この時間に帰ってこないんじゃ、ディエシーの野郎は朝帰り決定だな。
テーブルに着くと給仕を呼び、奴が頼んでいた大量の酒を果物に換えてもらう。食事は奴の分をそのままザーリャに回したけど、食べ盛りの男子なら問題無いだろう。
食事が運ばれて来ると、彼はたっぷり盛られた皿に目を丸くしていたけれど、恐る恐る口に運ぶなり、顔を輝かせた。
「美味しい! こんなの初めて食べた」
「初めて? 鱸のムニエルがか?」
「えっ。これ、ムニエルなのか? 違う料理かと思った……」
大方、普段は弄られまくった御馳走ばかりで、こういうシンプルな庶民の味とは無縁な生活なんだろう。
空腹だったのもあるんだろうけど、彼は上品な所作ながらも、気持ちのいい食べっぷりで大盛りを平らげて行く。その様子は、何だか無邪気な子犬みたいで微笑ましかった。
食事が終わって空の食器が下げられると、小籠に盛られた林檎が、清々しい香りと共に運ばれて来た。
「今朝ロアルデから届いたばかりの初物ですよ」
得意げな店主の言葉に、ベニカが興奮してはしゃぐ。
「ランジャ様、ロアルデの林檎ですって! 素敵。こんな遠くの街で食べられると思わなかった」
彼女は早速、籠に添えられたペティナイフを手に取ると、袖口で磨いて丸齧りしようとしていた俺から、赤く熟した一つを苦笑しながら取り上げた。
小さな手ながら、慣れた手付きでくるくると皮を剥き、切り分けたものを、端から「はいランジャ様、はい若様」と手渡す様は、丸で世話女房だ。
受け取って一口齧ると、軽やかな歯応えが心地いい。まだ僅かに渋くて幾分酸味は強いものの、瑞々しい甘みと香気が口の中に広がった。
彼も渡された一切れを手にしたまま、所在なさそうにしていたが、俺を真似て齧ると満面の笑顔になる。きっと生の林檎も初めてなんだろう。
「え? 皮ごと食べるのか?」
思わず声を上げる彼に、かりかりと小気味いい音を立てて食べながら、彼女は笑顔で頷いて見せる。
「皮と実の間が一番美味しいって、奥方が言ってたの。それからずっと皮ごと食べてます」
「えぇっ、そうなのか。私も皮ごと食べてみたい」
「いいですよ。お切りしましょう」
彼女は快諾すると新しい林檎を取り、今度はナプキンでぴかぴかに磨いてから切り分けた。彼は一切れ受け取ると、恐る恐る齧り取り、神妙な顔で噛み締める。
「如何ですか?」
「んー、硬い。けど、さっきよりも味が濃くて、いい香りがする」
「それはよう御座いました」
笑顔で言う彼女につられてか、彼も微笑む。
どうやら林檎は彼女にとって故郷の味らしい。ならば俺も「郷愁」に浸ってみるか、と、給仕を呼んでロアルデの林檎酒はあるかと訊ねると、蒸留酒ならあるというので、一本追加してもらう。
運ばれて来た瓶の封を切り、杯に注ぐと、妙に懐かしい芳香が立ち昇った。そう言えば隠し鉱山からベニカを救出した後、こいつを領主の館で溺れそうなほど飲まされたっけ。
「あ、ランジャ様、それ林檎酒ですか?」
香りを嗅ぎつけて杯を覗き込むと、興味津々な眼差しで俺を見上げる。
「カルヴァドスだよ」
「私も飲みたいです」
「駄目だ、こんな強いの。林檎酒でもひっくり返るんだろ?」
「ちょっとだけなら……平気だもん。多分……」
言い張る割には自信のなさそうな口振りに、思わず苦笑が浮かぶ。一口だけだぞと杯を渡すと、嬉しそうに両手で抱えて香りを嗅いだ。
「ロアルデの匂いがする。林檎畑の匂い、醸造所の匂い」
それでもやはり強かったのか、口を付けた瞬間びっくりした顔になり、慌ててテーブルに置くと大きな溜息をついた。
「どんな味なんだ?」
「大人の……味れしゅ」
