まともに宿が取れるようになったのは、実にオーラート城下に入ってからだった。
内戦前夜とは言え、未だに噂話レベルで確たる情報は皆無なためか、別段物々しい雰囲気も無く、いささか拍子抜けだったが、宿屋のある表通りでも、三軒に一軒の割合で、鎧戸を締め切ったままの商店が点在していた。
街道や宿場町で見掛けたのは、こういった店の主や使用人たちだったのだろうか。
宿に部屋を取って一息付くと、奴が姫様を大公妃の邸まで送って行くと言うので、ついでに支部へ挨拶に行こうと思い、一緒に出掛ける事にした。
スーラニー姫は、お袋さんに逢うのも久し振りのようで、通りの人波を縫うように軽い足取りで先へ駆けて行っては、奴を急かして苦笑させていた。
賑わう表通りやごった返す市場を抜け、広場を横切って城に近付くにつれて、何だか妙なことに気が付いた。
邸宅街に入れば、二手に分かれるものとばかり思っていたのに、ディエシーもベニカも同じ目的地に向かっているとしか思えない。
やがて辿り着いた豪壮な大邸宅には、翼刃章とホルザレン会ケイディシア支部の金文字が刻まれた看板が掲げられていた。
「え? ここ?」
少々戸惑っている俺をよそに、スーラニーは慣れた様子で重厚な大扉を開け放つと、「母様!」と叫んで飛び込んで行く。
その様子に肩を竦めて見せる奴に続いて、嬉しそうなベニカに手を引かれて中へ入ると、姫様は石使いのクロークを纏った美女にしがみついて甘えていた。
スーラニーの母親ということは大公妃なのだろうけど、それがどうしてホルザレン会にいるんだ?
「母様、母様、お久しゅう御座います」
「やぁだ、スーラニーなの? どこのやんちゃ坊主かと思ったら……」
彼女は驚き呆れたような顔で娘の髪を撫でていたが、入って来た俺たちに気付くと、花顔を綻ばせて太陽のような笑顔を浮かべた。
「ディエシー! ディエシーじゃないの。やだ久し振り!」
奴が挨拶代わりに軽く片手を挙げると、彼女は小走りに駆け寄って、その首に勢い良く抱き付いた。
「よぉ、オリガ。相変わらずイイ女だなぁ。益々磨きが掛かってるじゃねぇか」
奴は軽い口調で言いながら、調子に乗って彼女のしなやかな腰に両腕を回す。
このまま口付けでも交わしそうな雰囲気の二人に、俺はこのまま直視しててもいいものなのかと、どぎまぎしながら見てるしかない。
そう言えばこの野郎は、美女とあらば人妻だろうとお構い無しの雑食性だったんだ。まさか義妹にまで手を出そうなんて思いやしないだろうけど。
それにしても綺麗な女性だ。艶やかな褐色の肌に映える、薄紅の唇が艶かしい。蠱惑的に輝く金色の瞳は猫科の動物を思わせる。
微かに赤味を帯びた豊かな金髪が波打つ様は、さながら金のベールを掛けているようだ。
その上、クロークの下ではタイトなドレスが、起伏に富んだ優美な曲線を強調している。
何よりもこの咽るような色香はどうだ。俺より少し年上のようだけど、とても二児の母とは思えない。彼女に比べたら、ロナなんぞまだまだ青臭いぐらいだな。
「聞いたわよ。また美女を手に入れたんですって? 呆れた人ねぇ。一体何人目?」
「さすが早耳のオリガ。だが残念ながら側女じゃねぇんだ」
「あら、今度は何なの?」
「娘だ。養女にしたんだが、これがまたイイ女で……」
その時だ。二人の向こう側から、女の子の声で可愛らしい咳払いが聞こえた。
水を差された二人が、離れながらきょとんと見下ろすと、黒髪をひっ詰めて黒縁の伊達眼鏡を掛けた十四、五歳の少女が、非難がましい目で美女を見上げていた。
石読みのクロークを纏い、術譜の本を大切そうに抱えているあたり、どうやらここの門下生らしい。
「親方、お客様は他にもおいでです」
彼女はツンと澄ました口調で言うと、「あ、あら、ごめんなさい」とうろたえる師をよそに、入り口で所在無く突っ立ってる俺たちに歩み寄り、丁寧に頭を下げると、ずり下がった眼鏡を指先で押し上げた。
大公妃はここの親方だったのか。あの宿場町の淫売女が、意味深に笑った意味が漸く判った。これを知らなきゃ偽者だと思われても仕方ないな。
「ようこそホルザレン会へ」
そう言って微笑む頬に笑窪が出来る。思いのほか可愛らしい子だ。大きな眼鏡で隠れているのが勿体無いな。
よく見れば、無造作に留めている髪留めも金細工の贅沢なものだ。この子もケルデン師の門下生同様、きっと良家の子女なのだろう。
彼女は、「こんにちは」と屈託無く挨拶するベニカに、満面の笑顔で答え、「どうも、お邪魔します」とぞんざいに言う俺を、少々胡散臭そうに見上げると、目が合った瞬間、頬を紅潮させておどおどと視線を逸らした。
