市街地へ下りて行くと、夕暮れ時の商店街や市場は大変な賑わいだった。
買い物客を呼び込む景気のいい売り声が、行き交う雑踏と荷車の喧騒に負けじと響く。灯りが点り始めた酒場から漏れて来るのは、旨そうな匂いと賑やかな楽の音だ。
近郷近在や辺境各地から届く、色とりどりの野菜や果物と並んで、水揚げされたばかりの活きのいい魚介類が店先で跳ねる。
市場を横断する街道を通り抜けるだけで、この狭隘な港町に、世界中の富が集約しているのが見て取れるようだ。
取り敢えずは城下の宿に逗留する。宿泊手続きが済んだことを見届けると、フリッツは、下宿の手配が済んだら連絡をしますと言い残し、「ではまた」と握手をして別れた。
そう言えば、ディエシーの野郎はどこで何してやがるんだろう。
奴の事だから、お気に入りの女の家にでも転がり込んでるんだろうけど、今回助かったのは、奴が本部に知らせてくれたからってのもある訳だし、どこかで逢ったら旨い酒でも奢ってやろう。
二階の客室で旅装を解き、晩飯にありつこうとベニカを連れて部屋を出ると、同時に開いた隣の扉から現れたのは、見慣れた金の無精髭だった。
「お?」
「あれ?」
「ディエシー!」
ベニカが嬉しそうに叫んで飛び付くと、奴は片腕だけで彼女を軽々抱き上げ、共に殆ど満席の喧騒が溢れる階下へ向かう。
「随分遅かったじゃねぇか」
「あぁ、ちょっと寄り道してたもんで」
ふざけて無理やり口付けようと迫る奴の顔を、彼女はきゃーきゃー笑いながら小さな両手で押し退ける。
「本部の連中から聞いたよ。何だか面白い事態になりそうだな」
彼女の必死の抵抗で奴が漸く降参すると、下に降ろされるなり、俺に駆け寄ってぎゅっとしがみ付いた。
「あの盆暗王子に一体何が起きたんだ? 一足遅い反抗期か?」
「何だかね。瞑ってた瞼を抉じ開けた途端、抱えてた火種に着火しちまったようだ」
「ほぉ。何でまた……」
奴は面白そうに言いながら、空いてるテーブルを見つけて腰掛けると、いそいそとやって来た給仕に相も変わらず大量の酒を注文する。
俺もまたこの店で一番良い酒をと頼むと、料理と共に運ばれて来た瓶を、奴の目の前に置いた。
「お? 何だよ、やけに気が利くじゃねぇか」
早速封を切りながら相好を崩すと、奴は自分の杯になみなみと注いだ後、俺にも勧めた。
杯に受けて一口含めば、ぴりっと辛口の清々しい味わいに、たちまち魅了される。中々の美酒だ。この澄んだ芳香は梨だろうか。
「今回の礼だよ。本部の女剣士から聞いてね」
「何、お前さんの姿が見えないと、このちびすけが寂しがって泣くからな。第一、用心棒の面目が立たねぇや」
奴は上機嫌で旨そうにあおると、満面の笑みでロブスターの身を頬張る彼女に、いたずらっぽく片目を瞑って見せる。
適当に選んだありきたりな宿屋なのに、酒も料理も矢鱈と旨い。この混雑振りからも評判の程が窺える。さすが神都ってとこか。
「で、何がどうなってるって?」
「何だか色々盛り沢山で、何から話していいやら……。でもまぁ、俺にとって一番の収穫は、変態枢機卿が蓮火幇だって疑いが濃くなったって事と、あの糞爺ィが王と結託して石屋を潰そうとしてるのが発覚したって事だな。何故そんな事を企んでるのかは判らんが……。
盆暗息子は、常々父王の悪政に疑問を感じていたそうだが、昔の悪事を知られたくない親父の情報封鎖で、城内じゃ四面楚歌。さぞかし鬱屈した毎日だったろうよ」
