それから三日の間は、錬金薬の作業に掛り切りだった。
当然その間、リルとの接触は、朝の基礎体力作りがあるだけで、残りの時間は勉強時間に割り当てられた。
普通ならこうも長い間、リルを一人にしていたら泣き付いて来たものだが、今回はまた違う。
ナナと契約して正解だった、と改めて思ったのはこういう時だ。
守護精霊としての契約を結んでいるとはいえ、ナナは家族としてリルを面倒見ようとしてくれる。
勉学はリルにとって、決してマイナスにならないと分かっているから、勉強の監督にも手を抜かなかった。
むしろ、進んで課題を出してくれる程で、薬液を作り終わった後、その確認で目を通して驚きの方が勝った。
「リル……、もう三桁の計算、出来るようになったの?」
「なんかね、ナナができるって、うるさいから……」
「煩いじゃないでしょ」
ナナはリルの横で、両手を腰に当てて前屈みにリルを
「何でかキライって、苦手意識があったみたいだけど、地頭は悪くないんだから。ちゃんと理解出来てれば、出来ない方がおかしいのよ」
「二桁の計算が出来てたしな……。後は応用だから、繰り上がりさえ理解出来れば、二桁も三桁もそう変わらないけど……」
「リル、もう……、アタマがどうにかなっちゃいそう。けいさんなんて、もうヤッ! みたくないっ!」
「そんなこと言っちゃって……。後で私に感謝するようになるわよ」
「ならないもんっ!」
リルは可愛く頬を膨らませ、憤慨した様子で顔を背けた。
そんな顔をしても可愛いだけで微笑ましいばかりなのだが、そんな私の様子には全く気付かず、リルは助け舟を求める。
「ねぇ、もうけーさんはいいでしょ? リル、たくさんガンバったもん! それより、けんとかマナのほう、やりたい!」
「うぅん……? それじゃ、ご褒美に……」
「――まち!?」
直ぐさま食いついたリルに、微苦笑を浮かべながら首を振った。
「それは気が早すぎるよ。でも、ご褒美にハチミツをたっぷり塗り込んだ、リルの好きなクッキーでもあげようか」
「くっきー!」
直前の不満もどこへやら、クッキーを差し出してやれば、目を輝かせて食い付いた。
手に一枚取り出した物に、リルは文字通りに指ごと
「こらこら、お母さんの指まで食べないでおくれ。クッキーは逃げないから、ほら……」
クッキーを入れた包みをテーブルに置くと、リルはその包みを自分の前まで引っ張って、懐に隠そうとする。
非常に強い警戒心に、私は思わず苦笑した。
「そんな事しなくても、誰も取ったりしないよ」
「ううん、とるよ! スキをみせたら、やられるんだよっ!」
リルの態度は、まるで手負いの獣だ。
周囲に視線を慌ただしく向けては、威嚇するように唸りを上げた。
「おっ、いいもの食ってんじゃん。オレにも一つちょうだいよ」
「でたっ!」
リルが悲鳴を上げるのと、それが姿を見せたのは同時だった。
見ればテーブルの上、リルの教材が並んだ付近に、一匹の妖精が立っている。
これまで姿を消していて、匂いに釣られて姿を見せた、といったところだろう。
「だめっ! これ、リルの!」
「固いことは、言いっこなしさ。そのクッキー全部なんて言わないよ。一枚の、半分だけで良いんだ」
「んぅ……、半分だけ?」
「半分こっきり。……な、いいだろ?」
リルは疑わしい視線を向けつつ、それぐらいなら良いか、と気を緩めた。
固く握っていた包みの口を開き、一枚だけ取り出そうとする。
――そして、その瞬間だった。
「それ、今だ!」
それまで隠れていた妖精が、突然包みの中に入り込む。
一匹が入り込むと次々と殺到し、最早包みを閉じる所ではなくなってしまった。
「あぁっ!?」
そうこうしている内に、一枚、また一枚とクッキーが強奪され、空を飛んで妖精たちは逃げようとした。
リルは半泣きになって取り返そうと手を伸ばすが、俊敏な妖精はそう簡単に捕まらず、そればかりか複数の妖精が入り乱れて、一体のみを補足させない。
陽動と連携を巧みに利用した、見事な作戦だった。
手の届かない範囲まで逃げ切れば、後は易々と逃げ切れる。
――この場に私がいなければ。
「何やってるんだか……」
私は手を肩の高さまで掲げ、くるりと手首を捻って妖精たちを拘束する。
妖精の数は全部で五匹。
それらが一瞬で動きを止め、磁石で引っ張られる様にして一塊になると、私の手元まで引っ張られて来た。
「リルからクッキーを奪うな。お前らにだって、ちゃんと分けてやってるだろう?」
「あぁん……っ! リルのくっきぃぃぃ……!」
既にリルは半泣きで、鼻をずびずび言わせている。
私はハンカチを持ってその鼻に近付けると、軽く摘んで声を掛けた。
「ほら、チーン。取り返したから、もう泣かないの」
「ブピィィィ……!」
