俺たちに宛がわれた寄宿先は、二階の日当たりのいい部屋だった。
ベニカは隣の角部屋で、南向きのバルコニーから望む美しく整えられた前庭と、遥か向こうに広がる入り江の風景に、甚くご満悦の様子だ。
早速椅子を持ち出し、微かな潮の香りを楽しみながら、いそいそと術譜の本を広げる。俺も明後日に迫った試験に備えて、一応は目を通しておくか、と自室へ戻ろうとした時だ。
ノックの音に答えると、入って来たのは夫人だった。彼女は家士に幾つかの大きな箱を運ばせると、上機嫌で俺たちを手招きする。
「何すか?」
「スヴェンさんがいらしたの。お願いしていた服が出来上がったそうよ」
夫人が手ずから箱を開けて見せると、ベニカは嬉しそうな歓声を上げる。彼女が悩み抜いて選んだ若草色の生地が、可愛らしいドレスになって箱に収まっている。
「ランジャ様、如何ですか?」
大切そうに取り出して胸に当て、満面の笑顔で俺を振り向く彼女に、
「良かったな。似合うぞ」
と褒めてやると、えへへと照れ臭そうに笑って「有難う御座います」と応える。
先だって採寸に来たスヴェン氏は、愛想のいい女将とは逆に、無口な職人気質といった風で、厳しい顔で黙々と作業する彼に、神妙な顔で従うベニカの様子は、採寸というよりは小児科医の診察でも受けているようで、少しばかり滑稽だった事を思い出した。
仕立て上がりは評判通り上々の出来。となりゃ当然、代金もそれなりで、彼女の平服と礼服、それに俺の礼服を足すと結構な散財になってしまった。
村を出る時に親方に持たされた路銀は、そうそう使い切れる金額じゃなかったけど、これから五年間の修行生活を凌ぐには、些か心許ないのは確かだ。
生活全般は、夫人と本部が面倒見てくれるとは言え、自由になる金も少しは欲しい。
となると、フリッツの思惑通り、試験に受かって正式採用の道を採るしかないわけだが、この無邪気なちびすけの笑顔の為にも、ひとつ頑張ってやらねばなるまい。
トゥラシオン大公邸でも思ったけど、居候状態ってのは何とも落ち着かないものだし。サラリーマン気質が抜け切らないと言うか、俺も結構な貧乏性だな。
ふと気付くと、テーブルの上に積まれた箱が、一つ多い事に気付いた。大きさから言って俺の分ではなさそうだ。だとしたら、これは何だ?
俺の思案顔に気付いたか、夫人は侍女に一番下の箱を取り出させると、茶目っ気たっぷりに片目を瞑って見せ、ベニカに差し出すと開けて見るよう促した。
こちらを窺う彼女に頷いてやると、いそいそと蓋を開ける。中から出て来たのは、淡い水色の生地に青と白の縞のリボンをあしらった、人形の様に可愛らしいドレスだった。
礼服の仕立てじゃないところを見ると、平服なのだろうけど、少々贅沢過ぎる代物だ。
「私からの贈り物よ。どうか受け取って頂戴」
穏やかに微笑む夫人の言葉に、彼女は困惑し切った様子で、助けを求めるように俺を見上げる。
彼女の長い編み下げの先で揺れる、お気に入りのリボンと同じ柄だ。夫人の心遣いの細やかさが窺えるけど……。
「いや、困ります。こんな贅沢な物……。頂く理由が判らないっすよ」
慌てて辞退する俺をよそに、夫人は柔らかい声で笑う。
「いいのよ。どうぞ遠慮しないで。実はこの邸、今まで寄宿するのは何故か殿方ばかりだったの。初めての女性が、ベニカさんのように可愛らしい少女だなんて嬉しくて。御近付きの印よ」
やれやれ。随分と気に入られたもんだな。俺が肩を竦めて見せると、彼女は不安そうだった顔をぱーっと輝かせた。
「有難う御座います、アレーネ様。大切にします」
着て見せて欲しいとの夫人の要望で、早速お召し替えが始まるらしい。
早々に退散して自室に引っ込むと、隣からは女性陣の楽しそうな声が漏れ聞こえて来た。どうやら、ベニカを着せ替え人形にして夫人の方がはしゃいでいるようだ。
老女ながら何とも可愛らしい人だ。家士や家令氏から聞いた話に因れば、長きに渡る宮仕えの功績から爵位を賜ったそうだけど、結婚は考えなかったのかな。
若かりし頃はさぞかし美貌を誇っただろうに、許婚や想い人はいなかったんだろうか。
術譜の本を手にベッドへ腰掛けると、テーブルの上に置かれた礼服の箱が目に留まった。
一度くらいは試着しておくかと思い、立ち上がって箱を開ける。注文通り、上質な生地で丁寧に仕立てられながらも、極力無駄な装飾を省いたシンプルなものだ。