彼女同様、興味深そうに杯を覗き込む彼に、舌でも痺れたのか、呂律の回らない答えを返した途端、彼女はくたっとテーブルに突っ伏した。おいおい、舐めただけで撃沈かよ。
「しょうがねぇな。だから止めとけって言ったのに」
舌打ちしながら立ち上がり、彼女を抱き上げると、驚いた顔で見上げる彼に肩を竦めて見せ、二階の部屋へ運ぶとベッドに寝かせて来た。
で、戻って来たら今度は彼が潰れている。見れば殆ど手付かずだった筈の杯が空になっていた。
何も全部飲み干さなくたって良さそうなものを……。やれやれ。明日の朝はきっと二日酔いだぞ。
仕方が無いので、こいつも抱き上げて二階へ運んだのだが、抱き上げたときの手応えと言うか、抱き心地というか、男にしてはふにゃふにゃと頼りなくて妙な感じだった。
会った時から何か変だとは思ってたけど、ひょっとしたら、こいつ本当は女の子なんじゃないだろうか。
翌早朝、相変わらず早起きなベニカに叩き起こされて目を覚ますと、案の定、ザーリャは青い顔をしてぐったりしていた。
「大丈夫か?」
「……気持ち悪くて……頭が痛い」
彼はそう言うと、毛布を頭から被って蹲る。
「二日酔いだよ。餓鬼の癖に、あんな強いのをあれだけ飲んだんだ。嫌でもそうなる」
「一口飲んだら美味しかったんだ……。そしたら、舌がぴりぴりして……気持ちよくなって……うぅぅ」
「それで全部飲み干したのか。呆れた奴だ」
彼のくぐもった訴えを聞いて笑ってやると、小さな声で「うるさい」と反論が返って来た。どうやら言い返す元気は残っているようだ。
「お薬貰って来ます」
それに引き換えベニカの元気なこと。もっとも飲んだというほどの量じゃないから、二日酔いになんぞならないんだろうけど。
彼女は軽い足取りで階下へ降りて行くと、程なくして、仄かに湯気の立つカップを、両手で大事そうに抱えながら、そろそろと戻って来た。
「若様、お薬です」
彼女の呼び掛けに、彼はのろのろと毛布から這い出て来ると、死にそうな顔でカップを受け取った。
「これは何?」
「生姜と蜂蜜のお茶です。二日酔いに効くんですよ。厨房で作ってもらったの」
「蜂蜜……」
彼はこれもまた恐る恐る口に運ぶが、一口飲んで見て旨かったらしく、ごくごくと喉を鳴らして飲み干した。それにしても、何で彼女が二日酔いの薬なんぞ知ってるんだ?
「親方がよく二日酔いになるんです。お茶の作り方は奥方に教わりました」
「なるほどね」
そう言えば向こうにいる頃、親方は度々城に呼び出されてたっけ。大半が仕事絡みなんだろうけど、ディエシーに付き合わされることも多かったに違いない。お気の毒としか言いようが無いな。
彼は空になったカップを返すと、再び毛布に潜り込んで蹲った。
「もう少し寝てろ。腹が減ったら降りてくればいい」
そう言ってやると、くぐもった声で「判った」と返って来るのを待って、彼女と二人で階下へ降りた。
下で朝食を摂っていると、ディエシーが帰って来た。
奴はテーブルに着きながら、俺にメンテナンス済の剣とナイフを手渡すと、給仕を呼んで朝食と葡萄酒を注文する。また飲むのか。飲んで来たんじゃないのかよ。
「どこでシケ込んでたんだ?」
軽い口調で言いながら、受け取った剣を鞘から抜いて確かめると、砥ぎ直された刃が美しく輝いた。手入れしてなかった訳じゃないけど、やっぱり本職は違うよな。
この地の鍛冶屋は腕がいいと奴から聞いた。何でも、剣豪で知られる大公が、優れた技術者を優遇し、後進の育成に努めてるらしい。
俺の剣も奴のデカいのも、ここの名匠の手に成る業物なんだとか。
