「お母さん、まちにはいついくの? あした?」
「流石に、明日は無理だな」
その日の夜、ベッドの中に入っても、リルは中々眠ろうとしなかった。
今から行くのが楽しみで、居ても立ってもいられない様子だ。
「そもそも、遊びに行く訳じゃなくて、ジャムや水薬を売って、代わりに必要な物を買いに行くんだから……」
そう聞かされても、リルの興奮は止まらない。
それもその筈、リルは今まで街に入った事が、一度もなかった。
これまで連れて行かなかった理由は、街もまた、森とは違う意味で危険だから、というのが大きい。
だが、五歳ともなればもう少し知見を広げても良い頃だし、森以外にも世の中がある、と教える良い機会でもあった。
この家は基本的に、森の生活だけで完結するようにしているが、足りない物はどうしたって出て来る。
そうした物を買い足さなければ、ままならないのも事実だった。
今も布団の中ではしゃぐリルを見て思う。
――リルはいずれ、森を出て暮らすだろう。
外の世界は魅力的に映るだろうし、好奇心旺盛なリルは、きっともっと多くの物を見たいと思う筈だ。
その時の為に、森以外の常識を教えてやりたい。
――ただし……。
今も興奮醒めやらず、布団を被っても眠る気配のないリルの、お腹辺りをポンポンと叩く。
ただし、現状リルが知る街とは、私から伝え聞く内容だけだ。
私も年に数回行くだけだが、その度に話をせがまれ、当たり障りのない内容だけを話していた。
街には珍しい物が溢れ、多くの人がいる。
人だけでなく建物や店もあり、いつも何かが起きている――。
そうした表面上の事を聞いて、いつの間にやらリルの中では理想が肥大化して、街は楽しい所、という認識が出来上がっていた。
刺激的な場所には違いないが、その刺激は良い方向にばかり傾かない。
そうした現実を、リルは今回、知る事にもなるだろう。
リルは天井に向けていた顔を身体ごと向け、顔を近付けて訊いてくる。
「ねぇねぇ、まちって大きいんでしょ? おみせには、なにがあるの?」
「色々だよ。本当に色々……、口で言い切れないくらいだ。全て挙げていたら、朝になってしまうよ」
「いくのは、あしたじゃないの? じゃあ、そのつぎのひ?」
「いつだろうな……。獲物が取れたら、かな……」
時間を無駄にしない為にも、順番が問題になる。
そして獲物はいつだって簡単に得られないから、どうしたってそれ次第になるのだ。
「アロガ、あしたはガンバらないとダメよ。ちゃんと森で、しっかりはたらくの。いい?」
アロガは既にベッドの下で丸くなっている。
返事がない所を見ると、無視を決め込んだか、本当に寝ているかのどちらかだろう。
アロガのやる気のなさに、リルは自分勝手に憤慨した。
身体を乗り出してベッド下を覗き込もうとした所で、その肩を掴まえて寝かせる。
そうして布団を首元まで引き上げると、胸の辺りを軽く叩いて言った。
「ほら、そろそろ寝なさい」
「ねぇ、おはなし、ききたい」
「お話……? 街の?」
「うぅん、なんでもいい」
何でも、というのが一番困る。
料理でも、遊びでも、寝物語にしても、それは共通する事項だ。
「……そうだな。じゃあ、こういうのにしよう。昔々、あるところに……」
室内には蝋燭代わりの魔力光が一つ、ベッドのサイドテーブルの上で、淡い光を灯している。
リルのお腹をゆっくりと、リズミカルに叩きながら、寝息が聞こえるようになるまで、寝物語を続けた。
※※※
明くる日のこと――。
朝起きてから……そして、朝食が済んでからも、リルの熱意は漲ったままだった。
何かに付けアロガに纏わり付き、今日はしっかりするのよ、と言い聞かせている。
アロガは普段と違うリルの剣幕に弱りきっており、時折こちらへ助けを求める視線を飛ばしていた。
私はそれに生暖かい視線を返して、今だけ耐えろ、と声に出さず言う。
それが通じた訳ではないだろうが、アロガは顔を伏せて前足で目を塞いでしまった。
実に人間臭い態度を見せられ、ひとしきり笑った後、出発の準備をする。
普段着と違って皮のパンツを穿き、ブーツも山歩きに適した頑丈なものを選ぶ。
上半身も丈夫な合皮製の革鎧で、この森の魔獣を狩って作った物だ。
腰にはベルトを巻き、そこに解体用の鉱石を削ったナイフを装着する。
武器としてはそれだけで、他には弓も剣も持たなかった。
獣は鉄の匂いに敏感なので、寸鉄はなるべく帯びない方が良い。
それに、何しろ今日の主役はアロガなのだ。
単なる練習で済ませるつもりがないのは、私もリルと同じ気持ちだった。
アロガの狩りを邪魔しない為にも、なるべく軽装な方が良い。
