いつもなら朝食の時間までには帰って来るディエシーが、今朝は日が高くなっても戻って来なかった。
大方、昨夜は祭に託けて夜通し飲んで騒いだ挙句、酌婦の下宿か娼館にでも転がり込んだに違いない。
仕方がないので、奴が帰るまではだらだら過ごすことに決めた。
ベニカが陽だまりになっている窓際のテーブルで、いそいそと術譜の本を広げると、俺は馬にブラシでも掛けてやろうと、宿の裏手の厩に向かった。
きりっと冷え込んだ冬晴れの空が、どこまでも青い。遥か遠くに霞んで見える山々の頂には、冠雪が白く輝いている。
大きく伸びをすると、吸い込んだ朝の空気は、香ばしい祭の残り香を含んでいた。
少し寒いけど出発日和だな。などと思った矢先、唐突に記憶が途切れた。
気が付けば闇の中に居た。後頭部がずきずき痛むのは何故だろう。身動きが取れないのは、手足が荒縄で縛られてるからだ。声を出そうにも猿轡まで咬まされてる。
どうやら後ろから不意打ちでぶん殴られて、気を失ったところを拉致されたらしい。転がされてるのは、形状から言って棺の中のようだ。
外からは軋む車の音と、複数の蹄の音がする。まずいな。このまま埋められちまったらお終いだ。
棺の側板を何度か力任せに蹴飛ばしていたら、ずれた蓋が音を立てて落ちた。流れ込んで来た空気は森の匂いだ。ここはどこだ?
「おい、何か音がしたぞ」
外から野太い男の声がすると、馬車が停まり、何者かが荷台に乗り込んで来て、棺を覆う粗布を捲った。闇に慣れた目には、微かな木漏れ日ですら眩しい。
「大人しくしてくれよ、石読みさんよォ。ここいらは山賊が出るんで、さっさと通り抜けてぇんだ」
声のする方を睨み付けると、柄の悪そうな小男がにやにやしながら覗き込んでいた。行き先はどうやら墓場じゃなくて隠し鉱山のようだ。
「おい、たまげたぜ! こいつ神族だ」
荷台の外へ叫んだ小男の言葉に、馬を下りた数人が集まって来て覗き込む。雁首並べたどいつもこいつも、知性とは程遠い下卑た面をぶら下げてやがる。
「本当だ。赤い目だ」
「神使様何て、まずいんじゃねぇの兄貴ィ」
「知ったことかよ。どの道、仕事が終わりゃあバラして埋めるか、狼の餌だ。神使様だろうが貴族様だろうが関係ねぇよ。それに、石屋のクロークを着てる限り、身分は問わないってのが奴らの流儀だってェじゃねぇか」
「それもそうだ。違ぇねぇや」
奴らは俺の顔を眺めながら好き放題言うと、棺の蓋を戻して再び車を出した。
隠し鉱山てのは、意外とどこにでもあるもんなんだな。今までに、そこで一体何人の石読みが行方不明になったんだろう。こんなところで殺されるわけにはいかない。隙を見て逃げ出さなきゃ。
馬車は延々と山間の悪路を進んで行く。さっきの様子では攫われたのは俺だけらしい。
ベニカが無事なら取り敢えずは一安心だけど、今頃は俺の姿が見えないことに気付いて、泣きそうな顔で捜し回っているに違いない。ディエシーが帰って来てるといいけれど。
棺の中は息苦しい。もう一度暴れてやろうかと思っていると、ふと停車した。目的地に着いたんだろうか。
「勘弁して下さいよ旦那ァ」
近付いて来る複数の足音に混じって、妙に媚び諂った小男の声が聞こえて来た。
「ただの死人ですってば! 山に埋めてくれって頼まれたんでさァ」
唐突に蓋が開き、差し込んだ日の光に、反射的に閉じた瞼を無理やり抉じ開けると、熊の様な髭面が覗き込んでいた。
「やっぱり石読みだ」
髭面は言いながら荷台に乗り込み、棺の側に跪いて大きなナイフを取り出すと、俺を縛っていた荒縄と猿轡を切ってくれた。
「ありがとう。恩に着るよ」
助け起されて掠れた声で言うと、男は茶色い髭を歪め、澄んだ水色の瞳でにやりと笑う。
彼と共に荷台から降りると、小男は山道の真ん中で屈強な男二人に取り押さえられ、情けない顔で命乞いをしていた。奴を兄貴と呼んでいた手下どもは、どうやら彼らの登場に尻尾を巻いて逃げ出したようだ。
