貴族の邸で晩餐の相伴に与るなんて、何だか窮屈で、折角の料理も食った気がしないんじゃないかと思ってたけど、親方の心遣いの御蔭で、終始和やかな雰囲気だった。
もっとも、神都からのここまでの冒険譚を語るスーラニーの、突拍子もない話に何度も咽そうになる俺と、給仕するたびにいちいち丁寧に礼を言うベニカと、ディエシーの底なしの酒量に、家令氏は穏やかに応じながらも、苦笑を隠せない様子だったけど。
食事が終わり、子供たちが促されてそれぞれの部屋に戻ると、残った俺たちは、親方が特別に開けてくれた、秘蔵の葡萄酒を御馳走になる事になった。何でも、地下に氷の精霊石を使った蔵を持っているらしい。
程よく冷えた上質な酒を味わいながら、タラサノの森の師匠の狩小屋を想い出していた。
あの大木の洞に造った氷室には、彼秘蔵のカルヴァドスも冷えていて、狩で一日中駆けずり回った後、古ぼけた銅のカップで干す一杯は、喉の渇きとも相俟って、格別な味だったっけ。
今頃は枯葉に埋もれているか、小鳥や小動物の巣になっている事だろう。帰ったら手入れしてやらなきゃならないな。
「そう言やお前、ソルファにゃ帰らねぇのか?」
家令の給仕を断って手酌で飲み始めた奴が、思い出したように訊ねる。
「キナ臭い噂が飛び交ってるなら、ロエルだって心配してるだろ? 奴はお前さんが居なきゃ夜も日も明けねぇ男だし」
奴の言葉に、彼女は口に運びかけた杯をふと止めると、濡れた唇に艶かしい微笑を浮かべた。
「噂の真相が知りたいのよ。『早耳のオリガ』としてはね。それに、大公妃の私が目立った動きをとれば、城下の民は尚の事動揺するわ。もっとも、巻き込んじゃうといけないから、寄宿生はみんな実家に帰しちゃったけど」
「なるほど。で、ホルザレン会のオリガ親方としては、何をどこまで掴んだんだ?」
彼女は杯をテーブルに置くと頬杖を付き、あの心の底を見透かすような、妖しい光を放つ金色の瞳で、じっと奴の顔を見詰める。
「そうね。ロアルデ騎士団将軍であるところの、スランフール侯爵閣下の御助力を得られるというのなら、情報提供も吝かではありませんけど。如何かしら?」
「相変わらず抜け目のねぇ女だ。いいよ。乗ってやろうじゃねぇか」
奴は苦笑しながら瓶を手に取ると、彼女の杯になみなみと注ぐ。
「頼りにしてるわ」
彼女は満足そうに微笑むと、手に取った杯を掲げて見せた。
「事の発端は……そうね、先月辺りからだったかしら、奇妙な病が流行り始めたの」
彼女が静かに語り始めると、奴は興味深そうに身を乗り出す。
「奇妙な病?」
「そう。極端に無気力になって、食事を取ることすらせずに衰弱して行くらしいの。施療院に運ばれた患者を見舞ったけど、身動きも取れない程痩せ細ってて、酷いものだったわ」
施療院での惨状を思い出したのか、彼女は柳眉を顰めて首を振ると、苦そうに杯をあおった。
「伝染病か?」
「何とも言えないの。御典薬師だけじゃ間に合わないようで、街の薬師も元老院から直々に治療を任されているの。
私も話を聞きに行ってみたけど、判らないらしいわ。ナクルタツリの長老でさえ匙を投げるようじゃ相当なものね。
で、この病の奇妙なところは、症状もさることながら、罹患するのが全てトゥラシオン出身の下級兵士ばかりって事なのよ。これって、何か臭わない?」
「確かに。相手を選んで伝染する病なんぞ聞いたことねぇ」
顔を覗きこむように問う彼女の言葉に、奴は言いながら腕組みをする。
「逆に考えれば、トゥラシオン出の兵隊が狙い撃ちにされてるようにも見えるな」
「私もそう考えたわ。でも、城下の民の間では、『トゥラシオン病』なんて言葉が独り歩きするようになっちゃったのよ。
で、ケイディシアの兵士にも患者が出たところで、もう殆ど恐慌状態。今では『トゥラシオンを焼き払え』なんて強硬論まで出る騒ぎよ」
「なるほど。それで内戦が囁かれてるって訳か」
奴は腕組みをしたまま、杯の中で静かに揺れるほの暗い水面を見詰める。
「やっぱり、仕掛け人が居ると見て間違いなさそうだな。だが、一体誰が、何の為にこんなことを……」
そこまで言った時、奴は思い出したようにふと顔を上げると、黙って二人の話を聞いていた俺の顔を見た。
「そういやランジャ、お前何か妙な噂を聞いたって言ってたよな。何だっけ、煙草屋とか何とか……」
「煙草屋?」
彼女もまた、好奇心に満ちた眼差しで俺を振り向く。
「あぁ、ソルファで一度聞いたきりだから、信憑性は薄いかもしれないけど。『戦で稼ぐ石屋と薬屋に加えて煙草屋も色気出してる』とか言ってた。
だけど、会の理念からして、石屋は戦で儲けようなんて事は考えないだろうし、薬屋にしたって、誇り高い技術者集団でもある薬師が、そんな手を使ってまで金を稼ごうとはしないだろ?