袖を通すと、ぴったりと体に添うようで着心地がいい。ベニカの親父さんの形見も悪くないけど、後で平服もあの店で作ることにするか。
そう言えば、ベルに借りたクロークも、ここの女中に洗濯してもらったきりそのままだ。試験は本部でやるそうだし、その時にでも返そう。
そんな雑多なことをつらつら考えながら着替え終わる頃、ノックの音に答えて振り返ると、そっと開いた扉から、小さな淑女が顔を覗かせた。どうやら、態々俺にも見せに来たようだ。
「お。可愛いぞ」
「ランジャ様も素敵。良くお似合いです」
ベニカはドレスの裾をもどかしげに持ち上げ、いそいそと駆け寄って眩しそうに見上げる。侍女に結ってもらったのか、綺麗に纏めた髪には七宝細工の簪が飾られていた。
「その簪も夫人から?」
「いいえ。ケイディシアを発つ時に、スーラニー殿下から賜りました」
見れば、白百合を模した精緻な細工もさることながら、所々に真珠とエメラルドがあしらわれた贅沢な品だ。彼女の瞳と同じ色の大粒の宝石は、鮮やかな赤毛によく映える。
「さすが大公の姫様だな。餞別にしちゃ、随分と豪華な贈り物じゃないか」
「姫様は、お詫びの印と仰ってたの」
「お詫び?」
「『ユアン殿下とお逢いして、初めてお前の気持ちが判った』と……。とても贅沢なお品なので、ご辞退申し上げたんですけど、姫様は是非受け取って欲しいと仰せで……」
彼女ははにかんだ様子でもじもじ言うと、少しばかり照れ臭そうに微笑んだ。
なるほどね。ロナの言を借りれば「恋する少女」同士の友情の証と言う訳か。そのスーラニーも、来春にはケイディシアの王太子妃だ。
「私、姫様が羨ましいです。まだ十二なのにご結婚出来るなんて」
今度は拗ねた顔になると不満そうな口調で言い、呆れた苦笑を浮かべる俺を上目遣いに見上げる。
「綺麗にしてもらったのに何て顔してんだ」
「早く大人になって、夜会へご一緒させてもらいたいです」
「五年何てすぐさ。何も今すぐ結婚しなくたって、こうして一緒に暮らしてるんだ。取り敢えずはそれでいいじゃねぇか」
そう言ってやると、「五年……」と呟いて俺の顔をじーっと見詰めていたが、何事か意を決しておずおずと口を開いた。
「あ、あの、お願いがあります」
「ん?」
「ランジャ様、五年後に神界へお帰りになると仰ってましたけど、その時になったら、その……一緒に連れて行って下さい」
「はぁ? 何でまた……。待ってるのは嫌か?」
何だか妙に真剣な物言いに、目の高さまで身を屈めて顔を覗きこんでやると、彼女はぶんぶん首を振る。
「あ、あの、ランジャ様のご両親にもご挨拶しなきゃいけないと思って……。その……許婚として」
顔が赤くなるにつれて、語尾が消え入りそうに小さくなるその言葉に、思わず吹き出す。
いつだったかフリッツが言ってた、俺の実家がどうのってぇ言葉をずっと気にしていたのか。あの野郎も、判ってて余計な事を言いやがるから始末に負えない。
「何だ。そんな事か」
笑いながら立ち上がる俺を、彼女は切なそうな顔で見上げる。
「私、ランジャ様の事、何も知りません。こんなに大好きなのに……。もっと色々知りたいです」
「俺のことなんぞ知ったところで、平凡過ぎて面白くも何とも無いぞ」
「でも……」
「俺の両親なら、随分前に死んだよ。俺が十六の時にお袋が死んで、親父は二十歳の時にね。だからそんな心配しなくていいんだ」
「え? 神界においでの神様でも亡くなるの?」
心底驚いた顔で、ただでさえ大きな目を更に真ん丸く見開く。
「俺も俺の親も神様なんかじゃねぇよ。言ったろ? 体の仕組みが少し違うだけで、ただの人間だって」
苦笑交じりに答えながらベッドに腰掛ける俺を、彼女もまた隣に腰掛けながら、不思議そうな眼差しで見詰める。
「だから、普通に年取って普通に死ぬよ。こっちの神族と同じで、俺も養父母に育てられたけど、俺を引き取った時には既に年寄りだったからね。不老不死の神様なんて、アシュリ聖下ぐらいなもんだ」
「そうなんですか」
そう言いつつも、何だか納得してない顔だ。
「神界って、どんな所なんですか?」
「そうだな……こっちの方がいい所だよ。粗野で猥雑で混沌としてるけど、手に触れる全てが本物で、全てが息づいてる感じがしてさ。メシも旨いし、女の子も可愛いしな」
そう言ってにやりと笑ってやると、一丁前に呆れたような微笑を浮かべながら肩を竦めて見せる。
