また数日が経ち、今日も朝からリルの訓練を見ていた。
あの時は全くの杞憂で終わったが、我が家の領域まで侵入した者がいる、という事実は、そう簡単に捨て置けない。
あれから改めて調査したものの……。
しかし、全ては空振りは空振りに終わり、どう考えても、外からの侵入があったとは思えなかった。
この森に侵入者がいた場合、その境界線を跨いだ時点で、警報が届く仕組みになっている。
それは他人に聞こえる音ではないが、鳴子と同じ作用で、魔法陣を踏む事でマナを揺らし、その揺らぎで判別を付けられるのだ。
そうして、その鳴子は森の至る所に仕掛けられている。
風景と完全に同化しているし、紐で足を引っ掛ける様な原始的作りでもない上、その場所を通過しただけで作動する。
これらの位置を完璧に見抜き、また回避できる者がいるとは思えない。
実際に幾つか罠の地点を見て回ったが、無力化したものは発見出来ず……。
更に幾つかある、他の警報装置すら作動していないのを見て、お手上げ状態で途方に暮れてしまった。
仕方がないので、腹を据えてそういうものと割り切り、今はリルとなるべく離れないようにしている。
精霊達が帰って来るまで、あと数日――。
それまで警戒を厳にすれば良いだけだ。
彼らが帰って来さえすれば、私よりも頼りになる警戒網が出来上がり、自動的に彼らが発見してくれる。
「よぉーしっ、やるぞぉ〜っ!」
私は裏庭で、今日もやる気に満ち溢れているリルを見つめた。
新しい学びと、新しく体得できる技術が待ち切れない、という様子だった。
いま教えているのは基礎の基礎だが、それら全てリルにとって新鮮なものだ。
伸び悩みとは無関係の時期だし、だから全てが楽しいのだろう。
「さて、リル。今日はマナ訓練を行う」
「でも……、いつもなら、けんのれんしゅうだよ?」
これまでずっと午前中、朝食後の訓練は剣術と決まっていた。
だから疑問に思って当然だが、これは剣にも通ずるし、その時間を潰しても体得する意味がある。
「これは剣術……、あるいは体術にも使える技術だからね。剣術の時間にやるのは、あながち間違いじゃない」
「そうなんだ」
「今日教えるのは、マナの使い方、その第一歩だ」
「うわぁ……っ!」
とうとう魔法が使えそうと分かって、リルは先程よりも増して瞳を輝かせた。
しかし残念ながら、これを教えるだけで使えるようにはならない。
「リルは自分の身体の中心……もっと言えば、重さの中心がどこか、考えた事はあるかい?」
「ないっ!」
リルは大変よい笑顔で即答した。
そして、子どもなど普通そういうものだろう、と思うので、笑みを浮かべて質問を投げ掛けた。
「じゃあ、どこだと思う?」
「んぅ……、おへそ?」
実際に自分のお腹に目を向けてから、伺うように上目遣いに言う。
「おっと、惜しい。そこより少し下、骨盤の上辺り……って言っても分からないな」
笑い掛けながら、実際に指先を二本立てて、その場所にあてがった。
「ここが重心だよ。身長の丁度半分、と考えたらリルのも間違いじゃないけど、重要なのは上下のバランスだ」
だから男性と女性でも、微妙に重心の位置は違う。
女性の場合、骨盤がより大きいので、より下方に位置するのだ。
リルは感心したように頷き、それからこてん、と首を傾げた。
「そうなんだぁ……。でも、それがなんなの?」
「重心を意識して立ち回るのは、剣術、武術共に重要な事なんだよ。そして、マナを扱う際には、その重心に力を込めるのが重要になる。ここを自在に扱えることが、魔法を使うにはとっても大事なんだ」
「んぅ……。でも、よくわかんない……」
「その位置を普通に掴もうと思ったら、非常に難しい。とても感覚的な事だからね。指で触っても、いまいち実感沸かないだろう?」
先程あてがった指先を、少し強めにお腹を撫でる。
それでもやはり、リルは首を傾げたままだ。
私が言うからにはそうなんだろう、と理解はしても、だから重心に体重を乗せたり出来るかは、全く別の問題だった。
「まずは重心に体重を乗せる、簡単な方法を教えよう。それが出来たら、どんどん意識できるようになる」
「うん、おしえておしえて!」
やっといつもの感じになって来た、と言わんばかりの表情で、リルは再び期待の表情を浮かべる。
「まずは正座してみなさい」
「せーざって……、これ?」
リルは記憶を掘り返す様に首を傾け、その場に膝を畳んで座る。
私は満足気に頷いて、膝が触れる程の近くで同様に座った。
「今からリルを押すから、倒れないように抵抗するんだ」
そう言って重心近く、鼠径部の辺りに手を添えて、後ろへ力を加える。
子どもと大人では当然力が違うし、体重差もある。
私もそれを理解して、無理なく抵抗可能な力で押したのだが、リルはあっさりと後ろに転がった。
「倒れたな」
「あたりまえだよっ! お母さんに、かてるわけないもん!」
「ところが、そうじゃないんだな。……これから、同じ動きで真似してみなさい」
リルが起き上がるのを待ってから、私は少し後ろに下がる。
そして、背筋を伸ばすと手を地面について、そのまま頭を下げた。
ゆっくり三秒、同じ態勢を維持してから、やはり背筋を意識して顔を上げる。
その先では、リルが不思議そうな顔をして待ち構えていたが、私が催促すると見様見真似に始めた。
「もう少し背筋を立てて、顎を下げる。背中から腰まで、一本の棒が入っていると思いなさい。……そう、その体勢のまま。……うん、いいぞ」
最初はぎこちなかった動きも、一つの動作を見せる度矯正してやれば、すぐに良くなった。
やはりリルは、色々な部分で筋が良い。
一度言ってやれば、大抵のことはすぐに飲み込んで、それを自分の糧に出来る。
――うちの子、天才かもしれん!