「な、中へどうぞ」
彼女はそそくさと踵を返し、俺たちを奴と親方の前まで連れて来ると、ろくに顔も見ずに慌しく会釈をし、そのまま吹き抜けの階段を駆け上がって行ってしまった。
俺、何かまずいことでもしたんだろうか。挨拶の仕方が良くなかったのかな。
「ごめんなさいね。あの子、真面目でイイ子なんだけど、恥ずかしがり屋さんなの」
呆気に取られて少女を目で追う俺に、彼女はそう言って肩を竦めると、あの眩しい笑顔を浮かべた。
「初めまして。オリガよ。ここの親方です。よろしくね」
さて、どうしたものか。ホルザレン会の理念に従えば、クロークを纏っている限りは平民と同じ扱いだとは聞いたが、大公妃が相手ともなれば、拝礼しない訳にはいかないだろう。
「妃殿下には御機嫌麗しく……」
騎士を真似て、右手を胸に当てながら恭しく頭を下げた時だ。
隙を突いてひらりと懐へ入った甘い香りに、思わずどきりとして顔を上げると、目の前には、いたずらっぽくも艶めかしい微笑があった。
「忘れたの? 会の所属であれば平民と同じ。それに私は元々平民の出身よ。堅い挨拶は無しにしてね」
親方は面食らってる俺の手を取ると、握手する様に両手で握りながら、軽く片目を瞑って見せるけれど、あの身のこなし、剣の心得ありと見た。さすがは剣豪の御令室ってとこか。
「お名前は? 神使様」
「え、あー、ランジャです。よろしく……」
その美貌に見惚れたまま、ぼんやりと間抜けな返事する俺に、彼女は艶やかな唇を妖しく綻ばせると、すんなりとしなやかな指で俺の頬に触れ、ふと耳元に唇を寄せて来た。
濃艶な肌の香りと、耳朶に触れる熱い吐息に、背筋がぞくりと甘く痺れる。
「ようこそ『雷神の御子』様。噂に違わぬ美しさだこと……。あなたがホルザレン会の手中にあるなんて素晴らしいわ。ケルデン師のお手柄ね」
「いやいや、こう見えても中身は至って平々凡々に御座います故」
「ま、御謙遜を」
彼女は妖しい声音で囁くと、頭ン中が真っ白になったまま硬直してる俺をよそに、今度は隣で身を屈め、優しい笑顔でちびすけの握手に応じた。
「久し振りねベニカ。前に逢った時よりも、背が伸びて美人になったわよ。ケルデン師はお元気?」
「ごきげんよう、オリガ親方。お蔭様で元気です」
ベニカは小さな両手で彼女の手を握ると、眩しそうに見上げながら元気に答えた。
「ゆっくりして行って頂戴。寄宿生はみんな家に帰しちゃったから寂しくて。ジョゼ! お客様を二階へ案内して差し上げて」
彼女が奥の間へ向かって声を掛けると、身なりのいい温厚そうな初老の紳士が現れて、折り目正しく頭を下げた。
家令や小姓がいるのか。ケルデン親方のところでは、邸内の雑務は門下生が手伝っていたから、何だか意外な気もするけど、大公別邸ともなると、さすがに使用人の質も違うという訳だ。
「ようこそホルザレン会へ。ご案内致します。こちらへどうぞ」
彼の言葉を朧に聞きながら、談笑する姫様とディエシーの元へ歩み寄る、親方の後姿をぼんやり眺めていると、クロークの裾を軽く引っ張られた。
「ランジャ様……?」
はっと我に返って振り向くと、心配そうに見上げるベニカと目が合った。
「どうしました?」
「あー、いや……綺麗な人だなと思って」
「綺麗ですよねぇ」
彼女は弾んだ声で言うと、親方の姿をうっとりと眺める。
「オリガ親方って、石使いの承認式で神都へおいでになった時に、神聖騎士団にいらしたロエル大公に見初められたんですって」
「へぇ」
「婚約の証として贈られた冠は、大公家に伝わる宝剣を溶かして作った鋼の宝冠なんですって。愛する女性の為なら、家宝さえ惜しくないなんて、素敵ですよねぇ……」
重ねた両手を胸に当て、夢見るような眼差しでうっとり語ると、感慨深げに溜息をつく。なるほど、彼女はこの手の情緒纏綿な話が大好きだったっけ。
確かに、トゥラシオンの鋼は、純度が高くて磨く程美しく輝く。それに、あれだけ豪奢な金髪に戴くんだ。黄金で作った冠では、逆に霞んでしまうに違いない。
家令に促されて二階へ上がると、王宮もかくやと思われるような、豪華な応接間に通された。
ホルザレン会の支部とは言え、大公妃の住まいともなれば、離宮並みの造作であっても不思議は無いよな。
部屋に入るなり、ベニカは大はしゃぎで大きな窓に駆け寄ると、回廊の向こうに広がる中庭を見下ろして歓声を上げる。
中央に噴水すら設えられた庭園は、こじんまりと小規模ながら美しく整えられていて、庭を囲む邸の屋根のすぐ向こうには、オーラート城の尖塔が幾つも見えた。