身の危険が迫ろうと、私の場合は武器がなくても何とでもなるから、これぐらい身軽な方が良かった。
全ての準備が万端整うと、ベルトと巻き具合を調整して、最後にその上からポンと叩く。
髪も上部で纏めて螺旋状に巻き、動きの邪魔にならないようにした。
装備している最中の一部始終を見ていたリルは、小さな手をギュッと握って何度も頷く。
「お母さん、かっこいい!」
「ありがとう、リル。それじゃあ、良い子で家の中にいること。今日だけは外に出ないように」
「わかった!」
元気よく返事したが、それだけで信用するには、リルは元気が良すぎる。
台所方面へ顔を向け、困った様に笑ってから、そちらの方にもお願いした。
「リルが外に出ないよう、よく見張っておいてくれ。……頼むぞ」
「お母さんっ。リル、ちゃんとするってば!」
「うん、そう信じたいけど、普段が元気すぎるからね」
今より幼い頃は、家中どこでも動き回るような子だった。
その度に、
本来、一時も目を離せない年頃の際でも、森や街に出られたのは、この協力者のお陰と言っても良い。
あちらも心得たもので、任せなさい、という気合がハッキリと伝わってきた。
「じゃあ、行ってきます」
リルの頭を撫でて、額にキスする。
そうしてようやく、アロガを引き連れ、私は家から出発したのだった。
※※※
家から西方面へ向かえば沢に出る。
森の中を縦断する小さな川があり、魚は釣れるが泥臭くて食べられたものではない。
また飲水に適さず、生活の糧にならない邪魔な川と言って良かった。
ただし、これは我が家と我が領域の明確な境として機能しており、賢い獣ならばまず近寄ろうとしない、線引きとして目印にされていた。
森の西側は獣にとっての領域で、
肉食の魔獣は決して
そして、その肉食魔獣が餌場とするだけの、草食魔獣が生息している、という意味でもある。
狙い目となる獲物は多数いるが、中でも狙いは魔猪と魔鹿だ。
どちらも草食魔獣だからと、単なる獲物と捉える事は出来ず、時に猛烈な反撃を繰り出す事もあった。
魔獣というだけあって、その攻撃方法、あるいは逃走方法には魔力が関わる。
マナの濃い森だけあって、その分だけ威力も高くなるものだった。
外界の魔獣と同じ種類であれども、長く濃いマナを吸収して育った魔獣は、それだけで強力に育ってしまう。
狩るつもりが逆に狩られた、というパターンは、この森では決して珍しくない。
だから、此度の狩りで初陣となるアロガは、特に気を付ける必要があった。
「臆するなよ、アロガ。気配に呑まれたら、それだけで敗北するぞ」
右隣にピッタリと寄り添って歩くアロガに、視線を向けながら声を掛ける。
アロガはその声に反応して顔を上げたが、その様子から全く自信は感じられなかった。
――主人が来いと言ったから、仕方なく付いて来ている。
表情が、その様に物語っているかのようだ。
今はまだ冬に早い時期……。
だから、獲物までの位置や距離を、協力者が教えてくれる。
風の香りに誘われるように、森の道なき道を歩き、草と木がまるで道を譲るかの様に歩いていけた。
ただし、落ちた枯れ枝などを踏めば、獲物は数キロ先にいようとも、こちらの存在に気付く。
下生えを掻き分けるにも、慎重さが必要だった。
そうして、風の香りに誘われ歩くこと暫し――。
昼前の時刻に、渓流へと行き当たった。
水は澄み渡り、家の近くの沢と違って、飲水に適している様にも見える。
アロガはこちらの制止も聞かずに鼻面を突っ込み、浴びる様に飲み始めてしまった。
「なんだ、そんなに喉が渇いてたのか?」
私は私で、自分の魔術で水を用意し、一口サイズにして口の中へ誘導する。
沢と違って大丈夫そうなのは、アロガの様子を見ても分かるが、かといって安全とは限らない。
上流には獣の寝床などあるかもしれず、そうした場合は糞尿が交じる事もあった。
アロガのような魔獣ならば、その程度関係ないかもしれないが、こちらからすると大惨事だ。
「クルゥ……」
水を飲んで渇きを癒やしたかと思えば、次はご飯の催促だ。
私は眉間に指を立て、どうしたものかと首を傾げた。
「お前は少し、野生を失い過ぎじゃないか……?」
森の狩人ならば、自ら獲物に牙を突き立てろ、と言いたい。
風の香りは、未だ獲物の位置を森の奥底へと誘っていて、どこまで進むべきなのか分からなかった。
もしかすると、空腹のまま数時間歩く、という事もあるかもしれない。
「けど……、飢えさせるべきかな? その方が狩りも本気になるか?」
アロガに問い掛ける様に訊いても、アロガは物欲しそうな目を向けるだけだ。
どうしようか、と判断を決めかねていた時、対岸の樹の上から、強烈な敵意が飛び込んできた。