フリッツが宿を訪れたのは、二日目の昼過ぎだった。
案内してくれるというので、ベニカと共に連れ立って高台の邸宅街へ向かう。
途中の道は、石畳で綺麗に舗装されているものの、馬車が漸く通れるほどの、狭くて急な九十九折になっていた。
これは外敵の侵入を阻む為なのだろうけれど、眺望は素晴らしく、遠くに見渡せる海と、微かにそよぐ潮風が心地良かった。
件の邸は、エスネの森と呼ばれる、宮殿を囲む広大な森の中にあった。
庭園の芝生に囲まれた、陽だまりにひっそりと建つ瀟洒な邸宅は、どこかナクルタツリの離宮を思わせる佇まいだ。
辺境国で言う邸宅街は、専ら貴族や豪商たちの邸ばかりだったけど、この地で御邸と言えば、神官や巫女の住まいの事を指すようで、大抵、こんな風に宮殿に程近い森にあるらしい。
控えていた馬丁に馬を預け、ポーチで来客を待っていた初老の家令氏に、フリッツが用件を伝えると、彼は快く中へと促してくれた。
オーラート城下の大公邸には及ばないものの、内部はどこも贅沢な内装で美しく飾られている。
女伯爵の邸らしく可愛らしい雰囲気に、ベニカは甚くご機嫌な様子で、俺の手を握ったまま、大きな緑色の瞳を好奇心に輝かせながら、そこいら中を忙しなく見回している。
やがて主の書斎に通されたのだが、そこには、木漏れ日の差す窓辺で、静かに本を読む老貴婦人以外に、人影はなかった。
家令氏は俺たちに一礼して窓辺へ歩み寄ると、彼女にそっと声を掛ける。
「奥様、お客様のご到着に御座います」
彼女ははっと顔を上げてこちらを振り返ると、穏やかな笑顔を浮かべ、手にしたローネットを、閉じた本と共に傍らのテーブルに置くと、家令氏に促されて入って来た俺たちを、温かく迎えてくれた。
「初めまして。アレーネです。何も無くて寂しい所だけど、自分の家だと思って気楽にしてね」
「ランジャです。ご厄介になります」
上品な所作でドレスの裾を捌きながら、仄かに香る花の香と共に静々と歩み寄る。高貴でいながら包み込むようなその優しい笑顔に、どうやらベニカの緊張も解けたようだ。
「初めまして。ベニカと申します。御世話になります閣下」
精一杯丁寧なカーテシーで挨拶するベニカに、女主人はふんわりと柔らかな声で笑う。
「まぁ、何と可愛らしい事。アレーネでいいわ、小さな石読みさん。フリッツは久し振りね。元気そうで何よりだわ」
「ご無沙汰しております。夫人も相変わらずお美しくていらっしゃる」
そう言って天使の微笑を浮かべる彼に、彼女は、
「まぁ、こんなお婆さんをからかうなんて」
と温和な目元でいたずらっぽく微笑む。
ソロ系特有のほっそりと優美な容姿に加えて、洗練された淑やかな立ち居振る舞いもまた美しい。フィノンが年を取ったら、きっとこんな感じかもしれない。
が、なるほど美女は年老いても美女だと思いはするものの、無駄に過大な期待をしていた俺にとっては、些か拍子抜けだった。
まぁ、三十年前の彼女だったら、俺の想像と寸分違わず合致しただろうとは思えるけど……。
畜生、一杯食わされたかと苦笑しつつフリッツを振り向くと、この野郎、俺と目が合うなり、したり顔でにやりと笑いやがった。
「お部屋は……そうね。やっぱり二階の方が日当たりが良くていいでしょう。ねぇフリッツ、あなたとコンラート殿が使っていた部屋はどうかしら?」
「あそこはいいですね。遠くに海が見えますし」
彼の言葉に、ベニカが顔を輝かせて振り向く。
「本当? 海が見えるの?」
「えぇ。森の向こうに。お天気の良い日は、波が輝いてとっても綺麗よ」
笑顔で答える夫人の言葉に、彼女は「素敵……」と呟くと、重ねた両手を胸に当ててうっとりと溜息をつく。
「ロアルデからいらしたと伺ったけど、お二人ともケルデン師の門下なのね。彼はお元気?」
「はい。元気です。親方をご存知なんですか?」
「えぇ。彼も若い頃、ここに寄宿していたのよ。もっとも、その頃の主は私の養父母で、私自身も宮中のお勤めがあったから、殆ど顔を合わせた事は無いのだけれど」
それを聞いて親しみを覚えたか、彼女は俺と顔を見合わせると嬉しそうに微笑んだ。
「あなたは叙任式にはまだ少し早いようだけど、兄弟子さんのお供? それとも修行でいらしたのかしら」
すると今度は「えと、あの、その」と言いながら、助けを求めるように困った顔で俺を見上げる。
「いえ、どっちかってぇと、こっちの方が姉弟子なんすよ。今回はこいつの修行が目的なんで、それの用心棒と言うか……。俺は言ってみれば親代わりみたいなもんなんで」
彼女の代わりに答えた俺に、夫人は「まぁ、そうなの」と微笑ましげに納得してくれたってのに、質問された当人は心なしか不服そうだ。
大方、いつぞやの夜会の時と同様、許婚として紹介しなかった事を拗ねてるんだろうけど、そんな風に言おうものなら、根掘り葉掘り経緯を聞かれるに決まってる。想像するだけでしち面倒臭い。
などと思っていたらフリッツの奴、ベニカの髪を優しく撫でながら顔を覗き込み、
「でも、ベニカはランジャ様の奥方になりたいんだよねぇ」
と、笑顔でしれっとバラしやがった。