まぁ、一人や二人なら、そんなことを考える跳ねッ返りもいるかもしれないけどさ」
「煙草屋……煙草屋ねぇ……」
さしもの親方でも思い当たらないのか、考えあぐねている様子で、頬杖を付きながら繰り返し呟くばかりだ。やっぱり、淫売女の戯言程度じゃガセだとしても仕方ないか。
重くなった食堂の空気を、唐突なノックが払拭する。
家令が応じて開いた扉を振り返ると、石使いの青年が入って来たところだった。
「ただいま戻りました。ジョゼさん、有り合わせで構いませんので何か頂けますか? 夕食を食べそびれてしまって腹ペコなんです」
彼は少しおどけた調子で言うと、こちらに気付いて丁寧に頭を下げた。
「これは失礼。お客人がいらしたんですね。ようこそホルザレン会へ」
まだ二十歳前だろうか。屈託のない笑顔が丸で天使のようだ。
凛々しく整った色白の童顔とは裏腹に、細身ながらもバネの利いた筋肉質の体躯。髪は白っぽい金髪に見えるけれど、頭の天辺から半分が金で半分が銀だ。
金髪側の瞳は、耳を飾るアメジストのピアスと同じ紫。銀髪側には薄青い色硝子の片眼鏡を嵌めている。
何とも派手な容姿だが、その紫の瞳が俺を捉えた瞬間、天使の微笑の裏に深淵の如き闇が掠めて消えた。
「お帰りフリッツ。お疲れ様。プローアン夫人に招かれたんじゃなかったの?」
「蹴って来ました」
彼はいたずらっぽくにやっと笑って答えると、テーブルの端から椅子を引き出して腰掛けた。
こいつが門下生が挙って心配していた色男ね。なるほど。少女たちが夢中になるのも無理からぬ美形だな。
「夫人が親方の事を悪し様に仰るので、失礼して来たんです」
「あらまぁ。何て仰ってたのかしら?」
「僕の口からは、とても……」
苦笑交じりに肩を竦めて見せる彼に、親方は意味深な妖しい微笑を浮かべる。
「『トゥラシオンの売女』? それとも『石屋の女狐』かしら? どちらにしても、彼女だけには言われたくないわね」
「夫人によれば、そんな女に騙されている僕を救い出して下さるそうですよ。その上、タミラ嬢を娶るなら、男爵家の跡目すら約束して下さるとも……」
「まぁ、破格の待遇ですこと。でもタミラは夫人に似ず貞淑よ。悪い話ではないでしょう?」
言葉とは裏腹に気のない口調の彼女に、彼は「ご冗談を」と鼻で嗤う。
「淑女を娶っても、末は夫人の男妾だなんてお断りです。第一、僕は端女の私生児だ。男爵の御令嬢とは釣り合いが取れませんよ」
「身分や出自を云々するなら、夫人だって元は裏町の酌婦だわ。男爵をどんな手管で落としたかは知る由もないけど」
「僕は誰のものにもなりませんよ。この身も心も、オリガ親方とホルザレン会に捧げるつもりですから」
微笑みながら甘い声で言い、熱を帯びた眼差しで見詰める彼を、彼女はさも可笑しそうに艶やかな喉を反らして笑った。
「相変わらずお上手だこと。この手のことをあちこちで言い回っているんだもの。門下生たちの心配ももっともだわ」
「人生は短いんだ。大いに楽しまなくちゃ。ね、そうでしょう? スランフール侯爵様」
唐突に水を向けられて、奴は一瞬面食らった顔になる。
「ほーぉ、若いのに人生の楽しみ方を心得てるたァ見込みがあるな。そんな端ッコにいねぇでここへ来いよ。飲もうぜ」
「喜んで御馳走になります。でも、侯爵閣下の酒量についていけるかなぁ僕」
彼はそう言いながら席を立つと奴の隣に納まり、新しい瓶と杯を携えた家令に丁寧に礼を言った。
「紹介するわ。石使いのフリッツよ。所属は本部監査なんだけど、今は修行に出されてるとかでウチが預かってるの」
親方の言葉を受けて、彼は人懐こい様子で会釈をする。
「初めまして、フリッツです。お見知り置きを」
「堅ぇ挨拶は抜きだ。まぁ飲め」
奴が上機嫌で瓶を取ると、彼は嬉しそうに杯へ受けた。
「こっちの堅物にも、その人生の楽しみ方って奴を教えてやってくれ。こんなツラしてる癖に色気のイの字もありゃしねぇんだ」
