仄かに甘い匂いがする。これは女の匂いか。
ベルの匂いとは違う様だけれど、まどろみの中に漂う甘い香りは、そこはかとなく妖しく本能をくすぐる。
首筋に掛かる柔らかな髪が、何だかくすぐったい。胸の上に感じる温もりと心地よい重みは、頬を載せているからか。
何だか、学生時代に付き合ってた女の子を思い出す。確か、パトリシアって名前のチアリーダーで、教育セクション直轄クラスの面子にしては、少々オツムは緩かったけど、何だって俺みたいな冴えないのと付き合ってたのか、不思議なくらい可愛い娘だった。
彼女に曰く、
「今時珍しいソロ系で、お人形さんみたいに綺麗だし、お父様が管理局勤務のお偉方だから」
だとかで、当時は変なとこに魅力を感じるもんだと思ってたけど、今にしてみれば随分と打算的な子だったんだな。
そう言えば、パティとは何が原因で別れたんだっけ……?
色気もしゃッけもない散らかり放題の俺の部屋に、親に内緒で押し掛けて来て、初めて一緒に朝を迎えた時、こんな風に俺の胸に頭を載せたまま、
「ねぇ、今どんな気持ち?」
と、うっとりした声で訊く彼女に、馬鹿正直に「腹減った」って答えちまったのがまずかったのかな。
そのせいで、セントラル・パークに出来た新しいカフェで食事する予定も、シミュレーション・スタジアムで一日中はしゃぎまわる計画も、全部キャンセルになっちまったっけ。
もっと甘い言葉が欲しかったらしいって事が判ったのは、ずーっと後になってからだ。お蔭様で「女ってのは面倒臭い生き物だ」と言う概念が、しっかり刷り込まれて今に至る訳で。
もっともあの頃は、女の子と付き合うことの意義がよく判ってない程の餓鬼で、行きつけのツール屋の常連たちと、話題の新作の出来をこき下ろしたり、補助脳の限界を試したりする方が楽しくて、年がら年中馬鹿やって親父に呆れられてた。
そんな感じだったから、また女が出来ても、向こうが癇癪を起して何か言って来るまで、大抵の場合ほったらかしだったんだ。
胸に載っていた彼女の頭が動いたので、俺も夢うつつから覚まされた。
まだ幾分重い瞼を抉じ開けて見ると、目の前にあったのはパティの金の巻き毛じゃなくて、長く艶やかな黒髪だった。
ベッド脇に持って来た椅子に腰掛けて、夢屋の衣装のまま俺の胸に突っ伏して眠ってる。
思い切り良く開いたスリットから覗く、むっちりと白い太腿にどきっとしつつ、彼女を起さないように頭だけ動かして周囲を窺うと、随分と豪華な部屋にいる事に気が付いた。
ここはどこだろう。バルコニーから差し込む朝の光を受けて、テーブルの上に林立する、色とりどりの薬瓶がきらきら輝いてる。ひょっとしてロナの奴、夜通しここでこうしていたんだろうか。
髪を撫でてやろうと思ったけど、肘から先の感覚が無い。そうか。昨日、あの狂王に手首を斬られたんだっけ。
リカバリセルは、修復しようと躍起になってるようだけど、こいつはさすがにクレイドルでなきゃ無理だ。毛布からそっと出して見てみると、傷口には丁寧に包帯が巻かれていた。
「私、あなたに嫁ぐわ」
突っ伏したまま、くぐもった声で彼女が呟いた。寝言か。大方、ディエシーの夢でも見てるんだろう。
こんな風に、大人しい時はしおらしくて可愛いのになどと思っていたら、気怠そうに寝返りを打つ彼女と目が合った。
何だ。起きてたのか。でもまだ寝惚けてるのか、「よぉ」と声を掛けても返事は無く、俺の胸に頬を付けたまま、長い睫毛に飾られた黒い大きな瞳で、じーっと睨み付けるように見詰めてる。