「でも、あちらには神使様ばかりがお住まいなのでしょう? みんなお美しい方なんだと思ってました」
「そうさな……確かに向こうは、こっちに比べりゃ整った容姿の奴が多いけど、何てぇか、どいつもこいつも人形みたいで、生きてるって実感が無いような気がする」
今思えば、アルコロジーは作られた箱庭のようだった。そして、そこに住むのは管理局が描く台本通りの人生を演じる人々……。
俺たちソロ系は、その容姿から人形の様だと称されてはいたけれど、それは生気の無い無機質な美と言う意味だったのかもしれない。
「ランジャ様がお仕えしていた女神様は、お美しい方だったんでしょう?」
「あぁそうだな。綺麗だったよ。ちょっとフィノンに似てたかな。仕事には厳しくて、彼女ほど優しくは無かったけどね」
そう言って片目を瞑って見せる俺を、彼女は好奇心に輝く瞳で見上げる。
俺にとっちゃありきたりで大して面白くもない話だと思うけど、彼女にとっては甚く興味をそそられる物らしい。
「仕事? どんなお仕事をしてらしたの?」
いきなり難しい質問だな。彼女にも判る様に説明するのは少々骨が折れるぞ。と、腕を組んだまま「うーん」と唸って考え込むと、彼女は途端に心配そうな顔になる。
「えーっとね、何て言ったらいいかな……。色んな学者の叡智を記録……てか、保存して、管理する仕事……って言ったら判るか?」
あぁ、俺ってつくづく説明が下手だ。そう言えばアルコロジーに居た頃は、ポートで直接情報の遣り取りする方が早かったから、回りくどく説明する機会なんて殆ど無かったっけ。
ちょっと難しかったかなと思いきや、彼女は何を思い立ったのか、はっと顔を上げた。
「もしかして、『ヨルンの蔵』ですか?」
「え? ヨルン……て、お前、ヨルン・システムを知ってるのか?」
今度は俺が驚く番だ。何故彼女があれを知ってる? ライブラリやアーカイヴに関わりが無ければ、アルコロジーの住人でさえ、その存在を知る者は稀だってのに。
「凄い! 『ヨルンの蔵』って本当にあるんだ。言い伝えは本当だったんですね」
彼女は真ん丸な瞳で俺を見詰めたまま、興奮気味に声を弾ませる。
「言い伝え?」
「はい。神界には神々の叡智を納めた蔵がある。っていう言い伝えです。でも、誰もその場所を知らないし、辿り着けたとしても三匹の魔物が守ってるから、鍵を持っていなければ神様でも近付けないって聞きました。
大昔に、蔵を開けようとした賢者がいたそうですけど、
「いや、違うよ。多分、その賢者がいた頃には、俺はまだ生まれてもいない。ってか、俺は魔物かよ」
何だか物凄く期待に満ちた眼差しの彼女に、思わず苦笑しながら答えつつも、俺は背中に冷気が這うのを感じていた。
何てこった。こいつは二七〇年前の大停電時に起きた、不正アクセス事件の事を言ってるんじゃないか?
だとしたら、その賢者とか言う奴は、あの「M249」で始まるIDを持つ容疑者か? こりゃ思い掛けない場所で、とんでもない情報を拾っちまったかもしれないぞ。
「その賢者ってのは、何だって『ヨルンの蔵』に近付いたんだ?」
「お姫様の呪いを解く為に、神様に救いを求めたそうです。でも、鍵を持っていなかったので、叡智ではなく死を賜ったとか。今ではその魂だけが神界を彷徨っているそうです」
「なるほどね……」
もしかしたら、事ある毎に耳にする伝説だの言い伝えだのは、意外と史実に基いてる話なんじゃないだろうか。
恐らくこの手の話は、本来なら宮廷の神官たちによって秘匿されてる筈だったが、時代を経るにつれて断片的に漏洩し、伝聞に継ぐ伝聞によって、変質しながら一般に流布して行った物なんだろう。
彼女も、タラサノの村人やケルデン親方夫妻から聞いたものだけだとかで、さすがに他の辺境国の伝説までは知らないらしい。
人類がアルコロジーに篭ってた五百年間の、空白の地上史が垣間見れると思ったのに、甚だ残念だ。
それにしても……神界の鍵? いつだったか、ナクルタツリの離宮でトルフィニ師が言っていた、「控の鍵」ってのとは別物なんだろうか。
彼女は確か、鍵を持つ者は巫女と神官の二人と言っていたけれど、そいつが彼女と同様に、管理局上層クラスの権限を持っているのなら、アーカイヴへ入るのに、ヨルン・システムなんぞに煩わされる事も無い筈だけど。
だとしたら、ナクルタツリを急襲し、典薬寮を脅かしたのは、一体何者だったんだろう。