全身を包み込む闇と、懐かしい温もり。浮遊するような心地よいまどろみの中、頭の奥をくすぐる微弱な信号の洪水に、閉鎖していた補助脳が開放されて行く。
あぁ、ここはクレイドルの中なのか。こいつに浸かるのは、一体何ヶ月振りだろう。
―― ……来ましたね。
またあの声だ。相変わらず途切れがちでノイズが酷い。
『あんたは誰だ?』
―― ……前回と同じ……の……すね?
『あんたは誰だ?』
―― ……チャネル出来ますか?
『一体何の事だ?』
―― チャネル出来ますか?
何度か同じ言葉を繰り返した後、唐突に鮮明な声に替わった。壮年と思われる太く穏やかな男の声だ。
どうやら俺と繋がろうと模索していたらしいけど、この奇妙な違和感は、アーカイヴ収蔵の故人の記憶に付与されてる、擬似人格との会話に似てる。
『あんたは誰だ?』
―― やっとチャネル出来ましたね。私はセリオン。あなたは誰ですか? ……の……にあなたの市民データは見当たりませんが……。
『俺はランジャ。あんたは一体……』
―― これは酷い。修復には随分掛かりますよ。外では一体、何が起きているんです?
『外? 外……って、あんたは一体どこにいるんだよ?』
―― ……わ……の……です……。
繋がった時と同様、切れるのも唐突だった。また繋がりはしないかと暫く待ってはみたものの、強烈な眠気に引き摺り込まれて、いつの間にか意識を失っていた。
あれは一体何なんだろう。セリオンと名乗ったが、彼は一体何者なんだ? この世界のクレイドルは一体何と繋がってるんだ? 一体誰が、何の為に設置したんだ? そもそも、こいつにしたって、祭壇にしたって、動力はどこから得てるんだ?
神殿には謎が多すぎる。そもそも神殿とは呼んでいるものの、神像もなければ祈りを捧げる信者の姿も無い。
この世界では、神は信仰の対象ではなく、支配者や為政者に過ぎない存在なんだろうか。
今まで見て来た限りでは、素朴な自然崇拝の他には、神祖と呼ばれる存在が崇められてはいるようだが……。
水底の泥に沈むような、深い眠り。時間の感覚すら失われそうな中を漂う俺の無意識を、唐突なアラームが現実に引き摺り戻した。
空っぽの乾燥した機械仕掛けの棺桶の中で、耳を聾する騒音に、五感が戻って来た事を否が応でも思い知らされる。
蓋を押し上げればアラームは止まる。のろのろと半身を起こすと、壁面照明の眩しさに、思わず眩んだ目を両手で覆った。
「お早う、『雷神の御子』様。御機嫌は如何? 随分とお寝坊ですこと」
茶化し気味のハスキーな声を振り向くと、ベルがドア脇の壁に寄り掛かったまま、組んでいた腕を解いてひらひらと手を振った。
既に扇情的な街の女の衣装ではなく、剣を佩いた一分の隙も無い男装に戻っている。
「ここへは、あんたが……?」
「神殿まではダレン伯爵たちが手伝ってくれたわ。ここへは私と殿下で」
「みんなは?」
「あなたのお蔭で全員無事よ。安心して」
「そうか。有難う。助かったよ」
「どういたしまして。良かったわ間に合って。あなたが精霊水に溶けてしまったら、ベニカに合わせる顔が無いもの」
彼女はそう言って苦笑交じりに肩を竦めて見せると、ふと哀しげな眼差しで俺の顔をじっと見詰めた。
「神族って、神の末裔と言われるだけあって本当に綺麗ね。何だか不安になる美しさよ。触れたら消えてしまいそうで……。
あなたが戻って来てくれて良かった。私の許婚は……水になって消えてしまったから」
「許婚……」
「神官だったの。親が決めた相手だったけど、私たちにはそんなの関係なかった。とても美しい人だったわ。あなたを見てたら思い出しちゃった」
呟くように言うと、彼女は微笑を作って静かに首を振る。何だかその様子はひどく儚げで、胸の奥がぎゅっと痛むような気がした。
