親方は、夕食が済んでも帰って来なかった。腕に覚えの近侍が一緒だから、何事も無いとは思うけど、随分遅い。
書斎の時計に目をやると、思わずあくびが出た。溜まってる仕事を、少しでも片付けようと思って篭っては見たものの、そろそろ眠気で限界かもしれない。
今日はこれまでにするか、と、後片付けをして部屋を出ようと椅子を立った時、ノックも無しに不意に扉が開いた。
「あら、ありがとうランジャ。助かるわ」
誰かと思えば親方だ。その笑顔には少し酒が入っているようで、ほんのりと上気した頬が、いつにも増して色っぽい。
「お疲れ様です。遅かったっすね。モメたんすか?」
俺の問いに彼女は気怠く首を振ると、意味深に微笑んだ。
「いいえ。あちらにはウチの人との馴れ初めを、存分に聞いて頂いただけよ」
「はぁ……そうすか」
何のことやらさっぱり判らないが、彼女は何故か上機嫌だ。確か、セレネ嬢の父上とやらを説得しに行った筈だと思ったけど。
「あなたにも何かお礼をしなくちゃね」
「いやいや俺は別に……。褒美なら山ほど貰ったし」
「何言ってるの。みんなで施療院に寄付しちゃった癖に」
彼女はそう言うと、苦笑交じりに肩を竦めて見せた。
「フリッツの提案に乗ったまでっすよ。会の理念に従ってね」
「まぁ……。陛下もウチの人も呆れてたわよ。石使いとは実に御し難い者どもだって」
呆れた様子ながらも、彼女の口調は嬉しそうだ。
「何ともはや、美貌の石使いを手にお入れになった、大公閣下の御言葉とも思えませんね」
少しばかり茶化しながら答える俺に、彼女は蠱惑的な笑みを浮かべながら静かに歩み寄る。
「そうね。あの人たちも、出来ればもう一人欲しいんじゃないかしら。神の御業を持つ石読みを……」
「またまた御冗談を」
何やら只ならぬ雰囲気に、半笑いで両手を振りながら後退ると、今度は体が触れそうなほど踏み込んで来た。
「御子様には、何がご所望でいらっしゃるのかしら?」
心なしか熱を帯びた口調と共に、妖しく揺らめく金色の瞳に魅入られ、思わず生唾を呑み込む。
「そうだな。それじゃ、麗しの大公妃殿下から、口付けの一つでも賜れれば……」
冗談めかして言った瞬間、俺の頭をしなやかな指が捕らえ、艶やかに濡れ光る薄紅の唇が言葉を遮る。
「え、え、あ、あの俺……」
面食らって離れようとする俺の首筋に細い両腕が絡み、唇で再び言葉を奪うと、彼女はそのまま傍らのソファに腰を下ろす。
仄かな果実酒の芳香よりも、更に甘い肌の香りと、熱く絡み付く柔らかな舌の感触に酔いそうだ。
バランスを崩した俺が慌てて細い腰を支えようとすると、横たわる彼女に引き摺り込まれる様に伸し掛かってしまった。
……ヤバい。まずい。彼女の夫は、あの神速の剣技を持つ男だぞ。こんな事が知られでもしたら、どんな目に合わされるか判ったもんじゃない。
それなのに彼女は、妖しい指先で俺の胸元のブローチを器用に外しながら、ぞくぞくする程妖艶な微笑を浮かべて
「いいわ、いらっしゃい。私もあなたが欲しいわ」
なんぞと、狂おしげな甘い声でとんでもない事をさらっと言う。あぁ畜生、何てぇ人だ。その一言で、頭の中が真っ白になっちまった。
外れたクロークが肩を滑り落ちると、彼女の両腕が夢中で口付ける俺の背中を彷徨い、抱き竦めた細い腰が誘うようにうねる。
本能ってのは実に厄介だ。丸で飢えた餓鬼の様に、一つ手に入ると更に多くを求めやがる。
ふと離れた唇から零れる、甘い喘ぎ声がもっと聞きたくて、艶やかな首筋に、華奢な鎖骨に、はだけた肩に唇を這わせる。
たくし上がった裾から覗くすらりとした太腿は、思いのほかむっちりと肉付きが良くて、しっとりと滑らかな手触りは丸でシフォンベルベットだ。
たまんねぇ……。これが、この肌が、剣豪と恐れられる男が、宝剣と引き換えにしてまで手に入れた美女の体……。ああ、触れるだけじゃ物足りない。もっと欲しい。もっと。願わくば、最後の一線まで……!
