夜通し馬を飛ばし、夜明け前に辿り着いた宿場町に宿を取ると、一息ついて漸く、ジェイドが酷く落ち込んでいることに気が付いた。
「御免なさい、ジェイド。折角の好意だったのに……」
ベッドに並んで腰掛けたベルが、俯いた小さな肩を優しく抱いて囁き掛けると、彼は力なく首を振った。
「いいんだ。見付かっちまったんじゃ仕方ないよ。姐御は容赦無いから……」
語尾が次第に震えて来たと思ったら、膝の上に固めた拳の上にぼたぼたと大粒の涙が零れ、それに気付いたベルがぎゅっと抱き締めると、顔を埋めた彼女の胸から啜り泣く声が聞こえて来た。
「おいら、姐御に毒針を……。どうしよう。とんでもない事をしちまった……」
「大丈夫よ」
そっと歩み寄ったロナが屈みこんで髪を撫でながら言うと、彼は顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃの顔を袖口で拭って彼女を見た。
「あなたの毒針は師匠から習ったものでしょう?」
彼女の問いに、彼はしゃくり上げながらもこくりと頷く。
「ならばきっと毒消しも持ってるわ。彼女が修練を積んだ正法の薬師であれば、もしかしたら毒は効かないかもしれないし」
「うん……。きっと持ってる。今頃はそいつを飲んで無事だと思う。だけどおいらには、姐御しかいなかったんだ。なのに、なのに……」
ぽろぽろと幾つも頬を伝う涙を、彼女は切なげな溜息をついて拭ってやる。
「大好きな姐御を傷付けてしまった。そんな自分が許せない。そうなのね?」
「姐御は、奴隷に売られそうになってたおいらを助けてくれたんだ。いつも怒ってばかりで怖い人だけど、時々は『よくやった』って褒めてくれた。
おいら親を知らないんだ。だから姐御の事、母ちゃんの代わりだと思ってて……。もう御邸には帰れない。おいら、独りになっちまった」
貰い泣きしてるのか、彼女は眉根を寄せて黒い瞳を潤ませながら、黙って彼の話に頷いていた。
が、ふと顔を上げて立ち上がると、自分の荷物から出した黒い小瓶の蓋を開け、中から豆粒ほどの小さな丸薬を一つ取り出すと、身を屈めて彼の手を取り、その掌の真ん中にそっと置いた。
「寂しくなくなる薬よ」
怪訝そうに見上げる金茶の大きな瞳に、笑顔で目配せする。おずおずと口に入れた彼に皮袋の水を差し出し、飲み下すのを見届けると優しく髪を撫でた。
「さぁ、あなたはもう独りじゃない。薬が効いて来ると眠くなるから、少し休んだほうがいいわ。また沢山走らなきゃならないから」
薬を飲んで落ち着いたのか、彼は頷いて濡れた頬を手の甲で拭った。
「添い寝してあげましょうか?」
ベルの申し出に、彼は自分の肩を抱いている彼女を振り向くと、ぽっと頬を赤らめた。
「い、いいの?」
彼女が大きく頷くと、現金にもえへへと頬を緩めるなり、いそいそとブーツを脱ぎ捨ててベッドに潜り込む。俺たちはその様子に安堵しながらも、思わず呆れ顔で苦笑を見交わした。
「ねぇ、ロナ姉ちゃん」
城下へ向かう道すがら、宿屋を出てからずっと物思いに耽っていたジェイドが、ふと顔を上げると、後続のロナを振り返った。後ろから「何?」と答が返って来て彼女が隣に並ぶ。
「おいらの姐御って、本当に薬師だったのかな……」
「どうしたの? 急に……」
「ロナ姉ちゃんは、『薬師だから怪我人や病人を放っておけない』って言ってたろ?」
「そうね」
「でもおいら、傷薬も痛み止めも知らない。姐御には毒針とか眠り薬とか、そんなものしか教えて貰ってないんだ。
姉ちゃんが欲しいって言ってた薬草も、汁に毒があるから触っちゃいけないって言われてた。あれも薬術なの?」
真摯に真っ直ぐ見上げる瞳に、彼女は戸惑った様子で俺と顔を見合わせ、答を求めて振り返ると、優しく頷くベルに軽く頷き返した。
それでも彼女は、暫しの間答えあぐねていたようだったが、小さな溜息をつくと、彼の顔を覗き込んで言った。
「本当の事が知りたい?」
「本当の……事?」
呟くように言った後、彼は僅かに逡巡していたが、意を決したように顔を上げると「知りたい」と答え、彼女はそれを受けて真っ直ぐ前を向くと、「判ったわ」と硬い声で言った。
