部屋を出た騎士団一同が、奴と共に階段を降りて行くのを、吹き抜けの手摺に寄り掛かって眺めていると、親方は最下段に腰掛けて、膝にすがり付いてすすり泣いている娘の髪を撫でていた。
隊長はそっと歩み寄ると、彼らに気付いて慌てて立ち上がろうとする彼女を制し、ふと顔を上げたスーラニーの前に跪いた。
「姫様、ご婚約おめでとう御座います。ユアン王太子殿下は、昨年まで神聖騎士団に出仕召されていた、文武に秀でた御仁です。一度お逢いになられては如何でしょうか?」
姫様は濡れたままの顔で、優しい微笑を浮かべている隊長の顔をじっと見詰めていたが、
「ほれ、何とか言わねぇか」
と、苦笑するディエシーに促されると、袖口で涙を拭いながら立ち上がり、
「ご迷惑をお掛けしました」
と、母君に支えられながら、共々丁寧に頭を下げた。
「姫様の剣技は、実に素晴らしいものでした。お役目を果たされた後、正式に出仕された暁には、是非私とも手合わせをお願いしたい」
「はい是非。御指南頂ける日を楽しみにしております」
そう言って、一丁前な最敬礼をする彼女に笑顔で答礼すると、隊長は部下と共に奴と親方の見送りを受けて帰って行った。
「そう言えばあなた、その格好はどうしたの?」
家令が扉を閉めるのを見届けて振り返ると、親方は漸く娘の出で立ちに気付いたらしい。
「ベニカに貸してもらいました」
スーラニーが言いながらチラと二階の俺たちを見上げると、ベニカは咄嗟に俺のクロークの裾を掴む。やれやれ。何を警戒してるのやら……。
「あらまぁ、そうだったの。大変! 汚しちゃったわ。洗ってお返ししなきゃ。すぐ着替えてらっしゃい」
彼女が返事と共に階段を駆け上がって行くと、親方は申し訳なさそうな顔で俺たちを見上げた。
「本当にもう、あの子ったら……。ごめんなさいねベニカ。あの子が御世話になりました」
「いいえ、お気遣い無く親方。姫様が御無事に戻られて……よう御座いました」
ベニカは心なしか硬い表情でそう言うと、漸く手を放した。
「何だか落ち込むわ。私、こんな事になってるなんて、全然知らなかった」
親方は娘が駆けて行った先を見遣ると、力なく呟く。
「『早耳』の二つ名は返上ね。無関心だった訳じゃないけど、仕事にかまけてあの子の事は二の次だったわ。神都に居るなら大丈夫だろうって、安心し切ってた。
本当、情報って、手を伸ばさなければ丸で入って来ないものなのね。痛感したわ」
「大公妃と親方の兼業じゃ仕方あるめぇ。お前さんは良くやってるよ。スーラニーは跳ねッ返りで短慮だが、曲がっちゃいねぇのが何よりの証拠だろ」
奴がそう言うと、親方は困惑気味ながらも微笑みながら頷いた。
「ありがとうディエシー。輿入れの日まで、あの子は私の手元に置くことにするわ。もっと話を聞いてあげなきゃ」
「いつ決まったんだ? 結婚なんて」
「今年のあの子の誕生日に先方から打診があって、それからずっと内密に話を進めて来たんだけど……、最近、雲行きが怪しいから、どうなるか判らなくなってきちゃったわ」
「なるほどね。俺も暫く城下にいるつもりだから、何かあったら言って来いよ。表通りのシェランて宿だ」
城門の方角を指差しながら言うと、奴は大きく伸びをして二階の俺たちを見上げる。
「さて、帰るとしようぜ」
「えぇ? 帰っちゃうの? 是非ウチに泊まってよ。積もる話もあるし、近頃何かとキナ臭い噂もあるから、男手が多ければ私も心強いわ」
縋る眼差しで見上げながら、甘い声で懇願する彼女に、奴は苦笑しながら肩を竦めると、階段を降りて来た俺たちを振り向いて「どうするよ」と訊く。
