普段より短い勉強時間を終え、昼食を取っている時の事だった。
春と言っても、まだ肌寒い日和だから、本日のメニューは温かなシチューだ。
ゴロッとした大きな野菜と、蕩ける様なお肉が入ったもので、リルの食も進んでいる。
夜も恐らく同じくシチューになるだろうが、少し味と見た目を変えて、飽きない工夫を、シルケはしてくれるだろう。
最後の一口をリルが食べると、スプーン片手に持ったまま、難しそうな顔をして口を開く。
「ねぇ、お母さん……。リル、がっこう、いったほうがいい?」
「うん? 行きたくないって、言ったばかりだったろう? 何か気持ちの変化でもあったとか?」
「うんとね……」
リルはスプーンを弄って、もじもじと言いづらそうな様子だ。
というより、上手く考えが纏まっていないのかもしれない。
「あのね、リルもね、よくわかんない……。いきたいのは……ともだちがいるし、でも……お母さんとはなれるの、さびしいし……」
「そうだな、単純じゃないよな……」
子どもは大人が思う以上に、色々と考えているものだ。
それこそ、子どもの浅知恵と言えるような事だとしても、本人にとっては本気で、真剣なことだ。
単に嫌だ、何か嫌だ、という癇癪の場合もあるが、リルは見ず知らずの環境という不安とも戦っている。
「でもね、リルのためだって……。なんか……たくさん、いろいろしってほしいんでしょ……?」
「うん、そうだな。狭い森の中だけじゃ、分からない事は多い」
リルは自分の考えというより、何かの入れ知恵を口にしているようだった。
いや、この場合は他に候補がないから、ナナが教えてくれたのだろう。
私はいつだってリルの事を思い遣っているし、それが伝わらなくても良いと断腸の思いでいたが、どうやらナナが良い仕事をしてくれたらしい。
「でも……、おべんきょ? おべんきょなら、ここでもできるよね? どうして……、がっこうなの?」
「お母さんじゃ、教えられない事もあるからさ」
「んぅ……。でも、お母さんのしらないこと、がっこうにあるの?」
「そういうのとは、ちょっと違うな」
リルは私が世の中の何もかもを知っていて、勉学についても、知らないなどない、と思っているようだ。
しかし、学校の役割を勘違いしている。
学校は勉学を教えるだけではなく、集団で生活すること、コミュニティの中にある意義を、先立って教える意味合いもある。
それはコミュニケーションを育む場でもあり、衝突を覚える場でもあった。
これは親子という間柄だけでは、決して学べない分野でもある。
「もっと単に、生きる楽しさ、学ぶ楽しさを知って欲しいだけさ」
「いきる……のは、なんとなくわかるけど……。おべんきょで、たのしくなることなんて、ないとおもう……」
「そうかな? 勉学っていうのはね、何も字を書くこと、数字を計算することだけじゃないからね」
基礎の基礎を知らなければ、その先を学ぶ事はできない。
そして、基礎ばかり勉強していて、楽しいはずがなかった。
それは剣術修行や、マナ訓練の時も同様だ。
その先を踏み出し、成長を実感し始めてからが本番だ。
「リルはまだ、勉学の一歩目を踏み出したばかりだ。だから楽しくないし、無駄に思えたりする」
「けんとか、マナのほうが、ずっとたのしい」
「そうだな、そう思う方が普通だ。だから今、リルが勉強楽しくない、って感じるのも、とっても普通のことだ」
私が肯定すると、リルは意外そうな顔でこちらを見つめた。
苦言を呈されるか、そうでなければ説教が飛ぶ、とでも思っていたのかもしれない。
「物事はね、知識を得ること、そしてそれを積み重ねることで、色々な見方が出来るものだ。新しい発見もね」
「よく、わかんない……」
悲しそうに目を伏せるリルに、スプーンを置いて、席を立つ様に指示する。
私もまた立ち上がり、リルの手を引いて家から出た。
「例えばの話をしよう。リルは、この森の外が、どうなっているか知っているね?」
「うん、まちがある」
「じゃあ、実はこの地面が球体だ、って言われたら信じる? まん丸い、おっきな丸の上に、お母さん達が立ってるって」
「んぅ……? そんなはずないよ。だって、丸かったら、きっとリルたち、ころんじゃうもん」
私はその答えに満足し、褒めながらリルを横抱きに抱える。
「でも実は、本当の本当に、丸い球体の上に立っているんだ。でも、とっても大きな球体だから、全然転がったりしない。こんな風に……」
