次の日からベニカの周辺は賑やかになった。
自称騎士団の少年たちが、配達や御用聞きの途中に、わざわざ遠回りして来ては、彼らの姫君に挨拶して行くのが日課に加わったのだ。
花屋のレオニとかいう少年などは、得意先へ持って行く豪華な花束の中から、必ず一本引き抜いては姫に献上して行く始末だ。
彼女も楽しみにしているようで、タリス店長から薬の空き瓶を一つ借りて花瓶の代わりにすると、二階の窓辺に飾って嬉しそうに眺めていた。
散歩の途中や帰り道でも、彼らによく出会った。もっとも、こちらの行動は全て把握済みらしいので、出会うべくして出会ってるって寸法だけど。
あまりにも熱心なので、当のベニカにも、「お仕事は大丈夫なのかしら」と呆れながらも心配される始末だ。
「こう見えても俺らって忙しいんだぜ」
配達の帰りらしいパン屋の息子は、空になった大きな籠を持て余し気味に引き摺りながら、得意そうに言う。確かアレクとか言う名だった。
「ベニカを護らなきゃならないし、店の仕事は日の出前からあるし、浮浪児が縄張り荒らしてないか見回らなきゃならないし、このあとはルクレシアんとこで読み書き教わるんだ」
「学校に行くの?」
興味深そうに問う彼女に、彼はきょとんとして立ち止まる。
「ガッコウって何?」
「え? ここには学校ないの?」
「うん。知らねぇ。聞いた事ねぇ」
そういえば、マグノリエ城主は、二代続けて酒色に溺れる暗君だと聞いたな。
徴税や収賄ばかり熱心で、治安や次代の教育には無関心か。道理で如何わしい店ばかりが目立つ筈だ。
「えーとね、学校って、物知りな先生が一杯いて、色んなことを教えてくれる所なの」
「何だ。親方やルクレシアと一緒じゃないか」
「ルクレシアって、先生なの?」
「娼妓だよ。白薔薇館の。表通りにあるだろ? でっかい店」
「娼妓って何?」
今度はベニカがきょとんとする番だが、果たしてこれは、彼女が得ても問題の無い知識なんだろうか。
「客を取る女のことさ。いつも日暮れ時に神殿の石段にいて、店が開くまで、俺たちみたいのに読み書きを教えてくれるんだ。すげぇ優しくて良い人なんだぜ」
そういえば、広場の近くに神殿があって、その前でクロークのフードを目深に被った女が、少年たちと談笑しているのを何度か見かけたことがあった。
フードから零れた白髪や、痩せこけた姿からてっきり老婆だと思っていたが……。
「彼女、可哀想なんだ。三年前に売られて来た時はすげぇ美人だったのに、体壊してからあんなになっちゃって。強欲婆ァのザジが無茶をさせたんだ。って専らの噂さ。寵姫の目だってあったかもしれねぇのにな」
「ふぅん」
年端もいかない子供のくせに、一体どこで聞いて来たのやら、丸で酒場で飛び交う噂話そのままの語り口に、ベニカはどう答えていいか判らないといった困惑顔だ。
「いくら売れるからって、あんなになるまで客を取らせるなんて酷いよな。そりゃ神使様の娼妓なんて滅多にいるもんじゃないけどさ」
「え? 神族の娼妓?」
今度は俺が面食らう方だ。神族なんてのは、神都のど真ん中でお高くとまってる連中だって聞いたのに、それが何でよりによって苦界になんか落とされたんだ?
「うん。俺、難しいことは判んねぇけど、神都でオトリツブシがあって、それで売られて来たんだって。
偽物だって話もあるけど、すげぇ綺麗だったんだぜ、ほんとに女神様みたいでさ。父ちゃんなんか、『花代が大金貨三十枚だとよ』って愚痴ってた。
ウチの稼ぎの一年分だって。もっとも、どんなに稼いだところで、税吏にごっそり持っていかれちまうけどな」
彼はそう言って肩を竦めて見せると、神殿へ向かう仲間たちを見付けて、すれ違い様に挨拶を交わし、「いけねぇ」と呟いて駆け出した。
途中で立ち止まり、振り返って「また明日な」と手を振ると、再び駆け出して人混みの中へ消えて行った。
日頃から大人たちの間にあって、情報の洪水に晒されている為か、どいつもこいつも言うこと成すこと早熟だ事。
「アレクの話って、難しくてよく判らなかった」
「いや、お前はまだ判らなくてもいいんだ」
残念そうに俯く頭を軽く撫でながら言ってやると、彼女は不満そうな顔で俺を見上げる。
「これも『大人になってから』なんですか?」
さて何と答えたものか。取り敢えずは「そうだな」と言って苦笑しておくしかない。
それにしても女神様の娼妓とはね……。この世界で、保護者を失った少女たちの運命とは、実に過酷なものだな。
誰もがロナのように強くはないし、ベニカのように周囲に恵まれているわけじゃない。
もしもタラサノ村の生まれでなかったら、もしも両親が石使いでなかったら、もしも親方がケルデン師でなかったら、もしもこの旅に俺とディエシーがいなかったら……、ベニカもそんな憂き目に遭っていたんだろうか。
