二階の客室に上がり、ベッドに潜り込んで二時間ぐらいだったろうか、妙な圧迫感を感じて目を覚ますと、目の前にナイフを手にした大男が圧し掛かっていた。
思わず声を上げようとした所を口を塞がれたが、抵抗しようにも手足が自由に動かない。半ばパニックになりかけた時、大男の影が奴の声で言った。
「暴れるなよ。怪我するぜ」
奴の手の中で閃いた刃が右の手首に触れると、そこで初めてベッドの脚に荒縄で縛り付けられている事に気付いた。同様に左の足首も縛られていたようだ。
戒めから解かれて体を起こし、酔いと眠気でぼんやりした頭を振ってから、一体何事が起きたのかと、答えを求めて奴の顔を見上げると、奴はナイフを納めながら溜息をつき、部屋の隅に置かれたオイルランプに火を灯した。
「あいつ、一人で出てったぜ」
「はぁ?! こんな夜中に何考えてんだ。あのアマ……」
「どうやら、ついて来られちゃ困るようだな」
奴はそう言うと、自分の手首に付いた痣を撫でた。どうやら力任せに引き千切ったようで、うっすらと血が滲んでいる。気付けば額にも薄く痣が付いていた。
「それ……」
「あぁ、慌てて追い掛けようとしたら落ちた。足も縛られてるとは思わなくてよ」
「気付いてたのかよ」
「何てぇか、寝付いた頃にこっそり忍んで来るもんだから……。その、正直、ちょっと期待したし」
奴はそう言うと、極まり悪そうに額の痣をかりかり掻いた。
悪運が強いのか持ち前の運動神経の成せる業なのか、よくも今まで生き延びて来れたもんだ。この調子じゃ、女に寝首掻かれそうになった事も一度や二度じゃあるまい。
「縛られてる時点で抵抗しろよ」
「いや、そういう趣味なのかと。『ごめんなさい』とか言って頬っぺたに口付けしたし」
「一発ぶん殴っていいか?」
極力怒りを抑えつつも拳を固める俺をよそに、奴は剣を背負うと苦笑しながら言った。
「あとで好きなだけぶん殴ってくれ。取り敢えずはあいつを追うのが先決だ」
仕方ない。奴の言葉に促され、あくびしながらも手早く身支度して剣を取ると、静かに宿屋を出た。
通りを流れる湧水が月明かりに照らされて、きらきら光りながら微かな水音を立てている。
立ち止まって耳を澄ますと、その音に紛れて水を跳ねる様な足音も聞こえて来た。
それを頼りに後を追うと、広場に辿り着いたところで、漸く月光に浮かぶ彼女の姿が見えた。
通り沿いに身を隠しながら尚も追うと、今度は崩れ掛けた城壁の中へ入って行く。
「どこへ行く気だ? 城なんざ廃墟だろうに」
「判んねぇ。兎に角追うぜ」
先を行く奴に続いて城壁をくぐり、前庭に入ると、広大な庭園は雑草に覆われ、無秩序に枝を伸ばした木々が、煤に塗れた城壁に濃い影を落としていた。
嘗ては豊かな水を湛えていた筈のカスケードも、水路を壊されて枯れ果て、行き場を失った水は城壁の亀裂を伝って、広場へと流れ出ている。
彼女は真っ直ぐ庭園を突っ切ると、半分炭化したまま残っている扉をすり抜けて中へ入って行った。
奴と顔を見合わせて頷くと、間を置いて俺たちも中へ入る。
焼け落ちた瓦礫で半ば埋まった回廊を慣れた様子で進み、やがて地下へ続く階段を降りて行く。
この先は倉庫か地下牢しかない筈なのに、月明かりが届かなくなる辺りから、壁伝いに設置されたランプの灯が仄かに点っていて、植物油の燃える匂いが漂って来る。密かに人の出入りがあると言うことだろうか。
薄暗い階段を迷わず下へ下へと向かう靴音を、息を潜めて追い続けると、やがて最下層へ着いた。
歪んだ鉄格子をすり抜けると、緩やかに下る通路の脇に独房が並んでいた。どうやらここは地下牢らしい。
いずれも扉や鉄格子は破壊し尽くされ、略奪品の残骸やら壊れた刑具やらの瓦礫が積み上げられていた。