「するってぇと、奴さんの事だ。起爆剤は女ってとこか?」
そう言ってにやりと笑う奴に、俺は思わず苦笑しながら首を振った。
「『神祖の血』だそうだ」
「血?」
「実の親父が生きてたんだ。王が直隠しにしていた、出生の秘密を知っちまったのさ」
「ほぉ。それはそれは……。後宮に無理やり納めた寵妃が産んだ王子だ。当時から影では色々噂が乱れ飛んでたそうだが、粛清に継ぐ粛清で今じゃみんなダンマリ。だが、殺した筈の亭主が生きてたとなりゃ、こいつは一波乱あるな。面白くなりそうだ」
「敵対勢力の台頭に、石屋も悠長に構えてられないと思ったか、奴さんと手を組むとさ」
言いながら杯をあおる俺の顔を、奴は何故かにやにや眺める。
「随分と他人事だな。お前さんだって石屋の端くれだろ? 暢気なのも結構だが、お鉢が回って来ないとも限らんぜ」
奴の言葉に思わず苦笑するものの、言われてみれば尤もだが、右も左も判らないうちに、いきなり放り込まれた身としちゃ、未だに傍観者気分のままで、実感が湧かないってのが正直なところだ。
「そもそも何でフィンデールは、直系から跡継ぎを選ばなかったんだ? この世界の王位継承権は、神祖の血で決まるんだろ?」
「何だかね。聞いた話じゃ、先王は寵妃に入れ揚げるあまり、カミさんにゃ目もくれなかったそうで……。傷心の后に野心家の宰相が取り入って産ませたのが、あの暗君だという噂があるらしい。
王が臣下に后を寝取られたなんて、格好が付かないとでも思ったか、表向きには正統な嫡子ってことにはなってるけどな」
「ほぉ」
「病で急逝ってぇ事になってる先王の死因といい、寵妃エマの輿入れの経緯といい、あの王の即位に関しちゃ、色々と腑に落ちねぇことがテンコ盛りなんだとさ。
最も、俺が地上《こっち》に出張って来るより、ずーっと前の話だもんだから、詳しい事情は知らねぇんだけどよ」
「そう言えば奴さんの実父が言ってた。あの暗君が神祖の血を求めるのは、己の地位の正当性を裏付けたいが為だと。
自分の倅にその証が現れれば、たとえそれが母親由来のものだとしても、神の末裔を堂々と名乗れるからな」
それを聞いて、奴は鼻で嗤う。
「下らねぇ。ご立派な看板を掲げたところで、豚が獅子に変わる訳じゃなし」
「まぁ、俺たちから見りゃそうなんだろうけど、下々にとっちゃ、王の悪政は神祖の血に背いた呪いなんだそうで」
少々呆れた口調で言ってやると、今度は弾かれたように豪快に笑った。
「神祖の血を継いでなきゃ暗君になるだって? そしたらこの俺はどうなんだ。少なくともあそこまで無能じゃなかったつもりだぜ。問題が無ぇたァ言わねぇがよ」
「確かに、その女癖は問題だな」
「言うね」
「まぁね。だけど、それが古老たちの間で信じられてる古い迷信だとすれば、神都の古株連中は、あんたを玉座に就けることで、ロアルデに呪いを掛けたつもりなんじゃねぇかな。
この世界の住人は素朴で迷信深い。あんたを王に戴いてもロアルデは呪われなかった、という事は即ち、あんたが『御子様』だったから、って仮定に行き着いても不思議じゃないさ。いつだったか、フリッツもそういう噂があるって言ってたし」
「『御子様』ねぇ……。俺はそう称されるほど御高潔な人間じゃねぇよ。ご覧の通り、ただの喧嘩好きで飲んだくれの盆暗だ」
「おいおい、『女ッ誑し』が抜けてるぜ」
苦笑混じりに混ぜっ返してやると、奴は「ん? 何か言ったか?」ととぼけながら、何本目かの瓶を開けた。