翌朝、いつもなら真っ先に目覚めて、俺たちを元気に叩き起こしてくれるベニカが、その日に限っていつまで経っても目を覚まさない。
疲れてるのかと思って暫くそっとしておいたが、いい加減昼近くなっても、死んだように眠り続ける彼女に、俺たちも漸く徒事ではないことに気付いた。
「ベニカ! おいベニカ!」
頬を軽く叩いて目を覚まそうとした時、彼女から微かにあの果実酒の香りがしたような気がして、胸の奥に嫌な予感が広がった。
「まさか、薬……?」
奴が険しい顔で呟いたとき、唐突にノックの音がした。不審に思いつつ、奴と顔を見合わせて扉を開けると、細身の男がするりと入って来た。
よく見るとロナだ。男の服を着て化粧もせずにいるけど美しさは変わらず、却って派手な衣装よりも瑞々しく見える。腰まで届く黒髪も、うなじの辺りで無造作に束ねただけで、金の簪もつけていない。
「お困りのようね」
彼女はそう言って腕を組み、壁に寄りかかると、紅い唇をにぃっと引くあの堕天使の微笑を浮かべた。
こいつが犯人だ。間違いない。そう思った瞬間、俺は彼女の襟元を両手で掴んで壁に叩き付けていた。
「手前ェ、ベニカに何を飲ませた?!」
「痛っ! 何するのよ」
奴に制されて手を離すと、彼女は襟を直しながら俺を睨み付ける。
「死にゃしないわよ。大袈裟ね。ロアルデから来たって言うから、林檎酒をご馳走してあげただけよ。まぁ、少しは薬も入れたけど」
「何だよ。昨夜の意趣返しか?」
呆れたように言いながらも、奴の口調は明らかな怒気を含んでいる。
「そんなんじゃないわよ。ちょっと面白い情報を仕入れたから、協力してもらおうと思っただけ」
「だったら直接言えよ! ベニカには関係無ぇだろ!」
「何よムキになっちゃって。あの子は何? あなたの子? それとも剣士を二人も護衛につけてるあたり、どこかのお姫様のお忍び旅行かしら?」
「いい加減にしろよ!」
彼女の茶化す様な口調にカッと頭に血が昇る。その勢いで抜いた剣を、白い喉元に突き付けた。
「これだから騎士って嫌いよ。何でも剣で思い通りになると思ってるんだわ」
「薬で思い通りにしようとしてる奴に言われたくねぇよ。それに俺は騎士じゃない」
「気に入らないなら殺せば? そのかわりお姫様は死ぬまで目を覚まさないわよ」
「何だと?!」
逆上してる俺の肩に、奴が宥めるように手を置く。渋々納めると、彼女は大袈裟に溜息をついて見せた。またその仕草が癇に障る。
「ったく。昨夜と違ってえらく強気だな」
「身を守るためだったら何だってやるわ。空涙の一つや二つ安いものよ」
平然と言い切った彼女の言葉に、奴は一瞬唖然としたようだったが、何を思ったのかげらげら笑い出しやがった。いや笑ってる場合じゃないんだけど。
「いや参った。大したタマだなお前さんは。で、協力して欲しい事ってのは何だ? それがベニカの薬代なんだろ?」
「あら、思ったより物分りがいいのね。そう、この子の治療代はあなた。『雷神の御子』よ」
「はぁ?!」
彼女はすんなりと細い指で面食らってる俺を指差すと、勝ち誇ったように鼻で笑った。
「変だと思ったのよねぇ。バルナタートには鉱山も、ホルザレン会の支部も無い筈なのに、何で石読みなんか連れてるんだろうって。どうせ偽者に違いないとは思ったんだけど、普通、神族が化けるなら石読みよりも神官がいいとこでしょ? まさか本物だったなんてねぇ」
「さすが薬師、情報が早い……と言いたいところだが、お前さんもおかしいだろ? 何でナクルタツリの生き残りが、仇敵とも言うべきバルナタートの体術なんぞ身に着けてるんだ」
「言ったでしょ? 身を守るためだったら何でもするって。あなたも、ただの助平親父だと思ってたら、あの『金狼ディエシー』だったとはね。ロアルデの英雄王から口付けを賜るなんて光栄の至りだわ。バルナタートの男だったら、毒を山ほど盛ってやるとこだけど」
これが薬師の情報収集力ってわけか。全てお見通しとあっちゃ分が悪い。さしものディエシーもお手上げといった仕草で天を仰いでる。
「判ったよ。あんたの勝ちだ。で、俺は何をすればいいわけ?」
「交渉成立ね。毎度あり」
脱力して溜息をつく俺をよそに、彼女は弾んだ声で言いながら手招きをする。奴もまた肩を竦めるとベニカを抱き上げ、共に彼女の後について街へ出た。
着いた所は、裏通りの入り組んだ場所にある小さな薬屋だった。