この街で生まれ育った少年たちにとって、こんな無菌状態で純粋培養された少女などは、お姫様に見えても仕方ないのかもしれない。
それから数日もすると、ベニカも少年たちと鬼ゴッコに興じるほど元気になった。
随分と長逗留になっちまったけど、そろそろ出発の時期だ。薬屋の父子にも世話になったし、街の連中にも馴染んで来た頃だから、彼女は寂しがるかもしれないけど。
そんな事を考えるようになったある朝、目覚めると部屋に幽霊がいた。
と言うか、寝惚けた頭には幽霊に見えたというだけで、きちんと実体のある人間の女だったのだが、ディエシーのベッドに遠慮がちに腰掛けて、ぼんやりと生気の無い顔をしている姿は、宛ら幽霊のようだった。
いや、そんなことよりもあの野郎、とうとう宿にまで女を連れ込むようになったのか! これはベニカの教育上まことに宜しくないぞ。いい加減一言言ってやらねばなるまい。
「あの、どちらさんで?」
半分寝惚けたままで起き上がりながら、間抜けな質問をすると、女はおどおどと居心地悪そうに立ち上がった。
「あ、あの、お休みのところを申し訳御座いません。ディエシー様には、ここで待つようにとの仰せでしたので……」
「しょうがねぇなァ、あいつ……」
あくびをしながらベッドを降り、座ってろと仕草で示すと、女はおずおずといった様子で、再び腰掛けた。
薄汚れたクロークの下は、見るも無残に痩せ細っているけど、袖口から覗く手は雪のように白く、目深に被ったフードからは白い髪が覗いている。はて、この姿はどこかで見たことがあるような……。
寝惚け眼で遠慮なく凝視してる俺を不審に思ったのか、女はたおやかな仕草でフードを外した。俺を見上げるのは赤い瞳……神族だ。
「ひょっとして、ルクレシア嬢?」
「はい」
女は弱々しい声で答えると、恥ずかしそうに目を伏せたが、なるほど、随分衰弱しているようだけど、健康な時であれば、さぞかし美しかっただろうと思われる目鼻立ちだ。
こけた頬や瞼に染みた隈が痛々しい。無造作に結い上げている白髪も、以前は艶やかなプラチナブロンドだったに違いない。いつも目深にフードを被っているのは、これを隠すためなんだろうな。
「あの野郎、何考えてやがんだ……」
と呟いた時、勢いよく扉が開いて上機嫌な馬鹿野郎が入って来た。
「おぅ、起きたかランジャ、メシ食おうぜ朝飯。今朝は美女と同伴だ」
「ディエシー、こいつは一体どういう……」
「一日借り切ったんだ。白薔薇館の女将に掛け合って」
「はぁ?!」
「ほら行った行った」
奴は抗議の言葉もどこ吹く風で、呆気に取られてる俺の背中を叩いて階下へと促すと、彼女の折れそうな肩を大事そうに抱えて、ゆっくりと階段を降りて来た。
まだ早い時間なので食堂の客入りは疎らだったが、何だか目立ちそうで落ち着かない。店主などは食事を運んで来たついでに、彼女と俺たちの顔を見回してにやにや笑う始末だ。
「親父っさん、部屋空いてる?」
「空いてますけど……ここで商売は無しですよ」
相変わらず朝っぱらから豪快な呑みっぷりで問う奴に、店主は苦笑いで声を潜める。
「いやいや、そんなつもりはねぇよ。休ませてやりたいだけだ」
「それならよう御座いますよ。すぐ支度します」
一転して満面の笑顔になった店主の背中を見送ると、今度は俺が声を潜めて訊く番だ。
「何でここにルクレシアがいるんだよ」
「ほぉ、堅物のお前さんでもご存知とはな。ひょっとしてお前……」
「違うって! ベニカの取り巻きから聞いただけだ。子供らに読み書き教えてるとか」
「モテてるなぁベニカ。で、親父代わりとしちゃ気が気じゃねぇ、と」
「うるせぇよ。それよりこれはどういうことだよ。一体何考えてんだよ」
「食ったら話すよ。取り敢えずは食え」
「一日借り切ったって……大金貨三十枚払ったのか?」
非難がましく訊く俺に、彼女は上品な仕草で食事をしながら、ふっと寂しげに笑う。
「女将に曰く、金貨二枚だとか。今の私にそれほどの価値は御座いませぬ故……」
「あ……ごめん。あんたに言った訳じゃないんだ」
慌てて謝ると、彼女は儚げな微笑を浮かべたまま、ゆっくりと首を振った。
「お気になさらないで。私はこうして優しくして頂けるだけでも十分に御座います故、金貨二枚でも過ぎたる値と存じます」
なるほど。こんな姿に落ちぶれても、育ちの良さってのは覆い隠せないものなんだな。
正直言って、娼妓の身の上に興味なんて無かったけど、この吹き溜まりの街では、彼女の存在が突出して異質であることは容易に想像出来た。
この匂い立つような気品、たおやかな仕草、優雅な立ち居振る舞い、そして嘗て誇ったであろう美貌……。
神都で生まれ、何不自由なく育った筈の、この貴種の娘の身に降り掛かった不幸とは一体どんなものだったのだろうか。