奴はそう言うと、にやっと笑って俺に顎をしゃくる。余計なお世話だ。俺だって自分なりに人生楽しんでるぞ。多分……。
第一、酒と女だけが人生の全てじゃないだろう。面倒臭がりな俺にとっちゃ、惚れただの腫れただのは、慣れてないだけに苦手だってだけだ。
「えーと、こちらは?」
「ランジャだ。よろしく」
俺の言葉に、彼はあの天使の笑顔でテーブル越しに手を差し出す。握手に応じながら目を合わせてみたが、あの闇が差す様子は既に無かった。只の思い違いだったんだろうか。
「貴卿が噂の『雷神の御子』ですか。お逢い出来て光栄です。でも意外ですね。僕はてっきり雷のように恐ろしい方だと思ってたけど、普通に美しい神使様だ。堅物だなんて勿体無い」
屈託なく笑う彼は無邪気で、男の俺から見ても可愛いと思える雰囲気だ。年増女が囲いたいと思うのは、こういうタイプなんだろうか。
「生憎と不器用でね。あんたみたいに器用なら、また違った人生なんだろうけど」
少しばかり自嘲と皮肉を込めて言ってやっても、彼はまったく意に介さず、にこにこと上機嫌で聞いているだけだ。
「僕だって振られる事もありますよ。今日だって、表通りで見付けた美女に声を掛けたら、さらっとあしらわれてしまいました」
「ほぉ。お前さん程の色男を袖にするとは、一体どれほどの女だ?」
こいつは相変わらず美女となると食い付きがいいな。
「凄く綺麗な女性でしたよ。気の強そうな黒い瞳が凛として気品があって、男装で化粧もしてなかったけど、腰まで届く艶々の黒髪が素敵だったなぁ。そうそう、不思議な甘い香りがしましたよ。どんな香水を着けてるんだろう」
彼が頬を上気させてうっとりと語る女性像に、心当たりがある俺たちは、思わず苦笑を見交わした。そうか。夢屋のロナがこの街に来てるのか。
「人生の楽しみ方とか言っちゃってるけど、あなたはちょっとお楽しみが過ぎてよ、ディエシー。そろそろ隣の空席を埋める事も考えたら?」
呆れた口調で言う親方に、奴は杯を干しながら怪訝顔を向ける。
「何だその『隣の空席』ってのは」
「正妻の座よ。スランフール侯爵家を絶やすおつもり?」
「またその話か。勘弁してくれよ。いざとなりゃ然るべき家柄の養子でも取るさ」
「あれだけ側女を囲いながら、正妻を持たないなんて不自然だわ」
「不自然で結構」
「お気に入りは居ないの?」
「全員お気に入りだ。俺って平等主義だから」
「義姉上の事なら、もう気に掛けなくてもいいんじゃない?」
その一言で、笑いながら茶化していた奴が急に黙り込み、杯に視線を落とすと、フッと自嘲的な笑みを漏らした。
「ここでその話かよ……」
「私知ってるわよ。あなたの側女に緑の瞳のブルネットが一人も居ない事」
「偶然だろ」
「数多の美女を持ってしても埋められないなんて、義姉上も幸せ者ね」
「幸せなもんかよ。最愛の夫に死なれて臣下の女房にされた上に、その盆暗臣下は夫としての本分よりも、騎士の面子を重んじた馬鹿野郎だ」
「そうかしら。二人の名君に愛されるなんて幸せだと思うけど」
「名君ねぇ……。ファルエル陛下はともかく、英雄王だの何だのと持ち上げられちゃいるけれど、俺は人切り包丁振り回すことしか能の無ぇ盆暗だよ。
陛下が謀殺されるまでは、国政になんぞこれっぽっちも興味を持たなかった。不本意ながらも後釜に据えられて、改めてその重さとデカさを思い知らされたんだ。
陛下は俺の恩人であると同時に偉大な為政者だった。ライサ陛下はその后なんだ。畏れ多くて触れられるもんじゃなかったさ。
世の中には抱いちゃいけねぇ女ってのもいるんだ。たとえ向こうから求められてもな」
「ディエシー……」
「彼女には、俺みたいな盆暗のカミさんじゃなく、永遠に遠く崇める陛下の后でいて欲しかったってだけだ」
「それでも、義姉上はあなたを愛していたわよ」
「今更何を言ったところで、死んだ女は抱けねえよ、っと」
