「ところで兎ちゃんて何だよ?」
野次馬を掻き分け、宿の扉を開けながら幾分不満げに訊くと、いたずらっぽい口調が返って来た。
「赤い目で白い毛で、藁敷きの穴倉にいる動物」
「……こいつ!」
小突こうとする俺の手を笑いながらひらりとかわし、軽い足取りで階段へ向かう彼女を追うと、部屋を飛び出して来たディエシーに出くわした。
「何だ今の音は……!」
奴は二階の手摺から身を乗り出すと、窓の外を透かし見ながら険しい顔で呟く。どうやら大音響と振動に驚かされたようだ。
「『雷神の御子』でも現れたんじゃねぇの?」
階下から見上げつつ、にやりと笑って言ってやると、奴は俺に気付いて一瞬呆気に取られた顔をしていたが、「ランジャ!」と叫んで階段をもどかしげに駆け下りて来ると、がばっと抱き付くなり、大きな手で背中をばんばん叩いて来た。
「良かった! 無事で良かった!! どうやってお前さんを助けるか算段してたとこだったんだ。一体どうやって抜け出した?!」
そいつに片眉を上げて見せながら背後を指差してやると、振り向いた奴に彼女は「はァい」と艶っぽい声を掛ける。
「おぉ、ロナじゃねぇか! 元気だったか?」
奴は彼女にも抱き付こうとするが、すんでのところであっさりかわされると、苦笑しながら頬っぺたを指先でかりかり掻いた。
「お蔭様で。噂の美女を拝みに来たんだけど、兎ちゃんが捕まってるってタリスに聞いたから、ちょっと城まで助けに行って来たのよ」
「兎ちゃん……?」
彼女が答える代わりに俺へ顎をしゃくって見せると、奴は得心が行ったのか盛大に吹き出す。
「だからやめろよそれ」
憮然として抗議すると、彼女はツンと澄まして薄衣の裾を持ち上げ、軽く膝を曲げて見せた。
「あら、じゃあ我が君とでもお呼びしましょうか? 陛下……」
「それもやめろ。断っただろ?」
呆れた口調で言う俺に、彼女はあの皮肉交じりの生意気そうな微笑を浮かべた。
まったく、掴み所の無い奴だ。成熟した女の顔をするかと思えば、時々こんな子供じみた振る舞いをしやがる。
「そうだ! 怪我は? 奴に刺された傷は?!」
奴はそう言うと、今度は両手を俺の肩に置いて軽く揺さぶった。
「あぁ、あれはすぐ治ったけど、酷ぇ目に遭ったよ。あの加虐性癖の変態爺ィ……」
乾いた血糊で強張った上衣をたくし上げて見ると、あの下手糞な縫合跡はいつの間にか瘡蓋と共に剥がれ落ちていたが、微かな痕になっていた。
奴はそれを見て無事を確認すると、大きな安堵の溜息をついたが、こっちは色々思い出してすこぶる気分が悪い。
「恩に着るぜランジャ。お前さんのお蔭で彼女もベニカも無事だ」
「二人は?」
「角部屋に居る」
「では用心棒殿、侯爵令嬢にお目通りを願おうか」
「承知仕った」
顔を見合わせてにやっと笑い、連れ立って二階へ向かう俺たちに、彼女も「待ってよ」と言いながら慌ててついて来た。
角部屋の前に着き、奴が咳払いしてから軽くノックすると、中から「どなた?」と返って来た。
確かにルクレシアの声だけど、以前とは打って変わって自信に満ちた張りのある声だ。
「ディエシーに御座います、お嬢様。お客人をお連れしました」
「ご苦労様、入って頂いて」
人の目があるところでは主従の振りというわけか。堂に入ったもんだな。
扉を開けて慇懃に頭を下げて見せる奴の姿に苦笑しつつ中へ入ると、贅沢な仕立てのドレスに身を包み、上品な化粧をしたルクレシアが居た。長い髪も綺麗に結い上げて花の簪を飾っている。
なるほど、元々の美貌に加えてこの出で立ちなら、最早あの半病人の娼妓と同一人物だとは誰も思わないだろう。
「ご尊顔を拝す栄誉に与り、光栄に存じます」
入って来た俺たちに、輝くような笑顔を見せる彼女の前に進み出ると、少しばかりおどけながら、馬鹿丁寧に拝礼して見せた。
「え? あ、あの、ランジャ様、どうか御手をお上げ下さい」
慌てて駆け寄り、困惑した表情で抱き起こそうとする彼女に、上目遣いに片目を瞑って見せると、苦笑しながら顔を上げる。
「そういう時は『役目大儀』とか言って、悠然としてなきゃ」
「そ、そんな、大恩あるお方に……」
おどおどと身を縮める細い肩を軽く叩いてやると、彼女は頬を染めてはにかんだような笑顔を見せてくれた。
「で、お嬢様、今後はどのようにお呼びすれば……?」
「フィノンとお呼び下さい。ユグレー夫妻から頂いた、私の真名に御座います」
彼女はそう言うと、幸せそうに微笑む。数日見なかっただけなのに、何だか更に美しくなったようだ。
「そちらの方は?」
「夢屋のロナと申します。お見知り置き下さいませ」
遠慮がちな問いに、さっき俺に見せたのとは打って変わって完璧なカーテシーで答えるロナに、ルクレシア改めフィノン嬢は、嬉しそうに歩み寄るなり、彼女の手を取って立ち上がらせた。
「まぁ、あなたがロナ殿。ディエシー様からお話を窺っておりました。とても美しくて魅力的な方だと……。お留守だったとは言え、無断でドレスをお借りしてしまって申し訳御座いません」
「え? ドレス……?」