髭面がやにわに剣を抜くと、小男が悲鳴を上げる。一体何が始まるのかと思う間も無く、彼は手下が押さえ付ける小男に歩み寄り、首を刎ねる断末魔の絶叫にも眉一つ動かさずに、血糊を払って剣を納めた。
山賊にしては剣の扱いが堂に入っている。何者なんだろう。彼は転がり落ちた生首の髪を掴んで戻ると、鮮血の滴る悪鬼の形相のそれを、馬に付けた雑嚢に放り込んで叫んだ。
「お客さんをお連れしろ」
彼の号令に手下たちもそれぞれ騎乗する。俺のすぐ側にいた一人が、「乗れ」と手を差し伸べて来たので、遠慮なく便乗させてもらった。
「ありがとう。お蔭で助かったよ。ところで、あんたら一体何者なんだ?」
男は俺をチラと振り返り、にやりと笑っただけで答えない。代わりにもう一人が声を上げる。
「リノの旦那、お客さんがお尋ねだぜ。俺たちゃ何者かだとさ」
「さぁな。神聖騎士団じゃねぇことだけは確かだな」
髭面の茶化した口調に、手下たちがげらげら笑う。どうやら彼の名はリノと言うらしい。
馬上に並ぶのは無駄のない筋肉質な背中。三人とも粗野に振舞ってはいるものの、仕草にどことなく洗練された品性が窺える。
腕の立つ連中のようだが、山賊でないと言うのなら、一体彼らは何なんだろう。
一行は山道を外れて森へ入ると、細い獣道を延々と辿る。
やがて岩場に隠された洞窟をくぐって行くと、出口に嵌った鉄格子に阻まれた。
眩しい光が射す行く手には、開けた草地が広がっていて、立ち木に繋がれた数頭の馬が静かに草を食んでいるのが見える。
その向こう側にも洞窟が口を開けていて、入り口には古ぼけた毛布が掛けられていた。
彼らの隠れ家なんだろうか。リノが指笛を吹くと、そこから二人の若造が現れて鉄格子を開け、一仕事終えて戻って来た仲間たちを労った。
「ニーナ!」
馬を下りたリノが、隠れ家の奥へ向かって大声で呼ぶと、程なくして出て来たのは女だった。女と言うよりは、むしろ少女だ。十五、六歳と言ったところか。
ほっそりとして少年のように未発達な体に男物の服を纏い、長い黒髪を革紐でポニーテールにしている。山猫のように抜け目の無い、勝気で生意気そうな黒い瞳。
中々の美少女だとは思うが、色白の額の中央から、左の頬にかけてざっくりと無残な刀傷があって、左目は見えていない様子だった。
「お客さんだ。世話をしな」
そう言い残して彼が奥へ入って行くと、手下たちもそれに続く。最後に鉄格子を閉めた若造が、通りすがりに俺の顔を睨め付けると、彼女に「変な気を起すなよ」と耳打ちしてから駆け去った。
残された彼女は若造を振り向いて、「起すかよ馬ァ鹿」と悪態をつくが、気を取り直して向き直ると、今度は興味津々と言った顔で俺をじろじろ眺め、腕組みをして周囲をゆっくり一回りした。
「あんた、神族?」
少々面食らってる俺の顔を覗き込んで問う彼女に、「まぁ、一応」と答えると、「ふぅん」と言いながら今度は上から下まで眺め回す。
「あたい、神族何て初めて見た。綺麗な連中だって聞いてたけど、なるほどね。結構な色男じゃないか」
「そりゃどうも」
気の無い俺の返事でも満足したのか、彼女はにやっと笑うと、「来な」と言って奥へ入って行った。
入り口の毛布をたくし上げて中へ入ると、通路は四角く掘り抜かれていて、太い丸太で等間隔に補強されている様子は、洞窟と言うより坑道といった風情だった。
どうやら彼らの塒は、途中にある開けた場所を部屋として使っているようで、所々で話し声が反響して聞こえて来る。
丸太に吊るされたランタンの光の中、あちこち枝分かれしながら奥へと続く道を、彼女の後について進んで行くと、さほど深くもない場所で行き止まりになった。
ここが最奥部らしい。突き当たりにも部屋があって、ここにも入り口と同様に、間仕切りの毛布が掛けられている。
「ここは客間さ。時々お客さんが来るんでね」
彼女はそう言いながら薄暗い部屋へ入って行くと、片隅の精霊石ランプのシェードを、慣れた様子で開けた。
灯に浮かび上がった部屋は思いのほか広くて、宿屋のような簡素なベッドとテーブルが並べて置いてあった。二人部屋らしい。
