小春日和の穏やかな日が溢れる中庭から、スーラニーのはしゃぐ声が聞こえて来る。
二階の回廊でふと足を止めて見下ろすと、彼女に背中を押されて出て来た大公が、苦笑しながら剣を抜いたところだった。
どうやら手合わせでディエシーに負けた彼女が、父親に敵討ちを依頼したようだ。こいつは見モノだぞと手摺に寄り掛かると、声を聞きつけたかフリッツも見物に出て来て、俺と顔を見合わせてにこっと笑った。
対峙する大公に、にやにやしながら奴が構えると、彼女の明るい声で「始め!」の号令が掛かった。
大公の剣が一瞬速い。初手から劣勢になった奴の隙を、間髪入れずに巧みに突いて来る様はさすがと言うべきか。
それでも反撃を試みる奴の切っ先を難なくかわし、寸止めで首筋を捉えたところで、「勝負あり!」の嬉しそうな声が上がった。それを見ていたフリッツが、溜息と共に「凄い」と感嘆する。
「畜生、また腕を上げやがったな、ロエル」
「御主こそ、修練を怠っているのではないか?」
悔し紛れの奴の言葉に軽口で返すと、大公は楽しそうに声を上げて笑った。
「大公殿下が敵じゃなくて良かったですね」
おどけた調子で言いながら肩を竦める彼に、俺は「まったくだ」と苦笑を返した。
邸に戻れたのは、あれから十日ほど経ってからだった。邸内も中庭も、あの惨劇が嘘のように綺麗に補修され、山ほど届いた見舞いの花で飾られていた。
事件直後は、心労から体調を崩し気味だった親方も、すっかり回復したようでまずは一安心だ。
主治医を買って出たロナによれば、大公の愛妻への献身ぶりには、終始当てられっぱなしだったそうだけど。
その彼も、領地を長らく留守にする訳にはいかないとの事で、名残を惜しみながらも、午後になると従者たちを引き連れて帰って行った。
出産を控えて里帰りしている妃を見舞うために、一足早く帰った兄君に加えて、父君まで帰ってしまうのを嫌がるスーラニーは、散々に駄々を捏ねて親方を困らせていたようだ。
殿下との婚礼の儀が来春に決まったと言うのに、やっぱりまだまだ子供なんだな。
ここが閉鎖されている間の仕事は、支部所属の石使い諸氏が取り仕切っていたらしい。
それぞれが分担して保管していた伝票や売り上げ金を手に、親方の見舞いがてら手伝いに来てくれるのだが、ジョゼ氏亡き後、大幅に事務処理能力が低下した為に、ここ数日の書斎は戦場だった。
まぁ、俺は元々事務屋だし、親方にあの甘い声で頼って貰えるなら、満更悪い気もしないけどね。
「神殿の方は、門下生にも手伝って貰えましたからね。随分と助かりましたよ」
石使いのワルド氏は、一目でユージンの親父さんと判るほどそっくりな、丸顔の温厚な紳士だ。彼は伝票の山に埋もれていた俺たちを見兼ねて、こうして毎日手伝いに来てくれる。
「門下生が? 貴族のお嬢は神殿に立たないんじゃなかったんすか?」
「それがねぇ、ドライユ候の御令嬢が、門下生みんなを神殿に集めて、大演説を打ったんですよ」
「まぁ、ウルスラが? どんな演説だったのかしら」
顔を綻ばせて嬉しそうに語る彼の話に、親方も興味深そうに聞き入る。
「『精霊石は民の生活の礎である。石の流通が途絶える事は即ち、民の生活を脅かす事となる。民を護らずして何が貴族か。日頃の修行の成果を以って、親方の恩義に報いる好機でもある。心ある門下生は挙って石使い諸氏に協力すべし』……いや実に素晴らしい」
さすがはエデル将軍の娘だな。その高潔な精神は父親譲りなのだろう。少女の口調を真似て、裏声でさも可愛らしげに再現する彼の諧謔に、親方も思わず笑い声を上げる。
「あらまぁ、そうだったの。嬉しいわ」
「親御さんたちをどうやって説得したのかは知りませんがね、私ら石使いに教わりながらも、てきぱきこなしてくれました。日頃から神殿に立ってるウチの倅よりも遥かに優秀ですよ。
酒場や宿屋の若い衆なんぞは、高嶺の花だった貴族のお姫様と、間近で話が出来る何て喜んでましてね、暇を見つけては毎日通ってくれましたよ」
「ああ、それで売り上げが良かったのか。あいつらも中々やり手だな」
「慣れない仕事で大変だっただろうに、みんな楽しかったと言ってくれましてね。良い子たちですよ」
そう言って目を細める彼の口調は、少しばかり同情を含んでいるように思えた。
一族の繁栄の為とは言え、貴族の娘に生まれたばかりに、幼い頃から両親の人形であることを強いられるのは、哀れとも言えるよな。
当番の石使い氏が帰って来ると、取り敢えず今日の分だけ整理して終わりにする。
当番とワルド氏の二人を見送り、晩飯までは部屋でだらだら過ごそうかと算段していると、修行を終えた門下生たちが、二階の角部屋から笑いさざめきながら賑やかに下りて来た。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう、ランジャ様」
「あぁ、お疲れさん。気を付けて帰れよ」