「馬鹿」
「へ?」
開口一番でそれかよ。前言撤回。やっぱり可愛くねぇ。
「あなた馬鹿だわ。余計な事しないでって言ったのに……。これからどうするつもりなのよ。そんな体じゃ、誰かに助けて貰わなきゃ生きて行けないじゃない」
「何を藪から棒に……」
「何よ。私じゃ不満なの? ベニカなら養女にすればいいじゃない。心配しなくたって私が立派な淑女に育てるわよ」
「え? まさか嫁ぐって、俺に?」
「そうよ。何度も言わせないで頂戴」
「嗣王の件なら断ったじゃねぇかよ」
「そんな事言ってるんじゃないわよ。狩人の妻でも、石使いの妻でも、あなたの好きな方に合わせるって言ってるの」
「何言ってんだか……。ディエシーはどうするんだよ。奴の后になりたいんじゃなかったのか?」
少しばかり茶化す様に言ってやると、ぷいとそっぽを向いて「知らない」と呟く。
「妹は? 捜し出して一緒に祖国を復興させるんじゃなかったのかよ」
何を拗ねてるんだか、そっぽを向いたまま返事が無い。
「お気持ちは有難く存じますがね殿下、ベニカが寝込んじまうと困るから、悪いけどその申し出は受けられねぇよ」
溜息混じりに笑いながら言う俺を、今度は心配そうな顔で振り返る。
「寝込んだ……って、あなたあの子に一体何をしたの?」
「俺じゃねぇよ。門下生にいじめられたんだとさ。俺に相応しくないとか言われたのを気に病んで、熱を出しちまったんだ。笑い飛ばしときゃいいものを……」
「それって、あなたのせいじゃないの」
彼女は非難がましい口調で言いながら起き上がると、腕組みをして大きな溜息をつく。
「はぁ? 何だよそれ」
「呆れた。あの子、あなたがいつまでも態度をはっきりさせないから、自分に自信が持てなくなっちゃったんじゃないの。まったく、こんな鈍感で御節介な大馬鹿者のどこがいいのかしら。神都にいるのなら、もっと優しくて気の利く素敵な紳士が沢山いるでしょうに」
「おいおい、さっき求婚したその口でそこまで言うかよ」
「うるさいわね。だったらベニカを正妻にして、私は側女にすればいいじゃないの。何よ、食事も着替えも一人じゃ出来なくなっちゃった癖に」
「あのさ、あんた俺が神族だって事忘れてねぇか?」
「神族だから何だって言うのよ」
「大薬師長の直弟子の癖に、神炉の使い道も知らねぇのかよ」
「知ってるわよ。神々を癒す精霊水を作る炉でしょう? だけど、そんなのただの言い伝えだわ。師匠から聞いたもの。父上は水に溶けてしまったきり戻って来なかったって」
恐らく、処置が遅くて脳死状態だったか、補助脳が傷付く程の深手だったんだろう。だけど、口下手な俺が説明したところで、彼女の理解を得られるかは凡そ絶望的だな。聴く耳を持ってるかどうかだって怪しいもんだ。
ふと視線を感じて顔を上げると、いつの間にか開いていた扉に、腕組みをしたベルが寄り掛かっていて、微笑ましげな優しい眼差しで俺たちを眺めていた。
「お早う、ランジャ。気分はどう?」
「まあまあってとこ」
「あら。こんな可愛いお嬢さんが、寝ずの看病をしてくれたって言うのに、随分と素っ気無いのね」
腕組みを解き、呆れたような口調で言いながら歩み寄るベルに、ロナは慌てて椅子を立ち、
「姉様……」
と恥ずかしそうに頬を染めた。彼女の妖しい魔力は、こんな高飛車な跳ねッ返りにも効くのか。凄いな。
「鉱夫たちが来る前に神殿へ行きましょう。連れて行ってあげるわ」
