「いい、リル? 今から言う言葉を、間違わずに繰り返して」
「う、うん……っ」
精霊の雰囲気にあてられて、リルは緊張を滲ませた声で応える。
リルと風精霊の身長差は、精霊の方が頭一つ分は大きい。
だから自然と見上げる形になり、それが緊張度合いが高く見える原因ともなっていた。
この時にあって、私がやれることは何も無い。
不安そうな視線を向けたリルに、大丈夫、と励ますように頷き返してやるだけだ。
リルはそれだけで不安げな表情は直らなかったが、勇気付けられはしたようだ。
前へ向き直り、唇を引き絞って精霊の言葉を待つ。
そうして、ややしばらく待つと、精霊とリルを中心に、マナが集約していくのが感じられた。
お互いに接触した部分から、血管にも似た文様が発生し、それが肘まで伸びていく。
いよいよ契約の儀が始まるのだ。
そうして、風精霊が呟くように、謳うように、軽やかな言葉を落とした。
「我、精霊に願い奉る……」
「われ、せーれーに、ねがいた……て、まつる」
慣れない言葉に、リルの口調は随分たどたどしい。
本来ならこの時点で、契約の要項を満たさないとされる所だが、構わずそのまま続けられた。
二人を中心として渦巻くマナが、魔法陣を形成し始める。
どの精霊に対し、どういう魔法陣を敷くか、その為には最低でも三年の勉強と、実行できるだけの技術が必要だ。
魔法陣の部分は丸暗記だかから、そう難しいことはない。
問題は、それをマナだけで形成する技術の方だ。
マナを利用し、活用して何かを為すのは基礎的技術とはいえ、魔法陣の形成はセンスが要る。
特に陣は真円を描く必要がある為、出来ない人はその習熟に相当苦労する部類だ。
それを全部、精霊が主導して行ってくれるのだから、羨ましい限りだった。
もしもこれを見る魔術士がいたら、卑怯だ、ズルだ、と非難する者がいてもおかしくない。
「我が目は御身の目……、我が耳は御身の耳……」
「わがめは、おんみのめ……」
契約の儀式は続く。
本来はこの祝詞を唱えながら、互いのマナを同調させる工程をせねばならない。
この時、精霊は術者の力量を試す。
無理にマナを乱し、簡単に補足させない様にする。
これを御し、自らと精霊と征する力があると示すのだ。
魔法陣の作成で疲れていれば、それに抗うことが出来ず、当然この時点で脱落だ。
精霊と契約する力量なし、と見做されて、そっぽを向かれる。
その上、昨今の精霊はマナ溜まりを奪われている蛮行に腹を立て、素直に契約を結ぼうとしない部分があった。
敵意を剥き出しにする精霊を抑え込むのは、並大抵の苦労ではなく、かといって複数人に協力して貰ことなど出来ない。
モラルの問題などもあるが、本当の理由は余計に苦労してしまう部分にある。
マナの同調は一人でやる方がずっと楽で、複数人で行うのは、右へ左へ引っ張り回されるのと変わらないからだ。
今のリルは、ただ身体を預け、精霊が合わせてくれるのを待つだけで良い。
これもまた、精霊と契約をしたい者からすると、歯噛みして嫉妬する場面だろう。
つらつらと私が考えている間にも、儀式は進行していく。
そして今、その契約が完了しようとしていた。
リルが最後の祝詞を復唱する。
「わがみと、なんじに、さかえあり……」
「――契約は完了せり。盟約に基づき、風精霊は力の譲渡、契約者の保護を違えることなく遵守するものなり」
風精霊がそう言って結ぶと、一陣の風が足元から吹き抜けて行った。
特別強い風でもなかったので、リルも前髪が少し揺れた程度だ。
頭の帽子は脱げ落ちてもいない。
契約が終わったリルは、どっと疲れた表情で息を吐き、その場に崩れそうになった。
私は咄嗟にリルを抱き留め、胸の内に抱える。
「お疲れ様、リル。頑張ったな、偉かったぞ」
「ほんと? リル、えらい?」
その全てを精霊主導で行ってくれたとはいえ、未だマナ運用について、素人同然のリルだ。
自身に内在するマナを引っ掻き回された様なもので、疲れるのは当然な上、下手をすると昏倒していてもおかしくなかった。
私はリルの乱れた前髪を直してやりながら、笑みを深めて頷く。
「あぁ、偉いとも。それにしても、目と耳を捧げるとはね……」
「おめめ……?」
自分が口にした祝詞とはいえ、それがどういう意味か理解していないのは、ある意味で当然だ。
リルにとっては、暗号も同然の内容だったろう。
そして、それは言葉通りに捧げて喪った、という意味ではなく、精霊と
「リルが見たり、聞いたりしたことは、風精霊にも伝わる、という事さ。そして、それは逆のことも言える。お互いに見るもの、聞いたものが分かる。ここまで精霊側が差し出して来るのは、凄いことなんだぞ」