ロナはきょとんとすると、改めてフィノンの姿を眺め回し、はっとして顔を上げると、説明を求めてディエシーを振り向いた。
そういえば、確かに贅沢で豪華な衣装だけど、臙脂色の生地に金のレース使いというのは、清楚な雰囲気の彼女には少々派手過ぎるし、良く見れば、胸や尻周りの生地が少しばかり余っているようにも見える。
すらりと細身なフィノンよりも、肉感的なロナのほうが似合いそうだ。
「いやその……緊急事態だったもんで、タリスを叩き起こして何とかしてくれって頼んだんだ。そしたら、お前さんが置いて行ったのがあるって言うから……」
言い難そうにしどろもどろで答える奴に、ロナは呆れたような溜息をつくと苦笑して見せた。
「いいわ。気にしないで。実は私も、こんなの持ってたことすら忘れてたもの。やっと思い出した。随分前に、あの馬鹿王子が私のご機嫌取りにと贈って来たものだわ」
彼女はそう言ってフィノンと顔を見合わせると、クスと笑い合った。
「ドレスに罪は無いものね。お役に立てて光栄だわ」
「ありがとう御座います。ロナ殿」
「やだ。ロナでいいわよ。可愛い人ね。もう、何だか負けた気がするじゃないの」
そんな訳の判らないことを言いながら肩を竦めると、ロナは唐突にディエシーの方を向き直るなり、人差し指を奴の鼻先に突き付けた。
「ちょっとあなた、彼女を何人目の側女にする気か知らないけど、幸せにしなけりゃ、ロアルデまで毒を盛りに行くから覚悟しときなさい」
「いやあの、落ち着けよロナ。そうじゃねぇんだ。いや、最初はそうするつもりだったんだけどよ」
まずはあんたが落ち着けディエシー。奴はロナに「じゃ、どういうつもりなのよ」と詰め寄られ、どう答えるべきか考えあぐねているようで、頭をがしがし掻きながらうろうろ歩き回っていたが、意を決したように懐から一通の封書を取り出すと、何故か俺の目の前に突き出した。
青い封蝋にロアルデの国章が捺してある。恐らく密書の回答だろう。黙って受け取ると、奴は大きな溜息をつきながら首を振って見せた。
「『彼女に爵位を』と伝えた筈なのに、あいつら、こともあろうに俺の養女にしやがったんだ。いや、彼女を保護するってぇ目的からすりゃ、それも悪かねぇんだけどよ。まったく、内務のパーシーなら洒落のわかる奴だから大丈夫だと思ったのに……。大方ジューソンかダラハンの入れ知恵だろうよ」
奴の嘆きを聞きながら封を開けて中身に目を通すと、確かに、彼女をスランフール侯爵家の籍に養女として加える旨が簡潔な文で書いてある。
二枚目以降には必要な手続きの内容と、護衛のために国境へ派遣する騎士の名前と署名とがあったが、最後の一文を読んで思わず吹き出した。
何事かと一緒に覗き込んでいたロナが、俺から文書を取り上げる。
「えーと、何ですって? 『追伸、過ぎたる酒色は控えられたし。ラーネルト伯ダラハン』……」
読み上げたロナも吹き出すと、奴は幾分顔を赤らめて彼女から文書を取り返し、無造作に畳むと憮然としながら懐へ押し込んだ。
さすがダラハン卿。長年にわたって奴の補佐を勤めて来た女房役だけあって、色々とお見通しだな。
「まったく、養女とはいえ、自分の娘じゃ側室になんか出来ねぇじゃねぇかよ。堅物野郎め。つくづく気の利かねぇ男だぜ」
奴はそう呟いた後、少し困ったような顔で自分を見詰めるフィノンに気付くと、彼女の肩をそっと抱き寄せて優しい笑顔を向けた。
「まぁ、綺麗な娘の親父ってのも悪くねぇか。ウチから精々イイとこへ嫁に出してやるさ」
「あぁ、そいつは見モノだな。近い将来、あんたンちの邸へ、どこぞの貴族の御曹司が求婚に来るわけだ。『御令嬢との結婚のお許しを頂きたく』ってな。親父代わりってのは、そういうことだろ?」
茶化すような口調で言ってやると、奴は苦笑混じりに半ばヤケクソで言い放った。
「おーよ上等だ! 貴族でも王族でも掛かって来やがれってんだ畜生め! 娘が欲しけりゃまず俺を斃すこったな!」
「へぇ。そいつもまた見モノだな。かの『金狼ディエシー』を斃して花嫁を手に入れるのはどこの勇者様やら」
そう言って笑ってやった時だ。続き部屋の扉が控え目に開いて、寝惚け眼のベニカが顔を出した。どうやら奴の大声で目を覚ましちまったらしい。
彼女はこちらを見て眠そうな目を擦っていたが、俺を見付けると飛び付いて来た。
「ランジャ様!」
いつものようにしがみ付くと、血染めの服に気付いたか、泣きそうな顔で俺を見上げる。
「カロンから聞いて心配してました。ご無事でよかった」
「ごめんな。また服を汚しちまった」
彼女の目の高さに屈み込んで頭を撫でてやると、耐えていた涙をぽろぽろ零しながら俺の首に抱き付いた。
「カロンが、ランジャ様は大丈夫だから、泣いちゃ駄目だって言ってたの。でも、でも……ランジャ様ぁ」
しゃくり上げながらそれだけをやっと言葉にすると、やっぱりいつものようにわあわあ泣き出したので、そのまま抱き上げ、落ち着くまで背中を撫でてやる。
カロンも漢だね。なかなか言うじゃないか。就任の経緯はどうであれ、結構隊長の器なのかもしれないな。