「正しい礼式の方法は分かったね。じゃあ、次にそれを、三回続けてやってご覧」
「さんかい? どうして?」
「やってみると分かる」
釈然としないまでも、私が嘘をつくとは思っていないので、言われたままに三回、同じ動きをなぞる。
地面に付いた手の間に、頭を置くようにして下げて、しっかり三秒維持。
そして、背筋を伸ばしたまま、元の体勢に戻る。
それを三回繰り返し終わったわけだが、リルの顔には困惑した表情が浮かんでいる。
「やってみたけど……、よくわかんない」
「どれ……」
私は先程同様、リルの鼠径部に手を添えて、やはり先程と同じ力加減で後ろに押した。
しかし今度は転がらず、正座したままビクリともしない。
リルは驚いて顔を上げる。
「どうして!?」
「重心がしっかり、下に降りているからさ。言っておくけど、お母さんは力加減を全く変えてないからね」
「うん……。でも、へん! ふしぎ……!」
「リル、それが――その状態が、重心が下がった状態、とよく覚えておくんだ。忘れたら、同じ様に礼式を繰り返しなさい。三度繰り返せば、自然とそうした位置に直る」
リルはまるで魔法を見ているかのように、自分の身に起こった事を、他人事のように見ていた。
私は立ち上がるように指示して、その手に訓練用の木剣を持たせる。
そして、私もまた木剣を持って、剣先を軽く合わせた。
「いいかい、リル。今から強めに打ち付ける。剣を水平に持って、これを防ぐんだ。正面から叩くから、一歩もその場から動かないように」
「……は、はいっ!」
返事をするなり、指示通り木剣を構える。
私がそれに打ち付けると、リルは受け止めきれずに、後ろに一歩よろめいた。
「下がっちゃ駄目だ」
「でも、お母さんの……おもいもん」
「さっきと同じようにするんだよ。いつもみたいじゃなく、重心を降ろして受け止めるんだ。――さ、もう一度」
リルは元の位置に戻って、同じ様に剣を構える。
しかし先程と違うのは、背筋を伸ばし、足を踏み変え、重心をしっかり意識した立ち方になっている所だ。
準備が出来た所へ私が打ち付けると、今度はしごく簡単に受け止めた。
当然、力の入れ方は変えていない。
先程と同じだけ力を込め、同じ角度で打ち付けたのだ。
リルはその状況を理解できず、興奮気味に口を開く。
「すごい、どうやったの!?」
「やったのはリルだよ。攻撃を受ける時、そして攻撃を仕掛ける時、重心の位置を変えるのは大事なことだ。避ける時は重心を上に、しかし受け止める時は下に……。そうした使い方が出来るようになると、リルはとっても強くなれる」
「まほーつかってないのに、まほーみたい!」
「実際、その初歩の段階だ。マナを扱うには、その重心に意識を向けることから始まる。……そう言ったろう? リルはその最初の一歩を踏んで、二歩目に行こうとしているんだ」
「じゃあ、もうつかえる? ひょいって、ものをうごかせる!?」
「それはもう少し、先のことかな」
私が視線を外に向けながら答えると、リルは唇を突き出して、不満そうに表情を変えた。
その頬を両手で包む様に触れると、むにむにと動かして笑う。
「最初の一歩が、いつだって難しいんだ。リルはその一歩を終えたから、もうすぐ使えるようになるよ」
「うんっ!」
「そろそろ、精霊達も帰って来る頃だ。盛大に迎えてやろう」
これにもリルは元気よく応え、その後も重心を覚え込もうと訓練は続いた。
今日の日差しは高く、風も温かい。
春はもう目前へと迫っていた。