「死んだのか」
「殺されたのよ。五年前に」
「殺された……?」
「えぇ。彼の死の真相が知りたくて、ホルザレン会に入ったの。神都の本部は、どこよりも情報が集まると聞いてね。
お蔭で一族からは縁を切られちゃったけど。巫女として昇殿していた私は、没落した子爵家一族にとって、唯一の希望だったから」
自嘲気味に笑う彼女の、鋼色の瞳が微かに潤む。その何ものにも揺るがない、真っ直ぐに見据える強い眼差しは、全てを捨て、身一つで闘う決意の現われだったのだろうか。
「あぁ、あなたには関係の無い話だったわね。御喋りが過ぎちゃったわ。御免なさい。さぁ、早く服を来て頂戴。でないと食べちゃうわよ」
そう言って片目を瞑って見せる彼女に、自分が一糸纏わぬ素っ裸だった事を思い出す。
「え? あ、ぅわ!」
カッと頭に血が昇って、咄嗟に前を隠しながら声を上げる俺をよそに、彼女はくすくす笑いながら控の間に消えた。
それを見送ると、大きな溜息をつきながらくしゃくしゃ頭を掻く。が、ふと思い立って襟足に手を遣ると、ベニカが結んでくれた、あの紅い革紐の首飾りがなくなっていた。
しまった。坑道で落としたか、はたまたクレイドルで分解されたか……。こりゃ叱られるな。仕方ない。あれこれ言い訳するよりは、素直に失くしたと言って謝るしかないか。
だけど今は、その怒った顔でもいいから、逢いたくて堪らなかった。逢って抱き締めて、俺の名を呼ぶ声が聞きたい。
彼女は今頃どうしているだろう。フリッツが護衛なら心配は要らないだろうけど、一向に帰って来ない俺にさぞかしお冠だろう。
クレイドルを出て辺りを見回すと、操作パネルの下に、綺麗に畳まれた着替えが一揃置いてあった。
古着のようだけど、仕立てのいい上質な物だ。ベルの見立てなのかな。子爵家の令嬢で元巫女か……。道理で立ち居振る舞いが洗練されてると思った。
服を着てクロークを纏うと、仄かに甘い彼女の匂いが身を包んだ。
どうやら予備の物を貸してくれらしい。そう思うと、何やら自然と頬が緩んだ。女の匂いってのは、何だってこうも心が安らぐんだろうな。
身支度を終え、控の間のアイコンに触れてドアを開くと、目の前に優美な手が差し出された。
「探し物は見付かりまして?」
見れば、白い指にあの首飾りがぶら下げられている。
「有難う。危うくベニカに叱られるところだったよ」
いたずらっぽく片眉を上げて見せる彼女に苦笑で応えると、そいつで伸び放題の髪を無造作に束ねる。
「あら、ベニカの贈り物だったの。てっきりイイ人からの物だと思ってたわ。どんな女性なのか問い質してやろうと思ったのに」
「何だか知らんがね。俺に付けた『印』なんだとさ」
そう言って肩を竦める俺に、彼女もまた、いつかのロナのように、妙な訳知り顔で「ははぁ」と頷いた。
「なるほど。『印』ね」
「何だよ。あんたもこれの意味が判るのかよ」
思わず苦笑交じりに突っ掛かると、彼女は意味深な含み笑いをする。
「私も女ですからね。ベニカの気持ちはよーく判るわ」
「あー畜生、判んねぇのは俺だけかよ。付けられた当の本人だってのに」
くしゃくしゃと頭を掻く俺を見て、彼女はクスと笑うと、「私も付けて置けば良かったのかな」と寂しげに呟いた。
「さぁ、行きましょう。みんなあなたの事を心配してるわ」
「そうだな」
彼女の言葉に頷いて、入り口に向かおうと踵を返した時だ。華奢な諸腕で、不意に背中から抱き締められた。
「……ベル?」
「御免なさい……少しだけ、少しだけでいいの。このままでいさせて……」
面食らってる俺に小さな声で詫びると、彼女は俺の背中に額を押し付けたまま、声を殺して泣いた。
豪胆な女剣士だとばかり思ってたのに、精一杯しがみ付いて来る様子は丸で少女のようだ。