彼女は俺たちを店先で待たせると、「フラムいる?」と言いながら中へ入って行く。店長らしき中年男の穏やかな声が、「奥におりますよ、お嬢様」と答えるのを聞くと、俺たちは思わず顔を見合わせた。
「お嬢様ァ?」
「あいつが?」
俺たちの声に気付いたのか、店長は外に出てくると中へ招き入れてくれた上に、眠り続けるベニカの為に椅子を持ってきてくれた。
彼はベニカの様子から何かを察したようで、「お嬢様には困ったものです」と申し訳なさそうに言うと、彼女が入って行った店の奥へ通じる扉を開けて、中を覗き込んだ。
奥からは、くぐもった音で言い争う声が聞こえてくる。その声が近づいて来たと思ったら、突然扉が開き、覗いていた店長が慌てて店内に戻ると、仏頂面のロナと、それを追う白髪の老人が出て来た。
「お嬢様が何と仰られても私は反対ですから!」
「あーもー判ったわよ! 判ったから白羊火焔晶を出して」
頑固そうな老人の言葉に癇癪気味で答えると、彼女は苛付きながら店長に命ずるが、彼はおろおろするばかりで動こうとしない。
「どうしたの? 薬種を頂戴」
「それが……昨夜、お城の方が見えて、店中の気付け薬を全て持って行かれてしまいました」
「何ですって?!」
店長の告白に、彼女は暫しの間絶句していたが、城の方角を睨み付けると、「あの馬鹿王子」と忌々しげに呟いた。
そういえばあいつも毒消しがどうのとか言ってたっけ。昨夜の彼女の口振りじゃ、買い占めたところで効くものじゃなさそうだけど。
「如何なさるおつもりですか? 次の仕入れには一月は掛かりますよ」
窘めるような強い口調の老人に、「今考えてるわよ」とうるさそうに苛々と答えると、彼女は腕を組んだまま店内をうろうろ歩き回っていたが、ふと足を止め、「自分で調合するしかないか」と呟いて大きな溜息をつくと、俺たちを振り返るなり、両手を細い腰に当てて偉そうに言い放った。
「契約変更! あなたたちを用心棒に雇うわ。薬種を取りに行くから一緒に来て」
「えぇ?! 何だよそれ……」
「フラム、その子の看病をお願いね」
彼女は有無を言わさず老人にベニカを預けると、俺の抗議も聞こえない振りで店を出て行ってしまった。
仕方ないので、店長たちにベニカのことを慌しく頼んで彼女を追い掛けるけど、あの我侭振りは一体何なんだ。正直言って付き合い切れない。
「まぁ、そうカリカリすんなって。あいつも見殺しにしようと思えば出来る立場にあるのに、何とかしようとしてるみたいだし、信じてやれよ」
「そう簡単に信じられるかよ。薬を盛ったのはあいつだぜ?」
「ならばお手並み拝見てことにしとけ。ベニカのことは薬師以外に頼れる相手も無いんだ。クレイドルを使うわけにもいかねぇだろ?」
確かに、補助脳を持たない彼女らはクレイドルと接続できない。クレイドルが認識しなければ異物と見做されて分子レベルにまで分解され、いずれ溶液の一部として浄化プラントを循環することになる。
アルコロジーではごく当たり前のこととして、何も感じずに過ごしてたけど、改めて思い返した時、何故か彼女が分解されてしまうことを想像してしまって、嫌な思いを消そうと思わず頭を振った。
「ベニカは大丈夫さ。あいつはともかく、ナクルタツリの薬術自体は信じていいと思うぜ」
「滅んだ国だろ?」
「あぁ、でも皆殺しになったわけじゃない。未だ辺境国の体こそ成しちゃいないが、国政から退いていた王大后が玉座を預かり、世界中に散らばった薬師たちを束ねてる。
店に爺さん居たろ? あれは多分戦火を逃れて来た薬師の一人だ。恐らく大薬師か長老レベルのな。伝える者がいる限り、技術ってのはそう簡単に滅ぶもんじゃねぇよ」
「受け継ぐ側が濫用してるのはどうなんだよ」
「覚えたては振り回したくなるもんだろ。お前さんの剣と一緒だ」
先を行く彼女がそれを聞いてクスと笑う。思わずカチンと来たけれど、奴の一言は図星だっただけに、何も言い返すことが出来なかった。
畜生、金輪際意地でも振り回すものか。
やがて宿に戻ると、彼女はそこで初めて行き先をセブランだと告げた。話によればここから更に南西へ十日らしい。
往復で三週間も掛かるけど、ここで一月何もせずに、じりじりしながら待ってるよりはマシかもしれない。
とにかく身支度をして宿を引き払うと、俺たちはマグノリエ城下を出て、再び街道を南西へ向かった。