奴はそう言いながら席を立つと、「悪ィな。ちと飲み過ぎたらしい。失礼する」と言い残して出て行ってしまった。
「もう。頑固者め」
静かに閉じられた扉を睨み付けて苦笑交じりに呟くと、親方は、呆気に取られてる俺を振り向き、肩を竦めて見せた。
「あんな事言ってるけど、義姉上と幼いトーラン殿を引き取って、面倒見るって言ったのはあの人なのよ。側女もそう。殆どは先の戦で未亡人になった兵士の妻なの。そういうのを見ると放っておけないタチなんでしょうね。
中傷も酷かったわ。美貌の后を手に入れるために、先王を謀殺したのはあの人じゃないかなんて言う輩までいた。
まぁ、あの性格だから相手にしてなかったみたいだけど。『気に入らないなら斃しに来い。いつでも相手になってやる』とか言っちゃって」
「あいつらしいや」
そう言って笑う俺に、彼女も口元に微笑を浮かべると、ふと遠くを見る眼差しになった。
「そうね、とてもあの人らしいわ。初めて会った時は胡散臭い男だと思ったけど……。
もう十二年になるのね。スーラニーが産まれたお祝いの時、義兄上の護衛でトゥラシオンに来たのが最初だったかしら。
あの体格であの言葉遣いでしょう? 正直、山賊にしか見えなかったけど、義兄上は『面白い男を拾った』と大層お気に入りのご様子だったわ。
ウチの人も胡散臭いと思ってたらしいけど、剣の手合わせをしたら『判った』んですって。何が判ったのやら。ほんと、殿方の精神世界というのは理解し難いわ」
呆れ顔で溜息をつく彼女に、フリッツが興味津々と言った様子で訊ねる。
「ファルエル陛下は、侯爵とどうやってお知り合いに?」
「何でも、山賊の被害にあった村の生き残りだったらしいわ。瀕死のあの人を城下へ連れ帰って、治療した上で剣を教えたとか」
「何故?」
「殺された奥さんの仇を討ちたがっていたから、と言ってたわ。お腹に子供がいたらしいの。無事に産まれていれば、スーラニーと同じくらいかしらね。
あの人は偶然だって言うだろうけど、奥さんもブルネットの美人だったって。義姉上を女神のように大切にしていたのは、亡くなった奥さんの面影を追っていたからかもしれないわね。
義兄上によると、あの人、傷が癒えると、凄い速さで剣技を身に付けて行ったそうよ。丸で生まれついての剣士のように。
半年後には、騎士団で彼に敵う者はいなくなってしまって、そして一年後には将軍でしょう? 神界より顕現せし『戦神の御子』じゃないかなんて噂まで出たわ。何処から来て、何をしていたのか、誰も知らないんだもの」
今から十二年前といえば、あいつが連絡員になって三年目だ。呆れた奴だ。地上に出て早速伴侶を得た上に、剰え子供まで作ってたとは。
適応力とバイタリティが売りのデュオ系とはいえ、本来の業務そっちのけで一体何をやってるのやら……。
「誰もお訊ねにならなかったんですか?」
不思議そうに訊く彼に、彼女はクスと笑って首を振る。
「はぐらかされちゃうのよ。いつもあんな風に酔っ払って茶化してばかりだし、本当に神界から来たのだとしても、誰も本気にしないでしょうね」
「なるほど。あの方の素性に関しては、『早耳のオリガ』の情報収集力を持ってしても、本部監査以上の物は得られなかったんですね」
呟くように言いながら意味深に微笑む彼の瞳に、あの闇が一瞬閃いて俺を見据えた。
「そう言えば、素性の判らない方がもう一人おいででしたね」
あの闇の正体は一体何だ? 嫌悪や怨念のような悪意を超えて更に深い、研ぎ澄まされた透明な闇……。
「ご期待を裏切るようで申し訳ないが、ロアルデで拾われる以前の記憶は、どこかへ落っことして来ちまってね」
素っ気無い物言いで肩を竦めて見せたが、彼は一転して天使の笑顔に戻るとこう言った。
「いいえお構いなく。何気ない情報の断片を繋ぎ合わせるだけでも、見えて来る実像もありますから。本部監査では、むしろそれが本業です」