「雨露しのげりゃどこでも」と答えると、「じゃ、そういうことで」と言いながら玄関へ向かい、家令が恭しく扉を開けると、「宿を引き払って来る」と言って出掛けて行った。
「ランジャと呼んでもいいかしら?」
彼女はゆっくり歩み寄ると、あの艶かしい唇に妖艶な微笑を浮かべた。頷く俺を見上げる金色の瞳が宿す、妖しい光に魅入られる。
「ソルファでは、あの子が御世話になったんですってね。匿ってくれてありがとう」
「いや、俺は何も……。でもまさか、追っ手の正体が神聖騎士団とはね」
呆れた口調で言う俺に、彼女は小さくクスと笑った。
「あの子、あなたがお気に入りのようね。姫の窮地を救った英雄ってとこかしら」
「野郎だと思ってぞんざいに扱ってたんだ。英雄どころか、手頃な盾ってのがいいとこじゃないっすか」
「ご謙遜ですこと」
彼女はそう言って笑うと、ふと視線を落とし、俺にぴったりくっついたまま、硬い表情で不安そうに見上げているベニカに気付くと、身を屈めた。
「そう、あなたもランジャがお気に入りなのね。我が娘ながらスーラニーも呆れた子だわ。許婚がありながら、よその殿方にうつつを抜かすなんて……ね」
ベニカは俺の陰に隠れるようにしがみ付いていたが、彼女がいたずらっぽく片目を瞑って見せると、ぎこちないながらも、どうにか微笑を返した。
「さて、客間の準備をしなくちゃ。さっきの部屋で待ってて頂戴。ディエシーもすぐ戻ると思うから」
言いながら立ち上がった彼女が、俺たちを二階へ促して奥の間へ向かおうとした時だ。
玄関先に馬車が停まった気配を振り返ると、程なくして大きな鞄を両手で提げた石読みの少年が、街に溢れる夕暮れ時の喧騒と共に入って来た。
「ただいま」
重たそうな鞄を大理石の床の上に置いて一息つくと、少年はハンカチで額の汗を拭いながら、歩み寄る親方を憧憬に満ちた眼差しで見上げた。
彼もまた、他の門下生と同様に育ちの良さそうな雰囲気で、小太りの容姿とおっとりとした丸顔が、温厚そうな印象を与えている。
「お疲れ様、ユージン。お茶はいかが? 帰る前に休んで行くといいわ」
「ありがとう御座います親方。ご相伴に与ります」
優しく労わる師の言葉に、彼は満面の笑顔で声を弾ませる。思春期の少年ならずとも、彼女は十分憧れの女性足りえる存在だよな。
「フリッツは? 一緒じゃないの?」
「はい。何でもプローアン男爵夫人のお招きとかで……」
彼が言い掛けた言葉を、「えぇーっ?!」という少女たちの抗議の声が一斉に掻き消す。
少々驚かされて、声がした二階を見上げると、五、六人の門下生たちが慌てて階段を駆け下りて来て、たちまち彼を取り囲んだ。どうやら、あの角部屋でこちらを窺ってた連中のようだ。
「酷いわユージン! どうして引き止めてくれなかったの?」
「そうよ! プローアン夫人は彼がお目当てなの知ってるでしょう?」
「あの方、『お嬢様のお相手に』何て言いながら、本当は御自分がお付き合いしたいのよ」
「不潔よねぇ」
「まったく、男爵はこの事をご存知無いのかしら」
「男爵閣下は、お側女と別邸に入り浸りですって」
「あぁ、今夜フリッツが帰って来なかったら、私どうしよう」
「どうしよう。そんなの私だって嫌よ」
矢継ぎ早に責め立てる少女たちの言葉に、彼は額に汗を滲ませながらたじたじと後退りする。
「あああの、お、お誘いがあまりに頻繁だから、一度応じておけば御満足されるんじゃないかって、彼が……」
やっとの思いで答えたというのに、彼女らの抗議の声は一層大きくなって、もはや何を言ってるのかさえ聞き取れない状態だ。
彼を責めたところで何の解決にもならないと思うんだが……。少女たちの理屈はどうにも理解し難い。
「あなたたちまだ居たの? 早く帰らないとお家の人が心配するわよ」