彼女は通路の先の突き当たりにある大部屋に入って行くと、瓦礫の山の奥に立て掛けてある、焼け焦げた大きな扉の裏にするりと消えた。
慌てて後を追うと、扉の裏の壁は石積みの一部が外されていて、人一人がやっと通れる程の狭い通路になっていた。
どうやら向こう側は隠し部屋らしい。程なくして点された灯を頼りに足音を忍ばせて先へ進むと、通路はすぐに広くなり、隠し部屋の手前にもう一つ小部屋があることが判った。
奴と頷き合うと、そこに隠れて中を窺うことにする。遠くから低く地響きが聞こえて来るのは気のせいだろうか。
彼女は、殺風景な石造りの部屋の奥へ進み出ると、そこに掲げられた王旗と思しき巨大なタペストリーを、暫くの間身動ぎもせずに見上げていた。
仄暗いランプの灯に浮かぶ図柄は、折り重なる五枚の紅い木の葉だ。それはまた、燃え上がる炎の花弁を持つ蓮の花にも見える。
やがて彼女はそれを手繰り寄せて傍らのタッセルに掛けると、そこに現れた大きな額の前へ静かに跪き、重ねた両手を胸に当てながらそっと俯いた。
黙祷を捧げる相手は亡き王の肖像画だろうか。若い王だ。俺と幾つも変わらなく見える。
純白の法衣と共に、線の細い中性的な雰囲気と、独特な神秘性を纏った美丈夫だ。
艶めく長い黒髪と愁いを帯びた黒い瞳は、確かに彼女に似てはいるが、瞳に宿す光には彼女のように燃え上がるような熱は無く、むしろ氷を思わせる怜悧な輝きを秘めていて、奴は学者みたいな人だと言っていたが、俺には神官かシャーマンのように見えた。
長い黙祷を終えて立ち上がると、彼女は胸元から首に掛けていた金鎖を手繰って、その先にぶら下がった小さな鍵を取り出し、肖像画に歩み寄ると、絵の中に隠された鍵穴を探り当てて差し込む。
微かに聞こえた開錠の音を確認すると、鍵を懐に戻し、ふと動きを止めた次の瞬間、振り返り様に光る何かを放った。
咄嗟に避けた俺の頬を掠めたそれは、背後の石壁に跳ね返されて、甲高い金属音を響かせる。
一瞬驚き、すぐに呆れ顔になった彼女が肩を竦めて歩み寄り、溜息をつきながら拾い上げたそれがダガーだと判ると、俺は漸く頬を伝う血の感触に気付いた。見事な腕前と言うべきか。
「何だ。ついて来ちゃったの」
「おいおい、ついて来ちゃったは無ぇだろ。俺たちゃお前さんの用心棒だぜ」
観念して出て来た俺たちの顔を、腕組みしながら見上げる彼女に、奴は苦笑交じりで言い返す。
「あんたに何かあった日にゃ、俺たちの責任だからな。世界中の薬師から『姫様の仇』と狙われるのは御免だ」
俺の言葉に、彼女はふと寂しげな微笑を浮かべると、「姫様か……」と呟きながら、腕組みを解いて肖像画を振り返り、父王の姿を仰ぎ見る。
「真名も称号も、十年前に封印したわ。だから今、ナクルタツリの王女は二人とも行方不明よ」
「じゃ、ロナってのは……」
「偽名じゃないわ。薬師として認められると師匠から師号を貰うの。それを名乗ってるだけ。今の私は御典薬師のロナよ」
「いつか妹を探し出して、祖国を再興するまでは……か?」
いつに無く優しい物言いで言葉を継ぐ奴を振り向くと、彼女は一瞬、縋る様な眼差しを向けたが、すぐにいつもの余裕綽々と言った堕天使の微笑をにぃっと浮かべて見せた。
「さぁね。本当の事は誰も知らないわ」
彼女はそう言って肖像画に歩み寄り、精緻な彫刻が施された額の縁に手を掛けると、手前に大きく開いた。
遠くから聞こえていた地響きが、またしても現れた隠し通路から、耳を聾する滝の音となって轟く。
だが、その向こうには濃密な夜霧が薄暗い灯に浮かび上がるばかりで、見えるものは何も無かった。
「さぁ、行きましょ。用心棒さん」