昼を過ぎた二時頃とは言え、春の森はまだ肌寒かった。
青々と茂る葉が陽光を遮り、十分な日光が届かない為だ。
だから森の中は、鬱蒼とした繁みで満たされ、どうしても薄暗かった。
その上、注意するという意味で見るべき点は数多あっても、見て楽しい場所ではない。
「うわぁ〜っ! ここが、もりなんだぁ……!」
しかし、リルの反応は感動や感激と言ったもので満たされていて、キョロキョロと見渡して忙しなかった。
アロガの背の上に跨がりながら、まるで跳ねる様に弾んで喜んでいる。
それも無理はない。
リルにとって、ボーダナンの森とは最も身近で、しかし最も遠ざけられた未知だった。
とうとうその森に踏み入る事が出来て、嬉しさを噛み締めている。
「ねぇ、お母さんっ! もりって、くらいんだね!」
「そうだよ。だから、よくよく注意しないといけない。今はアロガが勝手に除けてくれるけど、木の根で転ぶこともあるからね」
「おぉ〜……!」
リルはひょい、と顔を横に出し、下生えを掻き分けて進む地面を見る。
森の中に、道らしき道は存在しない。
あるとすれば獣道程度のものだが、それとて足元が顕になるほど、はっきりと開けた道にはなっていなかった。
だから、そこに木の根が張り出していても、上から見た程度では分からない。
足を取られずに歩くのは、実は結構ホネなのだ。
「それに、下生えを只の草だと思っていると、痛い目にも遭う」
「そうなの?」
「全てがそうじゃないけど、刃物の様に切れる、危ない草もあるからね。アロガは匂いで判別するから、そういった場所には踏み込まないけど、知らずに歩くとズタズタだ」
「やぁ〜……!」
リルはアロガの背中でうつ伏せになって、耳元に口を近付け、足元もチラチラと伺いながら言う。
「ホント? アロガは、だいじょうぶ? ケガしてない?」
「ウォウ!」
大丈夫、と返事するように顔を上げ、リルは安心して頷く。
それから首元をワシャワシャと撫で、満足してから身体を上げた。
「ホントに、キケンがいっぱいなんだ」
「そうとも。知らずに歩けば怪我をするのは、何処の森でも大体一緒だけど……ここは一層、危険って感じだな」
勿論、気を付けなければならないのは、天然の障害だけではない。
最も注意しなければならないのは、この森に棲む魔獣たちだ。
今も森の中は鳥の囀り、魔鳥の威嚇音などが頭上で鳴り響いているが、それに紛れる事なく、獣の雄叫びも聞こえてくる。
「なんか……、おこってるみたい。おうちで、たまにきこえてくるのと、ちょっとちがう……」
「そうだね。でも、怒ってるのとは、ちょっと違うな。不安で、恐ろしいから、遠くから威嚇してるんだよ」
「いかく……?」
「そう。これ以上近づくと容赦しない、何かしたら噛み付くぞ、っていう脅しだ」
「えぇ……っ!?」
リルは事更に怯えて、すぐ隣を歩く私の袖を握った。
私はそれに微笑んで、安心させようと、耳の裏側から畳む様に頭を撫でる。
「大丈夫、お母さんと一緒なら近付いたりして来ないよ。獣というのは、弱肉強食を良く理解しているから」
「そうなんだ……」
「でも逆を言うと、チャンスがあれば、喰らい付こうとするものだ。だからね、アロガから決して下りてはいけないよ」
「わかった……!」
リルは緊張した顔付きで頷き、次にアロガの頭から首筋に掛けて、強めに撫でながら話し掛ける。
「かってにお母さんから、はなれちゃダメよ。ちゃあんと、きをつけるのよ、アロガ」
「ウォウ!」
アロガは尻尾を振りながら、ちらりと横を向いて応えた。
言われるまでもなくアロガは理解しているのだが、リルを背中に乗せている今、強い使命感に燃えている。
いつもより集中しているのを感じられるが、その時私たち一行の傍へ、複数の妖精が飛んで来た。
「うわっ、めっずらし〜! リルがいる!」
「あっ、ホントだ! リルだ! ヤッホー、何してんの?」
妖精達はめいめいに飛び回り、リルの肩に乗ったり、あるいはアロガの頭に乗ったりと、好き勝手にやり始める。
妖精に苦手意識を植え付けられているリルだが、単純に気安く接してくる分には問題ない。
リラックスして休憩所代わりにする妖精達を見つめ、不思議そうに眉根を寄せた。