「さて、このやんちゃ坊主はどこの子かしら? 私の可愛いお姫様は、神都へ行儀見習いに行ってる筈だけど……」
両手を細い腰に当てて、にやりと笑う親方に見下ろされると、スーラニーは極まり悪そうに上衣の裾を弄りながら、黙ったままチラと上目遣いに母親の顔を盗み見た。
「黙ってちゃ判らないでしょ? 一体どうして帰って来ちゃったの?」
親方が彼女の目の高さまで身を屈めて覗き込むと、彼女は小さな声で「ごめんなさい」と呟いたきり、また黙り込んでしまった。
親方は立ち上がりながら困惑顔で溜息をつくと、ディエシーを振り向いて肩を竦めて見せる。
「何だか知らねぇが追われてるんだとさ。ソルファの宿場でランジャが拾って匿ってたんだ」
「まぁ、そうだったの。ごめんなさいね、ご迷惑をお掛けしちゃって……」
こちらに向き直って丁寧に頭を下げる親方に、「あ、いえ」と慌てて曖昧な返事を返す。
それにしてもスーラニーの奴、頑として理由を言わないつもりらしいが、一体神都で何があったって言うんだろう。
何よりも、神都からソルファまで、従者も連れずに一人で帰って来たんだろうか。だとしたら冒険にも程があるぞ。
「でも心配だわ。追われてるって、一体誰に追われてるの?」
親方が眉を顰めて訊きながら、彼女の両肩に手を置いた時だ。階下から来客に応対する声が聞こえ、程なくしてこの部屋の扉をノックする音が響いた。
親方が答えると、「失礼します」という声と共に、小姓らしき少年が入って来た。
「奥様、お客様です。あの、神聖騎士団と名乗っておられますが……如何致しましょう」
「え? 神聖騎士団……? まぁ、どんなご用件なんでしょう」
うろたえ気味な小姓に、不安そうな声で答えると、親方は優雅な会釈と共に部屋を辞した。
「神聖騎士団だと?」
「何でまた……。戦がらみか?」
俺たちが怪訝顔を見合わせて、親方を追おうとすると、スーラニーは何故か慌てて奴にしがみ付いた。
「かかか母様に御用なんだ。き、きっと伯父上には関係ない」
やけにそわそわしている彼女を、奴は何か思い当たったのか、にやりと笑うと徐に担ぎ上げ、大騒ぎでじたばた抵抗するのも構わずに、そのまま階下まで連れて行った。
親方と挨拶を交わしている客は三人。いずれもソルファの宿場で見た顔で、上品な身なりながら筋骨隆々たる野郎ばかりだった。
見れば宿屋で部屋を検めに来た若造もいて、吹き抜けから見物を決め込んでる俺とベニカに気が付くと、「してやられた」と言わんばかりの苦笑を浮かべた。
何だ。物騒な割には毛並みが良さそうだと思ってたら、あいつら神聖騎士団だったのか。
「よ! 久し振り」
奴が軽く片手を挙げて声を掛けると、彼らは弾かれたように居住まいを正す。
「ディエシー将軍! お久しゅう御座います」
玄関に居並ぶ屈強な男たちが、揃って最敬礼する様は壮観だ。奴は満足そうに頷くと、肩の上で暴れるスーラニーを、呆気にとられた顔で見上げる彼らの目の前に、首根っこを掴んだまま降ろした。
「お前らが探してるのはこいつだろ?」
「如何にも」
奴の問いに、姫様捜索隊の隊長と目される、一番年かさの騎士が答えると、彼女は観念したのか、デカい手にぶら下げられたまま、大きな溜息をついて大人しく項垂れた。
「あーぁ、やっぱりな。こいつ、神都で何があったのか、頑として口を割りゃしねぇんだ。お前ら来た早々悪ィけど、母ちゃんが心配してるんで説明してやってくれるか?」
「畏まりました」
呆れたような奴の口調に、隊長は苦笑交じりで答えると、
「ご迷惑をお掛けします」
と申し訳なさそうに頭を下げる親方に、端正な所作で拝礼した。
家令の案内で二階へ上がって来る一団の後ろで、あの若造がふと俺を見上げた。
「よう、また逢ったな」
と声を掛けてやると、にやりと笑って立ち止まる。
「石読み殿もお人が悪い。すっかり真に受けてしまいました」
彼はそう言うと、罰が悪そうに頭を掻いて見せた。
「悪ィな。あんたが何者か判らなかったもんでね」
そう言って苦笑を交わすと、ベニカを促して彼らと共に部屋へ戻ったが、背後でひそひそ話す声を不審に思って振り返ると、角部屋の扉の隙間から、数人の少女がこちらを窺っていた。
中には、あの眼鏡ちゃんも混じっていたが、片手を挙げて応えてやろうとした瞬間、俺と目が合うなり慌しくバタンと閉じた。
程なくして中からきゃーきゃー騒ぐ声が漏れ聞こえたけど、ありゃ一体何なんだ? 俺が一体何をしたってんだ? 訳が判んねぇ。