「いや、鍛冶屋に行ったら懐かしい奴に会っちまってよ。昔話を肴に盛り上がってたら、夜が明けちまっただけだ」
「何だ、女じゃないのか。またお気に入りの娼妓でも見付けたかと思ったが」
「たまには清らかな夜を過ごしたって、罰は当たるめぇよ」
「むさッ苦しい野郎二匹で夜通し飲んだくれて来て、清いも何もあるかよ」
「違ぇねぇ」
奴はそう言ってげらげら笑うと、相変わらず杯になみなみと注いで豪快に飲み干した。
「ただ問題なのは、鍛冶屋で逢った古馴染みってのが、ケイディシアの将軍だって事だ」
「将軍?」
「おーよ。エデルは神聖騎士団にいた頃の悪友でな。自分の剣を鍛え直しに来たとか、キナ臭ぇ事を言ってたよ」
「やっぱり戦になるのか……」
「だろうな」
頬張った厚切りのベーコンを葡萄酒で流し込みながら、苦りきった口調で言う。
「まぁ、いつもだったら、代々血の気の多いケイディシア側が言い出しっぺで始まるんだが、奴によると、今回は何だか勝手が違うらしい」
「城下に大公妃を抱えてるからか?」
俺の言葉に、奴はにやりと笑って見せた。
「ほぉ。よく知ってるな」
「街で噂を聞いただけだ」
「なるほどね。まぁ、それもあって強気になってるってのもあるんだろうけど、今回は騎士団のほうがヤル気満々で、王や宰相が下から突き上げ喰らってる状態らしい。
ロエル大公にしてみりゃ、紛争を防ぎたい思惑もあって、騎士の大半は自分とこから出してる手前、いい面の皮だよ。それが今回、併合派に回った。
まぁ、威勢のいいのは実質二、三人てとこで、残りは引き摺られたか様子見で音無しの構えってのがいいとこだろうけど、クレフ王みたいな直情一筋な脳筋野郎に、トゥラシオンの貴族どもを抱き込むような寝技が使えるとも思えねえし、こいつは妙だ」
奴にとって辺境諸侯といえば同僚みたいな扱いなんだろうけど、よその王となると言いたい放題だな。
「仕掛け人がいる、と……?」
「恐らくはな。だが正体が見えねぇ。根回ししてるのが貴族や豪商なら、動けばどこかで話題になる筈なんだが……」
奴はサラダのトマトを一切れフォークに刺すと、ベニカに「食うか?」と差し出し、彼女が頷くとそのまま齧り付かせた。トマトも彼女の好物だ。嬉しそうに頬張る笑顔につられて、奴も優しい笑顔を浮かべる。
「そう言えばあんた、煙草屋って知ってるか?」
「煙草屋?」
思い出しながら問う俺に、怪訝そうな顔を向けると、奴は食器を下げに来た給仕にもう一本追加した。
「いや、初耳だ。何だそりゃ?」
「石屋と薬屋と煙草屋が、戦が生む金を巡って暗躍中。ってな噂を聞いたんだ。あんたが知らないんじゃ、新興勢力ってとこかな」
「煙草屋ねぇ……。ひょっとすると、面白ぇものが見られるかも知れねぇな。ちょっくら行って探って来るか」
やれやれ。またいつもの悪い癖が始まったか。奴は運ばれて来た新しい瓶の封を切ると、半分をスキットルに移し替え、残りはラッパ飲みであおるなり、徐に席を立った。
「行くって、城下へ?」
「おーよ。オーラート城下にはホルザレン会もあるし、ベニカも挨拶に行きたいだろ?」
「はい」
意気揚々と笑顔で答える彼女とは裏腹に、俺は胸の奥に漠然とした不安が滲んで来るのを感じていた。
「あんまりヒトんちの喧嘩に首突っ込みたくないんだけど」
憮然として言う俺に、奴は苦笑しつつ肩を竦めて見せる。
「トゥラシオンは死んだカミさんの実家でね。ロエル大公は俺にとっちゃ義弟なんだ。まぁ、俺とは比べ物にならんほど出来た御仁だが」
「なるほど」
身内の一大事じゃ仕方ないか。観念してベニカと共に席を立つと、出発の準備をすべく三人で二階へ上がった。