「リルの気持ちは分かるけど……」
どうにか穏便に、リルを傷付ける事なく断ろうと考えていた時、私はピクリと眉を顰めた。
何者かが、森の入口に設置してある、感知魔術に引っ掛かったのだ。
単純に、ある一定の範囲に入ったら報せるだけのものなので、危険性は一切ない。
だからこそ、索敵用の魔術にもまず察知されない、という特性を持っていた。
――誰かが森に踏み入っている。
それも複数の侵入者だ。
……数は四人。
近隣の住人が、誤って入り込んだとも思えなかった。
何しろ、これから日が暮れる。
夜の森は本当に何も見えず、殆ど暗闇に支配される。
そこは魔獣が支配する世界だ。
それがどれだけ危険な事か、村民でなくとも良く理解している常識だった。
まず、冒険者がやって来た、と考える方が自然だった。
「お母さん……?」
不意に言葉を止めた私を見て、リルが不思議そうに見返して来る。
私は無理にでも笑って、その頭を撫でた。
「何でもないよ」
「んぅ……。じゃあ、リルはいい? これからも、もりにいける?」
「それは……」
リルの期待を無下にするのは、本当に心苦しい。
しかし、駄目なものは駄目だと、しっかり線引するのも大事なことだ。
「いいかい、リル。今日は何ともなかったから、安全そうに見えたんだろうけど、いつもこうな訳じゃないんだ」
「でも……」
「そして、何か起きた時、お母さんが間に合わなかった時、一人でどうにか出来るようじゃないと、安心して森には入れられない」
「でも、でも……。アロガもいるよ。ナナだって……」
しかし、リルもそう簡単には食い下がらない。
どうにか説き伏せようとしたいのは分かるが、リル個人が実力不足なのは、紛れもない事実だ。
「勿論、アロガとナナは、いつもリルの傍を離れないだろう。でも、だからリルが何も出来なくて良い、って理由にはならない。自分の身は自分で守る。森の中ではね、それが出来て初めて一人前なんだ」
そして、一人前にならないまま、森に入って起こるのは、痛ましい事故だ。
「何に触れて良いか、何に近付くべきでないのか、そういうのは少しずつしか身に付けられないんだ。ゆっくりと、お母さんと一緒に学んで行こう。それで大丈夫と思ったら、必ず森に連れて行くから……」
「んぅ……。でも、でも……」
珍しく、リルは聞き分けが悪い。
実際に森に入って、予想以上に危険が少なく見え、だから実感しづらいのかもしれない。
妖精が飛び交い、採取の手伝いをして貰っている様子は、家の畑仕事と変わらないようにも見えたろう。
しかし、実際には危険と常に紙一重だった。
それを教えるには、一体どうしたら良いだろう。
まさか実際に、魔獣の襲撃を待つ訳にはいかないし、教育の為とはいえ、そんな危険な目には遭わせられない。
どうしたものかと考えていると、リルは指先をもじもじさせて、上目遣いに言ってきた。
「リル、お母さんと、もっといっしょにいたい……」
「あぁ……」
私はリルを抱き締めて、その背を優しく撫でながら、その頭に頬を当てる。
寂しい思いをさせているのは分かっていた。
だから、今回の同行を許したようなものだ。
それを分かっていたのに、そんな言葉を言わせてしまって、後悔と申し訳なさが胸から込み上げた。
「お母さんはリルが大事だよ。リルが一番、大事なんだ。離れたくないのはお母さんも一緒だけど、本当に森は危険なんだよ」
「でも、さびしいよ。もっとお母さんと、いっしょがいい……っ」
そうは言っても、生きる為には仕方のないことだ。
リルの世話ばかりしていては、食うに困ってしまう。
どうあっても、リルとの時間を削って、仕事に精を出さねばならないのだ。
「分かっておくれ、リルの事を愛しているからだよ……」
「うぅっ……、んやぁ〜……!」
仕舞いにリルは、ぐずぐずと泣き始めてしまった。
相変わらず泣き虫で、私に縋り付いて離そうとしない。
助けを求めてナナを見るも、これは完全に無視された。
というより、家族の問題に口を挟むつもりはない、というスタンスからだった。
アロガは言わずもがな、リルの完全な味方だし、リルを悲しませている事に憤慨している様子でもある。
森に侵入した冒険者の対処もあるし、一度に幾つも問題が発生して、私はほとほと参ってしまった。
「でもね、リル……。リルは学校に行きたいんだろう? 学校に行くと、お母さんとも離れ離れの時間が増えるんだよ。一緒でいない事にも慣れないと……」