しっかり鼻を出して、すっきりさせたリルだが、その目元にはまだ涙が残っている。
妖精の握っているクッキーも取り上げたが、既に幾つも歯型が付いていた。
大きく損なった訳でもなく、その端を僅かに齧られただけに過ぎないが、一部とはいえ奪われたのは間違いない。
私はリルにクッキーを返しながら、魔術で拘束した妖精たちを睨みつける。
「どうして、こんな事をしたんだ。リルの様子を見ると、どうやらこれが初めてって訳でもなさそうだし……」
「何でってそりゃ……、リルと遊びたいからさ」
「単に取り上げただけならまだしも、歯型まで付けて……しっかり食べてるじゃないか」
「ん〜……、それを言われちゃ仕方がない。お菓子ってのは、奪って食べる方が何倍も美味しいのさ!」
開き直った妖精は、何故か自慢気な顔付きで、そう言い放った。
私は頭痛を堪える様に額へ手を付き、深々と溜め息をついた。
「……お前達、唐突に蛮族みたいな事やりだすよな。リルが可哀想だろうが」
「でも、リルの泣き顔って、定期的に見たくなるしさぁ」
……正直、分かる。
リルの泣き顔からしか、摂取できない栄養がある、と思える時さえあった。
しかし、困らせて嫌がらせしてまで見たいものではないし、その為に泣かせるものでもない。
「……何にしろ、嫌がらせは止めてくれ」
「嫌がらせじゃないよ! リルが大好きなだけだ!」
「例えそうだとしても、リルが嫌だと感じてたら、それはやっちゃ駄目な事だ。分けて欲しい時は素直にお願いして、駄目なら素直に諦めろ」
大体、お菓子を作る時は、同時に妖精の分もしっかり用意して作っている。
妖精の数が数だから、万全に行き渡らないとしても、だからリルから奪って良い理由にはならないのだ。
「うん、分かった。リルで遊ぶ時は、もっと気を付けるよ!」
「リル
拘束から解き放つと、妖精は三々五々に散って行く。
しかしその前に、リルの頬に口付けしたり、頭をわしゃわしゃと撫でたり、彼らなりの謝意を示すのは忘れなかった。
無事……とは言えないが、クッキーが手元に戻ったリルは、複雑な表情をしながら包みをテーブルに戻す。
それを横目で見つつ、私はナナヘ非難にも似た視線をぶつけて、問いかけた。
「お前が居ながら、どうして妖精に好き勝手させたんだ……」
「何て言うか……、私も止めようとは思ったのよ。でも、申し訳なさがあるというか……。後ろめたさがあるというか……」
「でも、リルを護る立場だろう?」
「そうなんだけど……」
決まりの悪い顔をして、リルの方を見つめる。
悲しげな顔付きで、歯型の付いたクッキーを前歯で削る様に食べる姿を見て、ナナは素直に頭を下げた。
「ごめんなさい……。でも、妖精たちも、悪気があった訳じゃないのよ?」
「それは分かってる。あいつらに悪意はなく、単に無邪気なだけだ。ただその無邪気ってのが、この場合問題だと言う話で……」
「あの子たち、リルの事が大好きなのよ。もっと触れ合いたいし、一緒に遊びたいと思ってる。うんと小さい頃から知ってるから、ようやく認知されるようになって、その喜びをどう表現しようか迷走してる感じなのよね」
「価値観が違うからな……。一種の愛情表現が、ただの迷惑でしかないのは良くある事か……」
「そう、それに私はその中で、最もリルと近しくなったから……。なんというか、裏切り者扱いというか、ね。……分かるでしょ?」
ナナの言わんとしている事は分かる。
だから、後ろめたさ、なのだろう。
誰も彼もがリルと遊びたいし、傍に居たいのに、その横を通り過ぎて一人で一番近くに居座っている。
無邪気な妖精でも――あるいは、だからこそ、ナナは後ろめたさを感じるのかもしれなかった。
「いずれにしても、愛情表現については、よくよく考えて貰うしかないだろう。後はリルと一緒にいられる機会を、もっと増やしてやるぐらいか」
「訓練している間は近付けないし、終わったらすぐに日も暮れるし、そうなったら会える時間が、もうないのも不満みたい」
妖精は夜は眠りに就くものだ。
夜間に活動を全くしないと言わないまでも、一種の花が陽光と共に花開き、日没と共に蕾に閉じるが如く、活動もそうした時間帯が基本だった。
「剣を振ってない時は近くに来て良いとか、もっと触れ合いの時間を増やせば、少しはマシになるかな……」
「あくまで少し、だと思うけど……。今回みたいな実害ある時は、今度こそしっかり守るから。貴女から厳命されたのもあるしね」
「是非そうしてくれ」
助けて欲しい時に助けてくれなければ、リルからの信用を失う。
それはどちらに取っても望ましくなかった。
そうして、未だ機嫌の良くならないリルの頭を撫でながら、私は明日のことに考えを向けていた。