顔もそれはそれでまた艶かしい。
「薬が効かないなんて……! まさか、あなたたちギルメル駐留軍の……」
「ほぉ、近くで見ると益々イイ女だな。それに大した度胸だ。気に入ったぜ」
言いながら奴が顔を近付けると、彼女は顔を背けて体を捩る。
「嫌! 放して!」
「美女の手に掛かって死ぬのも悪かねぇが、まだまだ遣り残したことも山ほどあるんでね」
「殺してやる! バルナタートの騎士なんかみんな殺してやる!」
彼女は奴の言葉など耳に入らない様子で暴れ続けるけど、奴はにやにやしながら彼女を組み敷いたままぴくりとも動かない。
「死ぬのはそいつを楽しんでからだ」
奴はそう言うなり彼女に伸し掛かると、悪態をつき続ける紅い唇を、丸で獣が獲物に噛み付くように塞いだ。
驚いて見開いた彼女の黒い瞳にみるみるうちに涙が溢れ、玉を結んで零れ落ちる。何か、その、やりすぎじゃないか? ディエシー……。
奴も急に大人しくなった彼女を不審に思ったのか、体を離すと、顔を背けた彼女の涙を呆然と見詰めていたが、白けた顔で舌打ちをすると、呆れたような溜息をつきながら起き上がった。
「粋がってんじゃねぇ。小娘が」
奴はそう吐き捨てると、乱れた薄衣を直しながらのろのろと起き上がる彼女を一瞥し、
「黒羽かと思ったが、どうやらハズレだ」
と呟くと、俺を振り返って「飲み直そうぜ」と言うなり部屋を出て行ってしまった。
俯いたまま唇を噛み締めて涙を拭ってる彼女を見てると、何だか居た堪れない気持ちになったけど、奴への仕打ちを思うと彼女を気遣うのも何だか筋違いのような気もする。
で、少々気掛かりではあったけど、そのまま置き去りにして酒場に下りて来てしまったが、結局、俺たちが散々飲んだくれて夜半過ぎに部屋に戻るまで、彼女はあの角部屋からは出て来なかった。