「じゃあ、いい! がっこう、いかない!」
「……困った子だ」
私はリルを抱き締めるだけではなく、アロガの背から抱き上げて、泣きじゃくるリルをあやす。
リルもまた、ぎゅうぎゅうと抱き締める力が強まり、決して離さないと行動で示しているかの様だった。
仕方なく、そうして抱いたまま帰路につく。
我が家に近いほど魔獣からの危険も減るから、帰路については危険らしい危険もない。
もしあるとすれば、それは遠方の、今まさに森に侵入した何者か、だった。
彼らを潰すには初動が肝心だ。
今回の相手は、恐らく冒険者ではないだろう。
夜の森の危険を知らず、挑んで来る者などまずいない。
採取を目的で入って来る訳だから、明かりがなければどうにもならないからだ。
――目的は別にある。
すぐにでも処理に向かいたいが、リルは離そうとしてくれない。
必死に宥めてみてもリルは頑なで、まったく話を聞いてくれなかった。
「リル、そんなに締め付けなくても、お母さんは離れたりしないから……」
「やっ……! いっしょに、いっしょにいて〜っ……!」
家に着く頃には涙も止まっていたが、態度は相変わらずだった。
お風呂に入れてやりたいのに、服を脱ごうにも離れようとしない始末だ。
「今日は一段と甘えん坊なんだな。お母さんは、リルから離れたりしないよ。リルの為にお金が必要なだけなんだ」
「うぅ〜……! うぅ……っ!」
親の気持ちや真心は、子どもからは見えづらいものだ。
子どもにとって大事なのは今日で、しかし親は明日以降を考えなければ、今日すら見えない。
見ている地点が違うので、どうしても意識の疎通に齟齬が起きる。
こればかりは、どうしようもない。
「ほら、リル。泣いてばかりで疲れたろう? 顔もぐしゃぐしゃだ。綺麗に洗って、スッキリしような」
「んぅ……」
ここまで来ると、流石に抵抗も僅かなもので、服を脱がされるのもなすがままだ。
そうして身体を洗って、一緒にお風呂で温まっていると、それまで言葉少なかったリルから謝られた。
「お母さん、ごめんなさい……」
「別に怒ってないよ。リルは寂しかっただけだ。寂しい思いをさせてしまった、お母さんも悪い」
「でもね、お母さんといたいのは、ホント……」
ちゃぷちゃぷと、顔の前でお湯を動かしながら、申し訳なさそうに言う。
「うん、分かってるよ。学校はどうする?」
「……わかんない」
もしかすると、学校に行くことの意味や、通うことになる生活を、実際に想像できなかったのではないだろうか。
街に行って、学校に通うという言葉だけを理解していて、そうなる生活の成り行きまでは分からなかったのかも……。
これまで勉強といえば、私が傍に居る前提の事だった。
すぐ隣で見守ることばかりではなかったが、それでも呼べば駆け付ける距離にはいたのだ。
リルが考える学校というのも、それと同じものだと考えていた可能性はある。
というより、森での生活を基準としてしか、ものを考えられないのだ。
それ以外の世界を知らないリルには、そこから飛躍する発想など生まれようもない。
学校という物が何か知っている私と、まったく未知なリルとの齟齬、それが理由の間違いでもあった。
――これは私も、反省しないといけない所だな。
見た事もないものを、リルに――リルに限らず――分かるはずがないのだ。
只さえ、ナナに任せ切りでリルを不安にさせていたのに、それに輪を掛ける様な不安を与えてしまった……それが今回の癇癪に繋がったのかもしれない。
「学校にお母さんは居ないけど、代わりに友達はいる。きっと楽しいぞ」
「……でも、なんかこわい。さびしい……」
「最初はそういうものさ。誰だって、新しい何かを始める時は、怖いものなんだ」
「……お母さんも?」
「そうとも」
そこに例外はない。
特に挑戦する様な事、初めてする事には臆病になる。
私がリルを育てると決めた時も、そうだった。
お湯から肩を出しているリルを少し押し、しっかりとお湯に浸からせつつ、その存在を感じ取る。
今こうして一緒にお風呂に入っている事そのものが、臆病と挑戦の先に得たものだった。
「そっか、お母さんでも、こわいんだ……」
何が可笑しいのか、リルはくすくすと笑い出す。
だがとにかく、ようやく機嫌が直った事の方が大事で、私はようやく安堵してお湯に浸かった。