「あぁ、悪ィね。手間掛けさせちまって」
ベッドから起き上がろうとしたけれど、巧く行かない。彼女たちに二人掛りで何とか降ろしては貰えたけど、手首から先が無いって事が、こんなに不便だとは思わなかった。
「少しの間、旦那様をお借りするわね」
どうやら丸ごと立ち聞きされてたらしい。その一言でロナは耳まで真っ赤になると、
「いえ、あの、そう言うつもりじゃなくて、私……」
なんぞと訳の判らない言い訳を、しどろもどろに呟く。ベルはそんな様子にクスと笑うと、
「疲れてるでしょう。少し眠った方がいいわ。寝不足はお肌に悪くてよ」
と言いながら、あろう事か彼女の頬に軽く口付けをした。
何が起きたのか理解できなくて硬直しているロナを、丸で自分が口付けされたみたいにどきどきしながら呆然と凝視していると、
「行きましょ、御子様」
と肩を叩かれて、漸く我に返った。
硬直したままのロナに、ひらひらと手を振るベルに促されて部屋を出ると、ここが支部の二階であることが判った。
どうやら気を失った俺を、親方がここまで運んでくれたらしい。修復が終わったら礼を言いに行かなきゃ。
「彼女、あれでいてあなたに責任感じてるのよ」
「あれでねぇ……」
まだ朝靄の残る早朝の街は、ひんやりとして肌寒いほどだ。俺と並んで神殿に向かう途中、彼女は白い息を吐きながら、少し可笑しそうに言った。
「意地になっちゃって……可愛い人ね」
「妬ける?」
おどけた調子で言う俺に、彼女は意味深な微笑を返す。
「妬いて欲しい?」
「そりゃもう。盛大に」
神殿は広場を通り抜けた先の、しんと寝静まった市場の向こうにあった。
広い石段を登って柱廊の広間を進み、内陣へ上がると、奥に掲げられている巨大なタペストリーを仰ぎ見る。
黒地に朱赤も鮮やかな八ツ手の葉は、放射状に配された八本の諸刃にも見えた。武を以って周囲諸国を威圧するこの国には相応しい意匠だな。
王旗をたくし上げて最奥部へ入ると、そこから先は彼女の指先が頼りだ。次々に扉を開き、神炉の間に至ると、彼女は慣れた様子で操作パネルに触れ、蓋のロックが外れると、両手を添えて大きく開けた。
透明な液面が、眩しい壁面照明を受けて細波を輝かせる。「有難う」と礼を言ってそのまま入ろうとすると、彼女は苦笑しながら慌てて引き止めた。
「服を脱がなきゃ。全部溶けちゃうわよ」
「そりゃそうだけど……」
戸惑う俺などお構い無しに、彼女は手際よく翼刃章を外し、脱がしたクロークを綺麗に畳む。
「あの、恥ずかしいんですけど」
苦笑交じりに訴えると、いたずらっぽい微笑が返って来た。
「何言ってるの。あの夜、あなただって私の服を脱がしたじゃない」
上衣の胸元に付いた編み上げの紐を解く、彼女の華奢な指先がくすぐったい。
「あれは薄明かりの中だったぜ」
そう言ってにやりと笑う俺に、彼女は少しばかり呆れた様子で片眉を上げて見せると、首に巻いていた絹のクラヴァットを、するりと解いて目隠しにした。
「これでいいかしら?」
「上出来」
俺の返事を受けて、細いしなやかな指が、手探りで体中を這い回り始める。何だか反応しちまいそうでヤバい気分。
そう言えば、謁見の前に受けた身体検査、気色悪かったけど、あれは小姓で正解だったのかも知れん。侍女だったら、素っ裸にされた時にきっと恥を掻いてたな。
丁度目の前に来た白い額に、ふざけて軽く口付けると、彼女はくすくす笑いながら、
「駄目よ、動かないで」
と窘めた。