翌日、宿を引き払って夫人の邸へ赴くと、フリッツの奴が、認定試験の申請書を携えてにこにこ待ち構えていた。
引越しと言っても身一つだし、取り立てて忙しい訳でもないので、早速記入して託す。そのついでに、街で一番の仕立て屋を教えてもらった。
「あぁ、それでしたら、表通りの大店よりスヴェンの店がいいですよ。
裏通りの小さな店なんですけど、仕立てが丁寧で趣味が良いので、女の子たちに人気なんです。貴族や殿上人の御邸にも、度々お呼びが掛かるんですよ」
即答で返って来る辺り、さすがと言うべきか。日頃のマメさ加減が窺えるな。
「そいつはいいな。有難う、行ってみるよ」
ベニカを誘って早速城下へ下りる。途中、本部へ向かう彼と別れて馬を宿屋の厩に預けると、俺たちは商店街へ向かった。
狭い土地だけに、どこの街区でも建物が密集している。表通りでも窮屈そうに見えるのに、裏通りともなると更にごみごみとしていて、何だか看板の洪水を見ているだけで窒息しそうだ。
一方彼女はと言うと、商店の窓に飾られた、煌びやかな都会の文物に夢中な様子で、窓から窓へと駆け寄っては、瞳を輝かせてうっとりと見入っている。
やがてその一角に、肩を窄める様にして建つ件の店を見付けると、隣の菓子屋の窓に張り付いている彼女を呼んだ。
中には、まだ午前中だというのに、既に数組の客がいた。彼が言ってた通り、人気の店の様だ。
俺が彼女を伴って入って行くと、待合用の椅子に腰掛けて、世間話に興じていた客たちが、皆慌てて立ち上がり、何事かと思わず身構えた俺へ一斉に頭を下げた。
あぁ、俺の容姿を見てお偉いさんと勘違いしたか。ここではそれだけ神族が権勢を振るっているって事だ。
「いや、俺、只のしがない石読みっすから」
と苦笑交じりに制すると、客たちは面食らった様子で互いに顔を見合わせると、おずおずと椅子に戻った。
「まぁ、神使様。態々お越し頂かなくとも、私どもからお伺い致しますのに……」
声を振り向くと、店の女将らしい痩せた中年女が、困ったような笑みを浮かべて奥から出て来た所だった。
「いや、いいんだ。神都は初めてなんでね。色々見て回ろうと思ってたし。ここへは評判を聞いて来たんだ。こいつの服を頼むよ」
ぺこりと頭を下げるベニカに、女将は人の良さそうな笑顔を綻ばせる。
「まぁまぁ、左様で御座いましたか。生憎と今日はこの通りの客入りで御座いますので……。お急ぎでなければ、後ほど御邸の方に主人を遣わせようと思いますが、如何で御座いましょう?」
申し訳なさそうな女将の言葉に、振り向いて「どうよ」と訊くと、彼女は元気良く、
「よろしくお願いします」
と言って丁寧に頭を下げる。俺も伯爵家に居候してる手前、礼服の一着ぐらいは作っておくべきかと思い、その旨と寄宿先を告げると店を出た。
狭い路地を渡る風でさえ、仄かに潮の香りがする。
表通りに出ると、広場を抜けて真っ直ぐ下る石畳の道の向こうに、ひしめく街並の間から、陽を受けて波の輝く波止場が垣間見えた。
「港まで歩いてみるか」
と提案すると、彼女は満面の笑みで快諾する。
真冬だと言うのに、風も日差しも小春日のように暖かい。馬を預けた宿を通り過ぎ、気の向くままあちこち寄り道しながら海を目指す。
賑わう人波の中を、甲冑を煌かせながら、隊列を組んで砦へ向かう兵士たち。港から来た荷車が辻馬車とすれ違って、市場へ向けて緩やかな坂道を上って行く。
途中で薬屋を見付けて、ロナが来てやしないかと覗いてみたが、店番らしい若造が大きなあくびをしているだけで、他に人影は無かった。