「あなたの師匠も薬師よ。広い意味ではね。でも、薬術には正法と邪法がある。毒を用いた時に、解毒法を持っているのが正法。邪法の薬術には解毒法が無いの。言ってみれば、人を癒すのが正法で、邪法はその逆ね」
「じゃ、姐御は……」
「邪法薬師ね。間違いなく……。針の毒や眠り薬には解毒法があるから、それだけでは邪法とは言えないけれど、あの薬草が何よりの証拠だわ。
あれは正法では栽培も精製も禁じられている種なの。本来なら、大薬師長トルフィニの許しを得た御典薬師以外には、触れることすら出来ない筈。あなたの師匠は手形を持っていて?」
彼女の問いに、彼は沈痛な面持ちで首を振る。
「そう。やっぱりね。あの日、森であなたが探していた若者、彼は御典薬師の修行をしていた正法の薬師だったの。きっと、あなたの師匠がしている事を見逃すことが出来なくて、誰かに知らせようと命を賭して種を奪い、邸を逃げ出したのね」
「姉ちゃん、サナンに会ったの?」
「私は会えなかったけど、ベル姉様とランジャが彼から種を託されていたの。私たちがあの森にいたのは、薬草畑を見つけ出して焼き払おうと思っていたからなのよ」
「そうだったのか……」
俯いた彼の頭をわしわし撫でながら、
「御免な。知らない何て嘘ついちまって」
と言ってやると、ぶんぶん首を振り、くるりと振り返って俺を見上げた。
「サナンは……?」
「死んだよ。俺たちに種を託すと、そのまま」
彼は答えを得ると再び俯き、「そうか」と沈んだ声で呟いた。
「姐御があいつらに作らせていたのって、何の薬だったんだろ」
「紫花天蠍晶《しかてんかつしょう》よ。恐らくね」
「シカ……ショウ?」
「紫花天蠍晶。解毒法の無いとても恐ろしい毒よ。使う度に人を蝕んで魔物に変える薬なの。ケイディシアのオーラート城下では、この薬を巡って大勢の人が死んだわ。
隠し鉱山でも使われてる。魔物に変えられて、人ではなくなってしまった鉱夫たちが、閉じ込められて使い捨てられているそうよ」
「何だってそんな薬を……?」
「ホルザレン会をブッ潰したいんだとさ」
「え?!」
弾かれたように振り返り、見上げる顔に俺が肩を竦めて見せると、彼はベルをも振り返り、静かに頷いた彼女を驚いた顔のまま見詰めた。
「何で? ホルザレン会が無くなっちまったら、みんな困るじゃないか」
「さぁな。そいつは俺にも判らねぇ。だけど、こっちとしちゃ黙ってやられるつもりもないんでね。
お前さんには、あの邸と姐御に関して知ってる事を、全部教えて貰いたいんだ。協力してくれるか?」
彼は暫くの間、戸惑いの色を金茶の瞳に揺らめかせたまま、俺の顔をじーっと見上げていたが、「判った」と強く頷いた。
城下の支部へ到着すると、旅装を解く間も無く書斎の親方を訪ねた。
ジェイドは、室内の重厚な調度を落ち着き無く眺め回していたが、続き部屋から現れた親方に、「ようこそ」と笑顔を向けられると、幾分ぎこちないながらも折り目正しく会釈する。
どうやら侯爵邸では薬術だけでなく、小姓としての躾もきちんと施されていたようだ。
俺たちにソファを勧めながら「こちらは?」と問う親方に、ベルは「協力者です」と答える。
それを聞いて「よろしく」と握手を求める彼に、ジェイドは緊張した様子だったが、おずおずと差し出した手を力強く握られると、ほっとしたような微笑を浮かべた。
「さて、どうでした?」
席に着くと、親方は早速切り出した。
「見付けました。エブロイス侯爵の別邸に」
報告を始めたベルに、彼は「ほう」と身を乗り出す。
「中庭に隠されていました。庭園を薬草畑として使っていたようです」
「なるほど。それで、栽培されていたものは確かですか?」
ロナは彼の質問に強く頷くと、「間違いありません」と答えた。
「彼が手引きしてくれました」
彼女の言葉を受けて振り向いた親方に、「有難う」と爽やかに微笑まれると、ジェイドは照れ臭そうに手の甲で鼻の下を擦る。
「でも見付かっちまって、殺されそうになったところを旦那たちに助けて貰ったんです。ね、旦那」
こちらを見上げる彼のやんちゃそうな笑顔に、苦笑を交えて「おう」と答えてやる。