「もりって……、キケンじゃなかったの? どうしてみんな、もりにいるの?」
「キケン……って、何が?」
「危険な事なんてあるもんか。……なぁ、みんな?」
「そうそう!」
口々にそう言われて、リルは困った顔をしつつ、私に顔を向けてきた。
どちらかが嘘を言っているのか、お母さんだとは思いたくない、それでも……と言った表情だった。
しかし、この場合どちらも嘘を言っていないのだ。
「リル、妖精達にとっては、森は割と安全なんだ。魔獣だって、腹の足しにならないものを、わざわざ襲おうとしないから」
「……そうなの?」
「妖精はマナの集合体……というと語弊があるが、とにかく動物とかと、全く別の存在だから。噛み付いたところで、霧散してしまうのが関の山だ。だから、妖精にとって魔獣は全然、怖いと思う相手じゃないんだな」
「ほぇ〜……」
口をポカンと開けて、肩の上で自慢気に腕を組む妖精を見やる。
私はリルの頭を撫でながら、更に詳しく説明した。
「危険があるとするなら、マナを直接摂取するような魔物の場合だ。魔物は自然の摂理に反した存在も多くいて、血肉ではなく、マナを喰らうものもいるからね。しかし、そういう魔物は、この森から消えてしまった」
「どうして?」
「お母さんが狩り尽くしたから」
そういう魔物は、当たり前だが人間にとっても害のある存在だ。
魔獣の様に、敵わない相手には適切な距離を保とう、とする知恵もない。
温情で見逃してやろうと、変わらず襲い掛かってくるし、そんな魔物がいたのでは、リルを自由に遊ばせてやる事も出来なかった。
だから一匹残らず捜し出し、その全てを消滅させた。
「妖精にとって、ここで怖いと思えるのは人間くらいさ。あいつらは、妖精を捉える
「え〜……。やだっ、かわいそう!」
「そうだな」
時に妖精を嫌いといつつ、リルは今にも泣きそうな顔をする。
口ではあれこ言っても、その中では、しっかりと優しさが備わっていた。
「そういう不埒な輩にしても、安心しなさい。ここまでは入って来られないよ」
「そうそう! ここは妖精達にとっちゃ、すっげー安全な所なんだぜ!」
「そうなんだ!」
泣きそうな顔も一転、リルの機嫌もすぐに良くなる。
しかし、またすぐに不思議そうな顔付きになった。
「でも、どうしてココにいるの? いっつもはたけとか……、あとどっかブラブラとんでるのに」
「そりゃ、魔女の手伝いさ。採取したい物を探したり、拾える物は取って来てやったりとか……。まぁ、雑用をするのさ」
「こういうのは、目が多い方が早いだろ?」
「リル、はたけのおしごとだけかな、っておもってた」
「ばっか、違うよ。他にも色々やってんだよぉ〜」
「そうだな、お菓子のつまみ食いとか」
私が含み笑いに言うと、アロガの頭に乗る妖精に、リルは指を突き付けて言う。
「いけないんだ〜! リルだって、たまにしかやらないのに!」
「へっへっへ……! お菓子ってのはさ、つまみ食いがいっちばん美味しいんだ!」
悪びれる事なくそう言って、頭の後ろで手を組んだ。
それが気に食わなかった私は、指先で弾いて妖精を頭から落とす。
妖精は抗議するように私の周りを飛んだが、他の妖精に止められて、渋々ながら元に戻った。
「それより、そろそろ採取場の近くだぞ。探す準備をしてくれ」
「さいしゅじょー……? それって、どういうの? はたけ?」
「いいや、そういうキチっと整備された場所じゃないかな。でも、ここからもう見えるよ」
私が指を差して示した場所は、他と何も変わらぬ、鬱蒼と茂る森の中だった。
木々が乱立し、下生えも変わらず多く、足の踏み場らしきものもない。
リルはやっぱり、不思議そうに顔を傾げる。
「……どこ?」
「そこさ。他と見分けが付かないのも当然だけど、この見える範囲が採取場だ。仕切りも何もないけれど、ここには薬草や、薬効成分の高いキノコとか、色々と沢山生えているんだ」
「おぉ〜……!」
リルは首を大きく巡らせて、私が示した範囲を眺め見る。
私もリルから手を離し、腰のベルトに挟んでいた手袋を取り出すと、自分の手に嵌めた。
「これから採取を始めるから、リルは少し待ってなさい」