声を掛けてやると、「はぁい」と元気な返事が返ってきて、次々に玄関を出て行く。その後姿を何気なく見送っていると、黒髪の眼鏡少女が俺に駆け寄って来た。
いつもは目立たないように一番最後に出て行くのに、今日はどうしたんだろう。
「あ、あの、ランジャ様、その……邸まで送って下さいませんか?」
「え? 俺?」
いつもなら頬を染めてそそくさと会釈をするだけなのに、いつに無く真剣な眼差しで俺を見上げているのには少々面食らった。
本来こんなのはフリッツの役なんだろうけど、彼は本部への報告書を書かなくちゃとか言って、朝から部屋に缶詰だ。
まぁ、どうせ暇だし。送って行くぐらい別にいいかなどと思っていたら、たちまち他の門下生たちに包囲された。
「ちょっとセレネ、それはどう言う事ですの?!」
「お祖父様が内務尚書だからと言って、抜け駆けなんて許さないわ」
「ランジャ様をお慕いしてるのは、あなただけじゃなくてよ」
「そうよ。ずるいわよ!」
お前らちょっと落ち着けと宥めようとした時だ。セレネ嬢は何を思ったのか、突然俺の腕を掴むと書斎に駆け込み、扉を閉めると鍵を掛けてしまった。お蔭で部屋の外は蜂の巣を突ついたような大騒ぎだ。
「どうしたの? セレネ……」
書斎に残って仕事を続けていた親方が驚いて席を立ち、心配そうに歩み寄ると、身を屈めて彼女の肩に両手を置く。
外の騒動を背中で聞いていた彼女が顔を上げると、眼鏡の向こうの大きな黒い瞳には、涙が溢れそうになっていた。
「親方、私……」
「こんなに思い詰めて……。ランジャの事が好きなのね」
親方の言葉に、俺は何故かどきっとした。こんな子供にそこまで思い詰められても困るんだけど。それに彼女には、侯爵家の御曹司とかいう御大層な許婚がいる筈だし。
「ランジャ様の事は……憧れていますし、お慕いする気持ちもあります。でも、それよりも私、石使いになりたいんです。親方みたいな、美しくて、強くて、優しい石使いに……!」
「セレネ……」
「ランジャ様は神族でありながら、石使いの修行をなさっておいでだわ。父が、祖父がそれを知れば、伯爵家の娘である私だって許してもらえるかもしれない。だから、だから……」
そこまで言うと彼女は、親方にしがみ付いて泣き出してしまった。
親方は彼女の背中を宥めるように優しく撫でながら俺を振り向き、いたずらっぽい微笑を浮かべて見せるけど、俺は何を言ってやるべきか判らなくて、渋い顔でくしゃくしゃ頭を掻くしかない。
「判ったわ、セレネ。泣かないで。私が一緒に行ってお父様にお話してあげましょう」
優しく涙を拭いてもらうと、彼女は俯いたまま頷き、親方に伴われて部屋を出た。
さすがに師の登場ともなると、お嬢たちも騒ぎをやめるが、泣き顔の彼女には非難の眼差しを向けたままだ。
「さぁ、みんなも早く帰らないと叱られるわよ」
「でも親方……」
「何を心配してるのかしら?」
抗議しようとしたお嬢の言葉を遮ってにやりと笑うと、親方は出て来た俺を振り向いた。すると書斎を取り巻く連中の中から、半泣きのベニカが飛び出して来てぎゅっとしがみ付く。
「ほら、ランジャならベニカのものでしょ。違って?」
何だかそれって物凄く語弊があるような気がするんだけど、門下生たちは「そうでしたわね」と溜息をつきつつ、どうやら異議ありながらも納得したようだ。
近侍に護られながら出掛けて行く二人を見送ると、俺の「ほら帰った帰った」の言葉に気を取り直し、口々に挨拶を交わすと大人しく帰って行った。
ふと気付いて、しがみ付いたままのベニカを見下ろすと、嬉しそうな顔で俺を見上げていた。やれやれ。さっきまで半べそ掻いてた癖に。
「随分とご機嫌だな」
にやっと笑って言ってやると、えへへと照れ臭そうに笑って手を放す。
「『ランジャ様はベニカのもの』って言われちゃった。親方のお墨付きです」
「晴れて公認。ってか」
「はい」
満面の笑顔で頷く彼女に思わず苦笑を浮かべた時、二階の吹き抜けからスーラニーが彼女を呼んだ。
最近は仲良くなったのか、よく二人で一緒に居るところを見掛ける。
「如何なさいました? 姫様」
「ドレスを見立てて欲しいのだ。お前は侍女よりも趣味がいいのでな」
軽い足取りで階段を駆け下りて来ると、急かすように彼女の手を取る。そう言えば仕立て屋が来ていたっけ。
「よう御座いますよ。どちらかへお出掛けですか?」
彼女の問いにふと頬を赤らめると、スーラニーは恥ずかしそうにちらりと俺の顔を盗み見た。
「殿下が観劇にお招き下さったのだ。盛装して行かなければ失礼であろう?」
「畏まりました。お見立て致しましょう」
その答えに満足そうに頷くと、愉しげに笑いさざめきながら、連れ立って階段を駆けて行った。
ようやく姫様らしくなったって言うのに、言葉遣いだけは直らないようで……。もしかして殿下との会話もあの調子なんだろうか。