劣勢に立つ彼に、呆れた物言いで助け舟を出す親方を、少女たちは非難がましい眼差しで一斉に振り返る。
「私たちだって、フリッツの事が心配なんです」
「そうです。彼に何かあったらと思うと、居ても立ってもいられないんです」
彼女らにとっては深刻な事態なのだろうけど、あまりに大袈裟な物言いを聞いて、親方は思わず吹き出した。
「あなたたちが思ってる以上に彼はしたたかよ。心配には及ばないわ。さぁ、早く帰らないと叱られるわよ」
師の失笑を買って気分を害したのか、彼女らは不服そうに挨拶を交わし、不承不承と言った様子で退出し始める。
「フリッツもあんまりだわ。私だって何度もお誘いしてるのに……」
目の前を通り過ぎようとする、亜麻色の髪を上品に結い上げた少女の呟きに、少年が慌てて声を掛けた。
「ぼ、僕じゃ駄目かな……」
遠慮がちな言葉に少女はふと立ち止まると、大人びた顔で彼の姿をしげしげと眺め回す。
「そうねぇ。私のお父様に剣で勝てたら、考えてあげてもよろしくてよ」
「そんな、冷たいよウルスラ。石使いの息子が、剣で将軍に敵う訳ないじゃないか」
「あらそう。じゃあ仕方ないわね。ごきげんよう」
「ちょっと待ってよ! ねぇ、ウルスラったら」
ツンと澄まして言い捨てる彼女のあとを、彼は慌てて追い掛けると、そのまま二人で玄関を出て行った。頑張れ少年。押しの一手だ。
「何よ。フリッツ、フリッツって。みんな馬鹿みたい」
階段の手摺に寄り掛かったまま、彼らの遣り取りを面白がって見物していた俺の背後で、呟くように悪態をつく少女の声がした。
ふと振り向くと、あの黒髪の眼鏡少女がはっとして顔を伏せ、慌てて階段を駆け下りながら「ごきげんよう、神使様」と早口で挨拶する。
そいつに「お疲れさん、気を付けて」と返してやると、返事が返って来るとは思わなかったのか、立ち止まると驚いた顔で俺を見上げ、頬を染めて慌しく会釈をするなり、逃げるように帰って行った。
「みんな賑やかだこと」
親方は楽しそうに呟きながら玄関に歩み寄ると、扉の陰に置き去りにされていた、あの大きな鞄に気付いた。
「まぁ、ユージンったら。鞄よりもウルスラのほうが大切なのね」
確か随分重そうだった事を思い出して、手を伸ばそうとする彼女に歩み寄ると、代わりに持ち上げたが、見た目を凌ぐ重量に肩が軋んだ。
「ありがとう。助かるわ。書斎に運んで下さる? こちらなの」
「何すか? これ……」
何気なく問う俺に、彼女は「売上金よ」と答えながら片目を瞑って見せる。
呆れたな。この中身は全部硬貨なのか。それを置き去りにして女の尻を追うとは、ユージン少年もなかなか剛毅な奴だ。
「フリッツが神殿に立つ日は、いつもの三割り増しなのよ。我が支部の稼ぎ頭ね」
なるほど。さっきの少女たちの大騒ぎ振りを見る限り、その三割は女性客ってとこか。そう言えばソルファの淫売女が言ってた二枚目の石屋ってのもフリッツとかいう名前だったっけ。
書斎で恐縮しきりな家令に鞄を手渡し、親方と共に出て来るとディエシーが帰っていて、階段の下でベニカと談笑していた。
「お帰りなさいディエシー。あなたもお茶をいかが?」
「お茶ねぇ……。俺はどっちかってぇと、程よく醗酵した葡萄果汁の方がいいな」
そう言ってにやりと笑う奴に、親方は幾分大袈裟に呆れて見せる。
「相変わらずねぇ。ならばいっそ樽漬けにでもしてあげましょうか?」
「そいつぁ願ってもねぇや」
「もっとも、お茶っていう時間じゃなくなっちゃったわね。支度が出来たら呼ぶわ。それまで部屋でゆっくりしてて頂戴」
彼女は苦笑交じりに肩を竦めると、「今日は何だか忙しい日ねぇ」と呟いて小姓を呼んだ。