何気なく壁に触れた指先が、精霊石の存在を知らせる。休坑や廃坑と言うには規模が小さ過ぎるし、試掘坑といったところか。
「客?」
「そう、客。あんたみたいに、攫われた石読みを助けてやるのさ。人攫いの首と一緒にホルザレン会に引き渡せば、キールの旦那からたんまり礼金が貰えるからね。ここの鍵も旦那から貰ったって聞いたよ」
「なるほど。あんたらは会公認の義賊ってわけだ」
感心して言う俺に、彼女は弾かれたように声を上げて笑った。
「そんな御大層なもんじゃないさ。リノは強盗だってやるからね。もっとも、相手はあくどい手でボロく儲けてる連中ばっかりだけど」
茶化したような口調で肩を竦めながらも、言葉の端々に彼らの矜持が窺える。
「彼は何者なんだ? 随分剣の扱いに通じてるようだけど」
勧められた椅子に腰掛けながら訊ねると、彼女は意味深に片眉を上げて見せる。
「さぁね。あたいらにも判んないのさ。元は神聖騎士団の貴族様だって、ビヨンとサデアスは言ってたけど」
「へぇ。それが何で義賊なんかやってんだろ」
「何だっていいさ。リノが強くて賢くて男前の、あたいらの頭でいてくれさえすれば」
彼女は面倒臭そうに投げやりな調子で言うと、ベッドに腰掛けて組んだ脚をぶらぶらさせる。
「で、俺はいつ帰してもらえるんだ? 待ってる奴がいるんだけど」
「何だ、嫁さん持ちかよ。つまんねぇの」
肩を竦めるあからさまに面白くなさそうな顔に、
「いや別にそう言う訳じゃ……。まぁ、そういう事にしとくか」
と呟くように曖昧な返事を返すと、彼女は何を勘違いしたのか、
「まぁ、そう照れなさんなって」
なんぞと手を振って見せた。
「エンツォが神都へ知らせに行くんだよ。それが戻って来たら帰れるさ。早けりゃ五日。遅くても一週間後だな」
「はぁ?! そんなに待てるかよ!」
思わず叫んで椅子を立つと、彼女は山猫のような身のこなしで立ち塞がり、俺の喉元にナイフの刃を当ててにやりと笑う。
咄嗟に腰へ手を遣ったが、丸腰だった。畜生、全部宿に置いたままだ。これじゃ勝ち目は無い。
「短気は損気だよ、お客さん。もっとも、逃げようったって簡単に出られる場所じゃないけどね」
そう言えば、洞窟の出入り口には頑丈そうな鉄格子も嵌ってたっけ。
大きな溜息をつき、くしゃくしゃ頭を掻きながら大人しく椅子に戻ると、彼女は手にしたナイフを弄びながら、生意気な微笑を浮かべて俺を見下ろした。
「大人しくしてりゃ、無傷で帰してやるさ。あんたは大事な金蔓だからね」
唐突に間仕切りがたくし上げられ、彼女が振り返ると、あの若造が覗き込んでいた。
俺を見る奴の眼差しが、剥き出しの敵意を帯びる。こいつもまた、フリッツのように神族に恨みでも抱いてるんだろうか。
「いつまで駄弁ってんだよ」
苛々と言い放つ奴に、彼女は腕組みをしながら受けて立つ。
「うるせぇよ。エンツォこそ、いつまでここにいるんだよ。とっとと神都へ行ったらどうなんだい」
「今回は俺じゃねぇよ。マウロだ。奴ならとっくに出たよ」
奴の反論に彼女は忌々しげな舌打ちをすると、「つまんねぇの」と呟く。どうやら彼女の口癖らしい。
エンツォと呼ばれた若造は、不貞腐れ気味に頬杖を付く俺を睨み付けたまま、彼女の腕を掴んで強引に引き寄せると、「奴に気を許すなよ」と苛立たしげに耳打ちする。
「うるせぇよ。何だってんだよさっきから! あたいはリノからお客の世話を頼まれてんだよ。それとも何かい? あいつが色男だからって妬いてんのかい?」
喧嘩腰から一転、からかうような口調になった彼女に顔を覗きこまれると、奴は極まり悪そうに顔を背け、「ち、違ェよ馬鹿!」と言い捨てるなり、逃げるように出て行った。
その様子に、彼女は俺を振り返ると呆れ顔で肩を竦めて見せる。
少々荒っぽくて動機も不純だけど、他の石読みたちも彼らに助けてもらってるんだろうし、事を荒立てるのは得策じゃなさそうだ。
一週間も籠の鳥ってのは、正直言って勘弁してもらいたいけど、悪いようにはしないという彼女の言葉を信じて待つしかない。