この野郎、余計な事を……! と苦笑する俺をよそに、彼は怪訝そうな顔で、「あれ? 内緒だったの?」ととぼけやがる。
さあ、質問攻めが始まるぞと戦々恐々身構えたが、「あ、あの、えと、その……」と、耳まで真っ赤になってあたふたうろたえるベニカに、夫人は「あらあら」と優しい声でころころ上品に笑うばかりで、特に何も訊いて来る事はなかった。
部屋は明日までに準備しておいてくれるらしい。俺たちは夫人の勧めで、茶を一杯ご馳走になってから帰途に付いた。
帰りの道すがら、ベニカは、明日から始まる素敵な寄宿生活に思いを馳せて、ご機嫌な様子だったが、俺は肝心な事を訊くのを忘れていた事に気付いた。
「あの邸、宿代は幾らなんだ?」
少々生臭い質問にも拘らず、フリッツは屈託の無い笑顔で答える。
「あぁ、お気になさらないで下さい。本部が負担しますから」
「え? そうなのか」
「ある条件を満たせば、の話ですけどね」
思わせ振りに片目を瞑って見せる彼に、嫌な予感がして思わず苦笑を返す。
「何だよそれ」
「大した事じゃありませんよ。あなたが試験を受けて、石使いとして正式に叙任されればいいだけですから」
あぁ、なるほど。最初から俺を取り込むのが目的だったか。彼の策士振りには恐れ入る。
だけど、今後の活動に、ホルザレン会の情報網を使えるとなれば、強ち悪い話でもない。精々高く売りつけてやるとするか。
「試験?」
「はい。石読みは修行中の身ですから、一人前として認められるには、試験に受かって叙任されなければなりません」
「なるほどね。で、晴れて一人前と認められれば、本部が色々面倒を見てくれる、と」
「ランジャ様なら、きっとすんなり通ります。大丈夫です」
俺を振り返るなり、満面の笑顔で確約してくれたベニカに、思わず笑みが浮かぶ。
そう言えば、神都に着いたら可愛い服を買ってやる約束だったっけ。明日、引越しが終わったら、城下の商店街へでも繰り出してみるか。
「それにしても、あんたにはしてやられたよ。確かにあの伯爵様は美人だとは思うがね」
少々呆れた口調で言ってやると、彼はいたずらっぽくにやりと笑って見せる。
「でしょう? 優しくて、美しくて、まさに女神様そのものです」
「だけど、確かあんたは神族を嫌ってたよな。なら何だってあそこに間借してたんだ?」
ふと湧いた疑問をそのまま口にすると、彼は困ったような苦笑を浮かべて肩を竦めた。
「会長に放り込まれたんですよ」
「なんでまた。悪さでもして追い出されたか?」
俺の軽口に、彼もまたあははと軽やかな笑い声を立てる。
「まぁ、当たらずともまた遠からじ、でしょうか。彼は人脈を作る為と仰っていましたけど、僕の神族嫌いを叩き直すおつもりだったんでしょうね」
「随分な荒療治だな」
「ですよねぇ」
そう言って一頻り笑った後、彼は少しばかり自嘲を含んだ溜息を零した。
「お恥ずかしい話ですが、邸に入ってすぐは、会長のお考えが理解出来なくて、随分と荒れましたよ。あそこに居るのが辛くて苛立たしくて、女友達の家を点々とする日々でした。
だけど、気紛れに邸へ戻ったある日、夫人は僕を本気で叱って下さったんです。『あなたを大切に思っている人が居ることを知りなさい』って。
彼女は僕の身の上をご存知でいらして、僕を叱りながら抱き締めて、僕の為に泣いて下さった。
打ちのめされましたよ。神族何て、みんな美しいのは姿形ばかりで、中身は冷酷で身勝手な連中だと決めて掛かってましたから」
彼は、眉間に滲む微かな苦悩の影を振り払おうとするように、静かに首を振る。
「それだけで、僕が抱えた神族への憎悪が全て消えた訳ではありませんが、彼女のお蔭で、どうにか操る術は得られたようには思います。
でも、時折、箍が外れたように噴き出す事もあって、そんな自分に酷く落ち込んだりもする……」
「まぁいいさ。忘れようぜ。あんたはちょっとふざけただけだ。何て事ァ無い」
努めて明るい口調で言ってやると、彼は「有難う御座います」と呟いて、吹っ切るように大きな溜息をついた。
「大恩ある方ではありますが、時々会長を恨みたくなることもあります。僕を守る為だったとは言え、何故、父を生かしておいてくれなかったんだろうって。
彼が生きていたなら、全てぶつけて晴らすことも出来ただろうに……。まぁ、幼かった僕に出来る事何て、何もありませんでしたけどね」
随分と物騒な事を口走っているにも関わらず、彼の口調は丸でそれを茶化すかの様だ。
「それ以来、夫人には頭が上がりません。彼女のお蔭で、母性溢れる年上の女性には、からきし弱くなっちゃいましたよ。
あぁ、何だかオリガ親方に逢いたくなっちゃったなぁ。休暇の間は神都に居ようと思ったけど、早めに切り上げてケイディシアに帰ろうかな」
「子守唄でも歌ってもらおうってか?」
「あ、それいいですね。今度、寝る前にお願いしてみようかな」
そう言って唇を舐める妙に艶かしい彼の仕草に、図らずもあの夜のオリガ親方を思い出してしまって、どきっとさせられる。
「あんたが言うと違う意味に聞こえるんだけど……」
思わず苦笑する俺に、彼は「そうですかぁ?」ととぼけながら明るい声で笑う。俺なんかよりも遥かに若いのに、背負ってる物は随分と重そうだ。