もしも俺が、彼女の許婚のように、修復されないまま分解されて消えちまったら、ベニカは誰に縋って泣くんだろう。こんな風に、何年も忘れられずに苦しみ続けるんだろうか。
胸が痛い。彼女が抱えている痛みそのままに、丸で心に食い込んで握り潰そうとでもするかのようだ。
しがみ付いていた手がふと緩み、静かに離れた時、そっと振り返ると思わず抱き締めた。彼女は一瞬戸惑ったようだったが、俺の背中におずおずと震える腕を這わせて来た。
「テオ……もう一度逢いたかった。もう一度逢って、抱き締めて、『ベル、愛してる』って言って欲しかった……」
涙声の彼女に、俺の声で亡霊が囁く。
「『ベル、愛してる。愛してるよ』」
「私もよ。もう一度伝えたかった。テオ、愛してるって」
俺の胸に埋めた彼女の頬に、拭った筈の涙が玉を結んで幾つも零れて行く。掌で濡れた頬をそっと包み、指の腹で涙を拭ってやると、何だか堪らなくなってそのまま口付けた。
形のいい柔らかな唇で、ぎこちなく控え目に絡む舌で、彼女の姿をした少女は、俺の姿をした想い人に夢中で応える。
唇が離れても、彼女は胸に頬を預けたまま、身じろぎもせずに俺の鼓動を聞いていたが、漸く涙も乾いたのか、ゆっくり離れると、大人の顔で照れ臭そうに見上げた。
「有難う。もう落ち着いたわ。みっともないところを見せちゃったわね。どうか忘れて」
「いいや、俺は知らねぇよ。ここにいたのは、きっとテオとか言う名の神官だ」
そう言ってにやりと笑ってやると、彼女は寂しげな顔のまま穏やかに微笑んだ。
「何か、判ったのか?」
「え?」
「許婚の情報を集める為に、ホルザレン会に入ったんだろ?」
「自分の仕事が精一杯で、中々難しいわ。未だ核心には触れられない」
彼女は言いながら、力なく首を振る。
「五年前、彼の養父母が殺されたの。表向きには、物取りに押し入られて、邸ごと焼かれた事になってるけど、本当の死因は毒殺だったそうよ。
彼はその時、知人から預かっていた巫女と出掛けていて難を逃れたけど、どうやら賊の狙いは、その巫女だったようなの。私も逢った事があるけど、可愛らしくて奥床しくて、とても人の恨みを買うような女性じゃなかった。
彼も妹のように可愛がっていたから、知己を頼って彼女を匿ったけど、その人も同じ手口で殺されて、巫女も今では行方不明……。
彼は、一連の事件の下手人を捜していたの。きっと何かを突き止めた為に殺されたに違いない。多分、犯人は彼の養父母を殺した賊と同じだわ」
何だかどこかで聞いたような話だ。そいつを聞いて俺の脳裏に浮かんだのは、マグノリエ城下の神殿で見た、女神のはにかんだ微笑と、甘く柔らかな唇の感触。そして、神々しいばかりに美しい裸身だった。
「その巫女、フィノンて名前じゃないか?」
「えぇ。確か、そんな名前だったわ。彼女を知ってるの?」
「まぁね。フィンデールで、ちょっと……」
「彼女、生きてるのね! 今フィンデールにいるの?」
「いや、今はロアルデのタルセンド城下にいる。ディエシーの養女になったんだ。今や押しも押されもせぬスランフール侯爵家の姫様だよ」
「えぇ?! スランフール候の養女って、あのフィノンだったの?!」
彼女は叫ぶと驚愕も露に俺を見上げた。さすがホルザレン会。辺境諸侯の動向は逐一齎されてるようだ。
「うーん……話せば長いんだけど、彼女の養父母は、セブランの詮議に纏わる秘密を握っていた為に、奸計に嵌められて殺されたそうだ。彼女はその生き証人とかで、賊に狙われてる。だからディエシーは養女にして匿う事にしたらしい」
「セブランの詮議……そうだ、フィノンの養父はユグレー祭司長だったわね」
「ご名答」
少しばかり茶化した物言いの俺をよそに、彼女は険しい眼差しで記憶を辿っている。