広場もまた、沢山の屋台が賑やかに軒を連ねている。噴水のほとりでは、大道芸人や楽師が人垣に囲まれていた。
陽気な音楽が気になるのか、彼女は人垣の外で懸命に背伸びをする。抱き上げて肩車をしてやると、途端に嬉しそうな歓声を上げた。
「随分重くなったなぁ。そろそろ肩車はお役御免かな」
途中で音を上げて下へ降ろすと、彼女は「えぇ? どうしよう……」と泣きそうな顔で俺を見上げる。
「私、太りました?」
妙に深刻そうな口調で言う彼女に、苦笑しつつ首を振る。
「いやいや違うよ。成長したって事さ。太ったと勘違いしてメシ抜いたりするなよ。大人ンなる為にはもっと成長しなきゃならねぇんだから」
そう言ってやると、彼女は何故か襟元を引っ張って自分の胸を覗き込み、暫しの間考え込んでいたかと思うと、小さな拳を固めて「頑張らなきゃ」と呟いた。一体何を頑張るつもりやら。
屋台の店を、あちこち冷やかしながらぶらぶらしていると、ふと懐かしい香りが漂って来た。香ばしく芳醇なこの香りは、珈琲のものだ。
そう言えば、この世界に出てからこっち、茶といえば薬草を煎じたハーブティーの類ばかりで、カフェイン含有食品とは終ぞお目に掛かっていない。
香りの出所を探してきょろきょろと見回すと、眼鏡を掛けた老爺の屋台が目に留まった。
こじんまりと小さな店先には、焙煎された珈琲豆ばかりでなく、胡椒や丁子と言った香辛料や、濃厚な香りを放つ熱帯産の果物までが、所狭しと並べられていた。
「これはこれは、石読みの神使様とはお珍しい。如何で御座いましょう? 昨日船で届いた品ばかりです。ささ、どうぞこちらのお茶をお試し下さい。すっきり目が覚めますよ」
店主は、背後の精霊石焜炉から、湯気を立てているケトルを取ると、古ぼけたカップに注いで笑顔と共に差し出す。
礼を言って受け取り、一口啜ると、爽快な苦味とふくよかな香りが心地良かった。
久し振りだからそう感じるのかもしれないけど、アルコロジーで毎朝飲んでた一杯よりも、遥かに上物だ。
俺が旨そうに飲んでる物が気になるのか、ベニカが興味津々な顔で見上げていた。「飲んでみるか?」と訊くと「はい」と意気揚々答えるので、飲み掛けのカップを手渡す。
甘い香りにわくわくしながら口を付けるが、途端にぎゅっと目を瞑って頭を振る。その様子に、俺と店主で思わず声を上げて笑うと、彼女は恨みがましい涙目でカップを突き返した。
「苦ぁい! これ何のお薬なんですか?」
「珈琲豆の茶だよ。確かに、こりゃ子供向けの味じゃあないな。そら、口直しだ」
店主は笑いながらカップを受け取ると、干したパイナップルを一片、小さな手に乗せた。見た事のない異国の果物に、彼女は少しばかり懐疑的だったが、勧められて恐る恐る齧ると、たちまち輝くような笑顔になった。
「美味しい! 林檎の砂糖漬けみたい」
「気に入ったか?」
「はい」
「じゃぁ買って行こう」
珈琲豆と干し果物を幾つか選び、一袋ずつ包んでもらう。ここじゃ珍しい物だけあって、少々値が張るのは仕方ないけど、カフェインに飢えてただけに、久し振りに珈琲が飲めるのは正直嬉しい。
「豆は石臼で挽いてから煎じて下さいね。夜にお召し上がりになると、眠れなくなりますのでお気を付けを」
「そう言えばさっき、船で届いたって言ってたけど、どこから来るんだ?」
「バルナタートで御座います」
「え? バルナタート?」
「あれ、神使様はご存じでない?」
思わず声を上げた俺の反応を、店主は意外に思ったか、怪訝そうな顔で聞き返して来た。
