「いいか? どっちが速いかのしょーぶだからな! こっから、あそこまで!」
そう言って指差した距離は、大体五十メートル程。
六歳が走るには少し遠い距離で、年の離れた彼と走るには、平等と言える距離ではない。
ただし、それは普通の六歳児にとっては、だ。
いつも我が家の畑周りを走っているリルにとっては、短すぎる距離だった。
「うん、いいよっ! まっすぐはしるの?」
「それ以外、何があるんだよ? ボレホの兄ちゃん、しっかり見ててくれよな!」
よくリルはアロガと共に、ジグザグに走ったりして、足腰を鍛えている。
それを踏まえて言ったのだろうが、彼にとっては、そんなもの想定の範囲外だろう。
「あのね、……なまえ! リルっていうの! よろしくね!」
走る準備の為、隣同士になったのをきっかけに、リルは礼儀正しく挨拶したのだが、返って来た答えは予想と違うものだった。
「へっ、今から子分の準備とは、カンシンじゃねぇか」
礼儀に対して、礼儀で返すという当然の事を、相手の男の子は知らないらしい。
あるいは、ガキ大将としての矜持がそうさせるのだろうか。
どちらにしても、教育不足だと判断せねばならなかった。
「……ねぇ、あなたのなまえは?」
「オレに勝ったら、おしえてやるよ。オヤブンの名前をしらないんじゃ、子分としてもカワイソウだからな」
「そっか、かてばいいんだ!」
男の子の悪意など全くの右から左で、リルは嬉しそうに頷く。
人の嫌な所を見て育たなかったからこそ、鈍感な態度になったのだろうが、それに男の子は気分を害していた。
「チッ! テカゲンしないからな!」
元よりそんなつもりはなかったろうに、良くも言う。
しかし、悪ガキとしては本来、そういったものだと思い直した。
自分勝手で、自分優位。
自分が一番でないと気が済まない。……大抵は、そういうものだ。
「準備いいか? そいじゃあ……、構え!」
ボレホの合図と共に、男の子は右肩を前にして腰を落とした。
対してリルは、剣術を習う時に見せる、正中線の構えを取った。
それで一瞬、空気が固まり、その場を沈黙が流れる。
私もまた手を額に当てて、小さく肩を落とした。
徒競走の構えなど教えてないので、リルとしては馴染みのあるものにしたのだろう。
もっと言うと、普段の稽古で構えと言われたら、あの型を取るよう躾けられているので、反射的なものだったかもしれない。
「……おい、なんだそれ」
「……んぅ? なにか、へん?」
「走るんだから、オカシイだろ。それで負けたなんて言うなよ。こうやるんだよ、こう!」
そう言いながら、片足を一歩踏み出し、腰を屈めて手本を見せる。
リルも見様見真似で形を取り、同一でなくとも、それらしい格好にはなった。
「お嬢さんは良く知らないみたいだな……。改めて説明すると、構えと言った後、始めの合図で走り出す。そんで、あの柱が突き出てる所まで、より速く到達した方の勝ちだ」
「わかった!」
「よぉーし、よし……。それじゃあ、……構え!」
元より格好は既に決まっていたので、互いにピクリと動いただけで、男の子は前を向く。
しかしリルは、勝負というより遊びとしか思っていないようで、男の子に顔を向けてニコニコと笑っていた。
「――始め!」
ボレホが言うと当時に手を振り下ろし、男の子が堰を切る様にして飛び出す。
リルは余所見していたのも手伝って、一拍遅れてそれに続いた。
男の子は言うだけあって、その年齡にしては速い方のようだ。
フォームが特別良いという事もなく、単なる走り自慢と言った感じだ。
手足を懸命に動かし、誰も自分の前を走らせない、と言わんばかりだったが――。
リルはその横を悠々と過ぎ去り、誰にも文句を言わせない大差を付けて勝利した。
「ぜぇ……、ウソだろ……! ぜぇ……!」
「かったー!」
リルは無邪気に飛び跳ね、手を振り回す。
流石は私の子だ。
ちょっとしたご近所自慢の小僧などに、走りで負けるはずがないのだ。
普段リルの相手をしているのは、冒険者すら逃げ出す魔獣
身体能力は言うに及ばず、そのアロガと普段から追いかけっこしているのだから、人間の子どもなど端から相手にならない。
「ねっ、かち! リルのかち!」
「いや、ちがう! 今のはホンキじゃなかった!」
「……おいおい、そりゃあ男らしくねぁな」
ボレホからも苦言が投げ掛けられたが、少年は無視して指を一本突き付ける。
「もう一回だ! 今度こそホンキだ!」
「んぅ……、べつにいいけど……」
熱くなっているのは本人だけで、子分にされている少年少女たちは白けたものだ。