「やっぱり、あの夫妻の死は暗殺だったのね。じゃ、祭司長に着せられた汚名と言うのは……」
そこまで言いかけた時、彼女は、図らずもフィノンの過去に触れてしまった事に気付いたようだ。はっと息を呑んで顔を上げると、震える両手で口元を覆った。
「フィノン……あぁ、なんて事……!」
「恐らく、あんたとフィノンの仇は同じ男だ。あの野郎は未だに彼女を狙ってる」
「あなた、犯人を知っているの?」
「あぁ。フィンデールから彼女を逃がす時に、すんでの所で枢機卿だと名乗る爺ィに奪われそうになってね。毒蛇みたいに薄気味の悪い、加虐性癖の変態野郎だ。思い出すのもおぞましいぜ」
「毒蛇……? もしかして、ヴィスロ枢機卿?」
眉を顰めて問う彼女に、大きく頷く。どうやらあの変態爺ィは、誰が見ても毒蛇に見えるようだ。
「あんたの許婚も、その養父母も、あの下郎が直接手を下したかは定かじゃねぇが、一枚噛んでるのは間違いないだろうな」
俺の言葉に、彼女はあの真っ直ぐな鋼の瞳で首肯する。
「それともう一つ、今回の隠し鉱山。あの糞爺ィ、あれにも関わってやがるぞ」
「何ですって?!」
「鉱夫たちが喫まされてた水煙草、ありゃ毒入りだ。ケイディシアでもあれが蔓延してて騒ぎになってる。確たる証拠はまだ上がらないが、あの野郎は蓮火幇の一員と見て間違いないだろう」
「大公邸の事件ね。フリッツの報告書で見たわ。人心を操り、魔物に変える毒だと……。あれと同じ物を、鉱夫たちに……?」
「あぁ。向こうで嗅いだ煙草と同じ匂いがした」
「あの山師、イルシュ王がホルザレン会を敵視していると言っていたわね。蓮火幇は彼の主従どちらなのかしら。
そもそも、蓮火幇がホルザレン会と敵対する理由が判らないわ。ルラトイは、我々石使いですら触れることを許されない聖山。ナクルタツリには支部はおろか、試掘坑さえ持っていないと言うのに……」
「あいつら、一度解体してるらしいじゃねぇか」
「飼い主が代わった……ってこと?」
「かも知れん」
彼女は大きく溜息をつくと、懐に手を入れ、王太子から渡された三枚の紙片を取り出すと、畳んだまましげしげと眺めた。
「何だか、試掘でとんでもないものを掘り当てちゃったような気分だわ。
イルシュ王の隠し鉱山は、ロアルデの件を切っ掛けに、七つ全てが特定されていたけど、さすがに内情まで探るには至ってなかった。
まさか、あの殿下が内通者になって下さるなんて……。一体どういう風の吹き回しかしら」
「おいおい、全て特定って……知ってたのかよ! しかも七つって……」
「あら、私たちはホルザレン会よ」
思わず呆れて声を上げる俺に、彼女は茶目っ気たっぷりに片目を瞑って見せ、紙片を元通り懐に仕舞い込む。どうやら俺たちは王太子共々、彼女に上手く乗せられちまったらしい。
「エレイン親方を泳がせたまま、向こうの監査に探って貰っていたけれど、イルシュ陛下は猜疑心の強い方だけに、中々手掛かりが掴めなかったの。
ヴィスロ枢機卿と王の関係も聞いていたけれど、さすがに蓮火幇までには辿り着けなかったわ」
「何だ。あの婆さんは囮かよ。王太子は支部を王の下僕と信じてたぞ」
そう言って苦笑すると、彼女はしたり顔でにやっと笑う。
「あなたの事も聞いていたわ。随分と派手にやったようね」
「あぁ、ありゃ少しばかり後悔してる」
「あら、どうして?」
「今回並みの火力にしてやりゃ良かったな、と」
とぼけた口調で言う俺に、彼女は一瞬呆気に取られたようだったが、顔を見合わせると思わず吹き出した。
「まぁ、いずれにしてもこの件、取り敢えずは会長さんとやらにご報告だな」
「必ず伝えるわ」
力強く答える彼女の表情には、既に儚げな少女の姿は影を潜め、古参の騎士のような余裕すら窺えた。