「こいつから邸の秘密が漏れるのを、奴さんも恐れてると思います。どう出るかは判んねぇけど、近々接触があるんじゃないすかね」
すると親方は「そうですね」と頷き、書生を呼ぶと、寄宿生の帰宅と警備の強化を命じ、彼が会釈して部屋を辞すると、俺たちと顔を見合わせて軽く頷いた。
「蓮火幇は、侯爵別邸に家令として潜入していたようです。あの邸は今、リオネル卿が代官としてお住まいですが、親方もご存知の通りの御仁ですので……」
「無防備なところを狙われた、と」
「えぇ、恐らく。亡くなったサナン薬師は、邸に監禁されていたところを逃げ出して来たようです。
ジェイドとは、ハシュエル国境の森で出会ったのですが、家令の命で彼の捜索に来ていたとか。
ねぇジェイド、あの御邸での、あなたとサナンの役割を教えて貰えないかしら」
ベルに促されると、ジェイドは「うん、いいよ」と素直に応じる。
「サナンはあの薬草から薬種の精製をしてた。おいらは姐御からあいつの世話を頼まれてたんだ。
頑固な奴でさ、随分梃子摺らされたけど、あいつが正法の薬師なら、禁制の毒を作らされるのは嫌だったんだろうな。知らなかったとは言え、気の毒なことをしちまったよ」
言いながら俯いた頭にぽんと手を置いてやると、彼は小さく溜息をついた。
「薬師は他にもいたの?」
質問するロナを振り向くと、彼は「うん。あと三人」と言いながら指を三本立てて見せる。
「庭師小屋に地下室があって、そこで作ってる。逃げ出さないように鍵を掛けてあるんだけど、鍵は姐御が持っててさ……」
「判ったわ。有難う」
「君の姐御は、誰かの命令でその薬を作っていたのかい?」
親方に問われると、彼は緊張した面持ちで背筋を伸ばし、居住まいを正した。
「判りません。旦那様の御言い付けでは、痛み止めとか、熱冷ましとか、そんな普通の薬ばかり作っていたみたいです」
「なるほど。彼女の仕事は旦那様にも秘密だったんだね?」
「そうみたいです。もっとも、旦那様はいつでも部屋に篭り切りで、邸の事も御領地の事もみんな姐御が仕切ってたんです」
親方は「ふむ」と腕組みをして考えを巡らせていたようだったが、ふと腕を解くと指先で顎を撫でた。
「彼女宛に手紙や使いは来ていなかったかな?」
「城下の大旦那様からは、たまにお使いが来ていました。でも姐御宛じゃなかったな。あ、そうだ! 姐御には、時々手紙が来てました」
「ほう、手紙が……。どこからですか?」
「神都からです。すごく綺麗な封蝋がしてあって、とてもいい紙でした。姐御は誰にも見せないくらい大切にしてたから、きっと許婚か想い人の手紙だったんじゃないかな」
思わず苦笑する俺と顔を見合わせると、彼はにやにやしながらいひひと意味深に笑った。やれやれ、マセ餓鬼めが。
「どんな封印だったか、覚えているかい?」
「えーと、鍵が二つ重なった絵で、金色でした」
眉間に皺を寄せ、記憶を搾り出すように答えた彼の一言に、「何ですって?」とベルが声を上げ、親方の銀縁の眼鏡がキラと光った。
二つの鍵だと? まさか四緒双鍵章じゃあるまいな。そいつはサリミロの国章だ。言ってみりゃ宮廷の紋章だぞ。何だってこんな辺境の、邪法薬師の女がそんな手紙を持ってる?
「それはそれは……。君の師匠は、随分と高貴な御方とお付き合いがあったと見える」
「え? そうなんですか?」
驚いて顔を上げる彼に、親方は深く頷いて見せる。
「二つの鍵は宮廷の紋章だよ。金色という事は、お相手は巫女か女官だね。残念ながら想い人では無さそうだ」
蓮火幇と殿上人……この二者の関係は、どこかでも目にしたことがあった筈。
ふと思い立って補助脳のキャッシュを手繰ると、フィンデール郊外での記憶に辿り着いた。ディエシーが早馬の使者から奪った密書の宛先がそれだ。
ヴィスロ枢機卿といい、今回の件といい、あいつら一体宮廷のどの辺りまで食い込んでやがるんだ?
「色々と面白い話を有難う。お礼に部屋を一つ用意しよう。事が片付くまでゆっくりして行くといい」
親方の申し出に、彼は「有難う御座います」と顔を輝かせると、ロナとベルの顔を交互に見上げて緩んだ頬を染め、えへへと嬉しそうに笑った。