そう言って、私はリルをゆらゆらと揺らす。
リルは私の首元に掴まり、きゃっきゃと声を上げて喜んだ。
「丸い球の上に立っていたら、揺られて安定しない、と思うだろうけど……。すっごい大きな球だとね、部分的には平らになる。それだけが理由じゃないけれど……、とにかく滑って落ちたりしないのさ」
「でも……ヘン! やっぱり、おかしい! まぁるいうえにたってて、ころばないなんてヘン!」
「そうだね。実は大多数の人が、リルと同じ考えだ。地面は何処まで行っても平面で、何処までも続くものなんだ、ってね」
リルはむしろ、その言説にこそ同意して、ふんふんと興奮気味に首を上下させた。
「じゃあ、ちょっと具体的に教えてあげよう。リル、よく掴まって、口をしっかり閉じてなさい。――ナナ、ちょっと手伝ってくれ」
言うや否や、私はマナを練り上げ、魔力として身体全体から下方向へと射出した。
ふわりと身体が浮き上がり、かと思えば、アッと言う間に加速する。
「きゃっふぅぅぅ~っ!」
直上に射出されたというのに、リルは上機嫌に声を上げた。
新しい遊びを教えてくれている、とでも思っているのか、みるみる広がる景色に喜びながら手を振った。
「わぁ~っ! きれ~っ、すっごぃぃ~!」
突然始まった空中体験に、リルは大はしゃぎの大喜びだ。
どこまでも広がる大地、遠くに見える水平線、背後に見える山稜の頂と、見える景色は美しい。
そして、射出される加速が緩やかになり、とうとう動きが止まると、今度は緩やかに落下を始めた。
自由落下よりも断然遅く、まるで木の葉が地面に落ちていくかのようだが、これこそナナが風の力で助けてくれているお陰だ。
その広大な景色に魅入られながら、リルは私の肩に顔を預けながら言う。
「ねぇ、お母さん。やっぱりじめんは、まるくないよ?」
「でも、ご覧。海の向こう側……」
そう言って、指差す方向には、青く拡がり、太陽の照り返しを受けて白く輝く海が見える。
「あの海の向こう、空と重なる部分……少し曲がっているように見えないか?」
「んぅ……、まがって……んぅ……? わかんない」
「そうだな。実はこうして自分の目で見ても、曲がっているかどうか、誤差の範囲でしか見えない」
リルは引っ掛けられたと思ったのか、憤慨する真似をして頬を膨らます。
「じゃあ、やっぱりまるくないんだ!」
「話は最後までお聞き。こうして高い地点から、地平上のある地点まで、直角三角形を作れば、私達の住むこの世界の半径が分かる」
「さんかっけー」
「この前、教えただろう? 難しい事まで踏み込んでないけど、これは三角形の定理という。この定理は、揺ぎ無いものと証明されているんだ」
だから、それらを結ぶことで正確な値が出る。
その辺の説明は、まだリルには難しいから置いておくとして、別の手段についても教える。
「他にも、夏至の日から毎日、影を調べる方法もある。地面に立てた大きな杭と、そこに落ちた影の角度から、世界の円周を測れるんだ」
「カゲから? ホントに?」
「そう。だから既に、世界の直系は約一万二千キロ、円周は約四万キロだと分かってる」
余りに大きな数の単位に、リルは目を丸くして絶句している。
そして、実際の大きさは想像できずとも、どれだけ大きいか理解できている時点で、リルは相当賢かった。
「リルにはまだまだ難しい事ばかりだけど、勉学とはこうした真理に行き着く方法でもあるんだよ」
「でも、リル……。そんなムズカシイこと、かんがえれないよ……」
ゆっくりと下降を続けながら、私はリルの頭に頬を乗せる。
それから優しくその肩を撫でて、諭すように話し掛けた。
「何もこの世の真理を、追いなさいって言うんじゃないんだ。知識というのは、手段なんだ。自分を助ける手段。それをどう使うかで、分かること、出来ることがある」
「んぅ……。リルになにができるかなぁ」
「それはまだ、考えなくても大丈夫……。何も数字だけを追うのが、勉強ではないからね。リルはまだまだ、これからの子だ」
そう言って、励ます以上のつもりで、リルを抱き締め頬ずりした。
「リル、賢くありなさい。知っている事が多ければ、最終的にどんな困った事が起きたって、何をすれば良いのか見つけられるし、導き出せるんだ。それこそが、『賢い』という事なんだよ」