また走っても同じ結果だと、見なくても分かるのだろう。
そして、実際――。
「ぜはぁ、ぜひゅー……」
地面に突っ伏して息を乱れさせる少年に、リルは余裕の勝利を見せていた。
体力と筋力も、リルには全く追い付いていない。
「かった! かった!」
少年はもしかすると、初めての敗北だったかもしれないが、そんな挫折を知りもせず、リルは無邪気なものだ。
しかし、少年は未だに諦めが悪かった。
「まだだ! 三本しょーぶ!」
「へ?」
「なぁ……、流石にそれは見苦し過ぎやしねぇか……」
勝敗の結果は明らかだ。
ボレホは所謂、はぐれ者には違いないが、だからこそ、ある種の男気がある。
真剣勝負をしたのに、負けを認めないのはみっともない。
それを諭そうとしたのだが、少年も負けっぱなしでいられないようだ。
「オヤブンと、子分を決める戦いだからな! そんなの一回や二回のショーブで決めらんないんだよ! オレが一番、得意なショーブで負けたら、子分にでも何でもなってやる!」
「それは良いがよぉ……」
ボレホは呆れた顔で頭を掻いていたが、一つ息を吐くと屈み込んで少年の肩を掴んだ。
「これで負けたら、ちゃあんと負けを認めないといけねぇよ? お前が持ち掛けた勝負だ。勝負事で自分の負けは認めないなんて、そんなの誰も認めねぇかんな?」
「わ……、わかってら!」
「なら、いい。すまねぇな、お嬢さん。これで最後だから、あと一回、付き合ってくださいや」
「ううん、いいよ! なんかいでも、あそぼっ!」
「へへっ……、こっちの方が大物だな」
ボレホは揶揄する様な視線を少年に向け、それで、と水を向ける。
「何の勝負するんだ?」
「オレが得意なのは隠れん坊だ! ゼッタイ見つからない自信あるね!」
「そりゃ……、ちょっとズルくねぇか。お前に有利すぎるだろ」
「ショーブするよな!?」
少年がリルに指を突き付けると、リルはあっさりと頷く。
「いいよ! リル、いっつもアロガに見つかっちゃうんだぁ。でもね、リルもさがすのとくいなんだから!」
「へっ、よくも知らないで、とんだオメデタちゃんだぜ!」
「お前もあんま、調子こいたこと言うな。負けたとき恥ずかしいぞ?」
「負けないね! ヒッショー法があるかんね!」
「言っとくが、馬車道より先に行くのはナシだ! この区画だけ、決められた範囲でのみ隠れるんだぞ!」
少年が当然、と言わんばかりに頷くと、自信満々の小憎たらしい笑みを浮かべた。
「分かってるって! ぜってぇー勝てる方法あるんだ!」
「卑怯なことしようってんじゃねぇだろうなぁ〜……。どうなってんだ、今時のガキは……」
「いいか、リル! オレが隠れてるから、その間に百を数えるんだぞ! 数えられなかったら、お前の負けだかんな!」
「うん、いいよ〜っ!」
リルはあっさり頷いたが、これに驚いたのは少年の方だ。
「えっ!? おまえ、百まで数えられんの!?」
「できるよ、お母さんにならったもん」
「うそだろ……」
まさか、百を数えられずに泣き出すとか、それで不戦敗を狙うとか、そんな事を考えてたのではないだろうか……。
そんな浅ましい勝利を得て自慢出来るのか、と思ったが、どうやら彼は本当にそれが狙いだったようだ。
ボレホからも、疑わしい視線が向けられる。
「おい、まさか……」
「いや、そんなのちょっとした小手調べさ! だったらさ……だったら、ヒッショーの隠れ場所があるもんね! ――ちゃんと数えろよ!」
そう言って、少年は一目散に駆け出した。
後にはやはり冷えた空気が漂ったが、リルはそれを全く読まずに数を数え始める。
「い〜ち、にぃ〜、さぁ〜ん……」
子どもらしい、少し間延びした数え方だ。
そうして危なげなく最後まで数え切ると、それを見守っていた子たちから拍手が上がった。
「ひゃ~く!」
「おぉ〜……!」
ボレホまで感心した顔付きで手を叩き、ちゃんと言えたリルに、他の子ども惜しみない拍手が送っている。
私も母として鼻が高い。
「じゃ、さがすよ〜っ!」
一声掛けて、リルは一直線に走り始めた。
そして、私には見ずとも、勝負の行方は既に分かっていた。
ナナからの助けがあるかどうか分からないが、どちらにしてもリルに捜し出せないということはないだろう。
嗅覚は人間より高い獣人だが、とはいえ獣よりは遥かに低い。
匂いを頼りに捜し切る、というのは非常に難しいが、代わりにリルには獣にも負けない勘の鋭さがある。
少し待っていれば、子ども特有の甲高い叫び声が聞こえ――。
リルに手を引っ張られながら、意気消沈して歩く少年の姿が見えてきた。