窮屈そうにドレスの生地を押し上げてる、とろけそうなほど柔らかな胸に手を掛けた時だ。扉のすぐ外を、子供の足音がぱたぱたと駆けて行った。
「ランジャ様ぁ」
通り過ぎた向こうでベニカの呼ぶ声が聞こえると、俺は何故か反射的にがばっと起き上がってしまった。
どうしたんだろう。また眠れなくて俺の部屋に行ったのかな。誰もいないから捜しに来たのかもしれない。
「おぅ、どうしたベニカ」
遠く食堂の方から奴の声が響くと、足音はそちらへ向かう。あの酒豪は、どうやら夕食後も引き続き呑んでたようだ。
「ランジャ様がお部屋にいないの」
「あぁ、奴は仕事だって言ってたぞ。どうした。眠れねぇのか?」
「うん……。でも、ランジャ様お忙しそうだから、やっぱり一人で寝ます」
「そうか。イイコだな」
「お休みディエシー」
「あぁ、お休み」
扉を振り向いたまま、二階へ駆けて行く足音を聞いて、大きな溜息をつく俺を、彼女はあられもない姿で組み敷かれたまま、両手で口元を覆いながら、露わになった細い肩を震わせてくすくす笑う。
「嫌だわランジャったら。今の顔、丸で奥さんに浮気がバレたような顔だったわよ」
「何すか、それ……」
いきなり正気に引き戻された気恥ずかしさから、苦笑混じりに言いながらソファを下りると、彼女もまた乱れたドレスを直しながら起き上がった。
「残念だわ。『雷神の御子』が手に入ると思ったのに……。やっぱり正妻には敵わないわね」
「勘弁して下さいよ」
いたずらっぽい物言いを受けて肩を竦めて見せると、クロークを拾おうと身を屈めた俺に、彼女は再び口付けようとする。
でも俺は、何故かそれに応える気にはなれなかった。彼女が欲しかったのは、牡としての俺じゃなかったのか……。
「やめときましょう」
躰を起こしてクロークを羽織る俺を、彼女は怪訝そうな顔で見上げる。
「俺が言うのも変だけど、やっぱり、憧れの女性には貞淑であって欲しいっすから」
その言葉に、彼女は「ずるい人ね」と言ってにやりと笑う。
「欲しがっておいて、それを言うの?」
「誘ったのは親方っすよ」
俺もまた苦笑で返すと、彼女は髪を整えながら立ち上がり、片目を瞑って平然と言い放つ。
「あら、何のことかしら? 酔ってて覚えてないわ。ここでは何も起きていなかったと思ったけれど」
まったく、この人には敵わない。彼女と言いサリス室長と言い、俺はどうやら年上の美女は苦手なようだ。
今日は、久し振りにフリッツと組んでの当番だ。
準備を済ませて書斎を出ると、丁度玄関から門下生たちが入って来たところだった。
明るい声で元気な挨拶を交わす彼女たちの中に、新しく入門した子なのか、見慣れない少女がいる事に気付く。
大きな黒い瞳に、笑窪の浮き出る薔薇色の頬が愛らしい。艶やかな黒髪を綺麗に結い上げて、金細工の贅沢な髪飾りで留めている。
「やぁ、セレネ。見違えたよ」
「ごきげんよう、フリッツ」
天使の笑顔で声を掛ける彼を、彼女は眩しそうに見上げる。セレネだったのか。大きな黒縁眼鏡も無いし、ひっつめ髪じゃないから判らなかった。
「何か嬉しい事でもあったの?」
「お祖父様から、神都行きのお許しを頂けたの。石使いになれるんです私」
彼の問いに声を弾ませて応える彼女は、いつもの遠慮がちな微笑ではなく、輝くような笑顔だ。
「そうなんだ。良かったねぇ。神都へ行く為にお洒落をしてるのかな。とっても似合うよ」
「お祖父様ったら、現金なんです。向こうへ行ったら、高貴な方々のお目に留まるように、精々綺麗にしておきなさいですって」
「君は綺麗だよ。石使いの才能もある。きっと願いは叶うよ」
「はい、必ず。鋼の宝冠は自分の力で手に入れるものだと、親方も仰ってましたから」
彼女はそう言って嬉しそうにうふふと笑うと、俺たちにぺこりと会釈し、他の門下生と共に軽い足取りで二階へと駆けて行った。
「鋼の宝冠ねぇ……」
彼女の後姿を見送りながら呟く俺に、フリッツはいたずらっぽい微笑を浮かべる。
「石使いの娘に過ぎなかった親方が、大公の御心を射止めたのは、神都での叙任式の時だったそうですからね。辺境国とは違って、あちらには神聖騎士団も、殿上人もおられますから」
「なるほど」
親方が、大公との馴れ初めを惚気て来たと言ったのは、そう言う事だったのか。いやはや、彼女の祖父も利に聡い。でも、それで彼女の夢が叶うのなら、それもまた良しだな。
表通りへ出て神殿へ向かうと、久し振りに晴れた青空の下、城門前の広場に人だかりが出来ていた。
長い巻き毛を靡かせながら剣を掲げる、勇ましくも美しいエルサ姫の彫像の足元から、煌びやかな楽の音と共に、聞き覚えのある澄んだ歌声が流れて来る。
見れば、金糸のショールと真紅の衣装を纏ったロナが、彫像の台座に腰掛けて、金の腕輪を煌かせながらシタールを爪弾いていた。
季節柄、さすがに薄絹と言うわけには行かないようだけれど、優美な起伏を強調するドレスの、大きく開いた胸元や、深く切れ込んだスリットから覗く白い太腿は、男たちの目を引くには十分すぎるほど扇情的だ。
曲が終われば、拍手と歓声と指笛の嵐に包まれる。彼女はこれに応えて艶然たる微笑を浮かべると、うっとりと見上げる聴衆に深々と頭を下げ、よく通る声でいつもの口上を述べた。
「お集まりの皆様、夢屋のロナで御座います。富貴の夢、英雄の夢、美女の夢は如何でしょうか。夢屋のロナが自在に見せて進ぜましょう。夢をお望みの方は、今宵、シェランの宿へお越し下さいませ」
どうやら彼女も晴れて営業再開のようだ。立ち止まって聞いてる俺たちに気付くと、こっそり片目を瞑って見せた。
「夢屋かぁ……。僕も行ってみようかな。彼女はどんな夢を見せてくれるんです?」
「さぁな。俺は残念ながら彼女の薬は効かない体質らしい」
無邪気な問いに肩を竦めて見せると、彼は抜け目の無い眼差しで片眼鏡を光らせる。
「それはあなたが御子だからですか?」
「まったく、あんたの仕事熱心には感心するよ」
呆れた口調で苦笑しながら俺が歩き出すと、「あ、待って下さいよ」と慌てて追い掛けて来る。
彼は冬至祭までには帰都したいとかで、明日、シルト小隊の面々と共に神都へ向けて発つらしい。
気が付けば、もうそんな季節だ。