そして、それ故に、リルは想定以上に疲労困憊している、とも言える。
私がリルの頭を撫でていると、風精霊が割って入ってリルの手を取った。
「これでリルは、私の契約者よ。私の初めての! 私の唯一の!」
「まぁ……、中位精霊になったばかりなら、別に普通のことだと思うけどな……」
「余計な水を差さないでちょうだい!」
キッと睨み付けて眉間にシワを寄せ、それから打って変わった表情でリルへ顔を向ける。
「私の名前、グラシキナナって言うの。呼んでみて」
「ぐらしゅ、き……なな?」
「グラシ、ね。……シ。シュ、じゃなくて」
「ぐらっしー、きーなな」
「惜しいっ! もっとコンパクトに」
「長いんだから、ナナでいいだろ」
私がにべもなく言うと、風精霊ことグラシキナナは固まった。
次いで、親の仇でも見る様な表情で睨み付けてくる。
だが私は、それを涼しい表情で受け流した。
精霊に限った話ではないが、その超常的存在というのは、己の名に拘る。
誇りと尊厳を持つ、と言い換えても良かった。
だが、二人で名前の言い合いするのは、微笑ましい光景ではあるものの、日常的に呼ぶには不便な長さだ。
リルもつっかえてばかりで上手く言えず、だから私の案にすぐ乗ってきた。
「いい、ナナ! ナナね、ナナ!」
「いや、駄目よリル。私にはれっきとした……」
「ねぇ、ナナ! いいでしょ、ナナがいいよ!」
「いや、いいとか悪いとかじゃないのよ、リル。精霊にはね……」
「まぁ、いいじゃないか」
グラシキナナは尚も改めようと努力したが、それは少し難しい。
何しろ、リルだけでなく人間にとっても、その名前は耳慣れない音だ。
覚えづらく、何より言いづらい。
だから単純な方がリルには言い易いし、何より利点もある。
「精霊は基本的に、契約者以外にその名を知られるの、嫌がるものだろう? そしてリルは正直……ポロッ、と口にするのは避けられないと思う」
賢明な契約者なら、そもそも名を日常的に呼ばない。
単に精霊名を口にするだけだ。
しかし、新しい友達だと思っているリルに、そうした機微は不可能だし、グラシキナナも端から求めてはいまい。
それならば、最初から仇名めいたものを使って、呼び合いしている方がずっと楽だ。
そしてその方が、よほど間違いも起こらない。
「まぁ、そうかもしれないけど……」
「ねぇ、ナナ! いいでしょ、かわいいよ!」
「かわいいけど……。でも、ちゃんと真名も覚えておいてよ! 知らないなんてイヤだからね!」
「うんっ! だいじょぶ、ちゃんとおぼえる! ぐらす〜……、えぇと?」
「さっそく間違ってるじゃないの! いいこと? グラシ……」
二人の遣り取りは、最早仲睦まじい姉妹のようにも見える。
外見が全く似ていないから、間違われる事こそないだろうが、声だけ聞いているとふとした際に勘違いしてしまいそうだ。
口調も今のものが素なのか、最初に感じた実直さは鳴りを潜め、多少居丈高に見える。
ただし、外見年齢が幼いのも相まって、背伸びしているようにしか見えないから微笑ましいばかりだった。
「それはともかく……、リルはもう自分の足で立てる?」
「んぅ……、だいじょぶそう」
私の腕の中で身体を捻り、足を動かす。
そうすると、止める間もなく自分から落ちて、上手に着地した。
「だいじょぶだった!」
「そういうのは、落ちてから確かめるものじゃありません」
お説教を始めようとすると、リルはナナの手を取って、逃げ出すように走り去る。
「ほら、いこっ!」
「あ、ちょっと……!」
口では非難めいた事を口にしつつ、その顔は笑みで溢れている。
私はその後ろ姿を苦笑して見送り、それから精霊王へと振り返った。
「慌ただしくして申し訳ない。リルにも、後でしっかりと礼をさせるよ」
「いや、そなたから受ける分で十分だ。……それに、そろそろ辞去するつもりだ」
「おや……、もう少しゆっくりしても……。簡単だが、もてなしもするぞ」
「申し出は有り難いが、くれぐれも長居しようないよう、后に言い含められているのでな……」
精霊王は、どうやら妻に頭が上がらないらしい。
そして、この地は潤沢なマナに溢れているとしても、精霊王を維持するとなれば、そのリソースを多く使用してしまう。
それを案じての内容に違いなかった。
「では、またの機会に改めよう。奥方様によろしくお伝えしてくれ」
「うむ、そなたの菓子はどれも絶品だと、あれも喜んでいた。礼を言ってくれ、と頼まれいたのを忘れていた」
「光栄の至り。また近い内に持たせるよ」
演技掛かった仕草で礼をすると、精霊王も顎を下げる程度の返礼をして、踵を返した。
そうして背後の揺らぎへ足を踏み入れ、姿を消す。
後には妖精たちの、賑やかな動きと笑い声だけが残っていた。