「あぁ、俺、神都は初めてなんだ」
「左様で御座いましたか。えぇ、バルナタートから来る品物です」
「国交があるのか……何か意外だな。てっきり睨み合ったままぴりぴりしてるのかと思ってた」
「まぁ、お偉い方々の建前ではそうなんでしょうけど、私ら商人には関係ありませんよ。商売になりさえすればどこへでも参ります。もっとも、国境を越えるには、薬師の手形が必要なんですけどね」
「薬師の手形? 何で?」
「あちらは、薬師以外は入国出来ない事になってましてね。何でも、向こうでないと手に入らない薬種があるとかで、彼らだけは特別なんですよ。だもんで、仲間に手形を持った者が居ないと、追い返されちまうんです。こっそり密入国しようなんてものなら、間者と見做されてコレですよ」
彼は眉を顰めながら、首切りの仕草をして見せる。
「ですから、向こうと商売する船は、みんな薬師を雇うんです。彼らに頼んで買い付けをして貰うって建前でね。
一時期は、安い手間賃で引き受けてくれるんで、セブランから来る偽薬師が持て囃されてましたが、ケイディシアの騒ぎを受けてからこっち、御詮議が厳しくなったとかで、とんと見なくなりましたねぇ」
「偽薬師……」
「詳しい話をお聞きになりたいのでしたら、波止場に御出でになられるといいですよ。大きな船でしたら、大抵は交易をやってますから」
「そうか、有難う。悪ィね、商売の邪魔しちまって」
「いえいえ滅相もない。また是非いらして下さい」
彼はそう言いながらベニカに品物の紙袋を手渡すと、ぺこりと頭を下げる彼女に温かい笑顔で手を振った。
バルナタート……。軍神を祖とし、精強で鳴らす騎士団を擁する辺境の大国。ソーセンは向こうヘ亡命したきり音信不通と言う。
ケイディシアで姿を眩ました偽薬師の行方もまた、杳として知れない。あれもまたセブランの者だったのだろうか。交易船に潜り込んで向こうへ逃げ遂せていたとしたら厄介だな。
「ランジャ様……?」
声を振り向くと、心配そうな顔で見上げる彼女に、自分が顰めっ面で、黙りこくったまま歩いていた事に気付いた。
「あぁ、ごめん。考え事してた」
「ランジャ様、バルナタートに御出でになるんですか?」
「そうだな。いつか、行く算段が出来たらね」
「ソーセン師に……会いに行くの?」
そう言えば、ソーセンは魔道師と呼ばれていたっけ。どうやら彼女はあいつを恐ろしい魔王か何かと思っている様だ。何だか泣きそうな顔で見上げるその視線に、思わず苦笑が浮かんでしまった。
「何もそんなに心配しなくたって……。会って話をして、盗った物を返してもらえば済む話だ。仕事自体は簡単さ」
「どうしても行かなきゃいけないの? 行かないと、罰を受けるの?」
「いや、罰を受けるとか、そういうのは別に無いけど……。俺としてはやっぱり、女神様の期待に応えたい……かな」
「女神様……」
心なしか寂しげに呟いて俯いた彼女の上を、鳥の影が撫でて行く。見上げると、波止場へ向けて滑空する、鴎の姿が遠ざかって行くのが見えた。
手を差し出して目配せすると、彼女は噛み締めていた唇をほんの少し綻ばせ、黙ったまま握り返す。本当は、行かないで欲しいと言いたかったのかも知れないけれど。
彼女が望む通り、このままディエシーのように、この世界に同化して暮らして行くのも悪くはないと思い始めてはいるけれど、俺は何故ここにいるのかと己自身に問う時、ふと脳裏に浮かぶサリス室長の儚げな微笑が、忘れていた筈の小さな棘となって胸の奥で痛んだ。