それから、数日経ってからの事だ。
見せるだけなら良いだろうと、リルをある一室へと案内していた。
我が家には母屋以外に多く離れを持ち、その全ては基本的にリルが一人で入るのは禁止している。
錬金小屋は危険な素材で溢れているし、鍛造小屋は怪我をする小道具なども、多数用意されているからだ。
普段は魔術的施錠をされている事もあり、好奇心に任せて入り込む事も出来ない。
リルも気になって中を覗き見る事くらいはあるが、出来るとしてもその程度の事だった。
そして、それらの小屋とは別に、静かな威厳を持って敷地内に控えている小屋がある。
六角形型をしたその小屋こそ、今回リルを案内する場所だった。
他の場所は私が出入りする事もあり、その時はリルも入って来られるから、何も知らない、という事はない。
しかし、敷地内にあって、全く知らない離れがあるとするのはこの小屋だけだった。
今日いよいよ連れて来られると知って、案内されたリルの方が驚いたくらいだ。
「ここ、ちかづいちゃ、いけないって……」
「そうだね。でも、他の小屋と違って、危険ってわけじゃなくて……。お母さんの大切な物が、沢山眠っているからなんだ」
「ねむる? なにかいるの?」
「違うよ」
私は笑ってリルの頭を撫で、それから扉に施術した魔術錠を解除した。
「それはモノの喩え。眠っているというのはね、ここが薄暗いせいもあるけど……」
そう言って、扉をゆっくりと開けていく。
湿気やカビなどは大敵だから、この中の温度と湿度は一定で保たれ、快適な空間となっている。
私が先に入ってから、リルを小屋の中に招き入れると、口を大きく開けて感嘆の声を上げた。
直接日差しが入らない、明り取りだけある部屋なものだから、室内は薄暗い。
その静謐さも相まって、少し恐ろしい雰囲気が漂う。
壁際には所狭しと本棚が並び、そこにはみっしりと詰まった本が並んでいた。
壁に設置した本棚だけでは足りないので、本棚と鏡合わせになるように、また本棚が設置されている。
それだけでも圧倒されるような構成だが、並ぶ本の量が、見る者を圧倒させる雰囲気を発していた。
「うわぁ〜……っ。なんか……、すごい。リル、こわい」
「静かで暗いところは、確かにちょっと、おっかないな」
抱き着いて来たリルを宥めながら、片手を天井へと向ける。
すると魔力の照射によって、設置されていた魔水晶が光り、部屋全体を明るく照らした。
「ほら、これで少しはマシになったろう?」
「んっ、すこしね。すこしだけ」
リルは私から手の届く範囲で離れて、物珍しそうに本棚を見上げた。
天井程とまで行かなくとも、私の身長の倍はある本棚だから、言葉通り見上げる程に高さがある。
「ここには私が集めた、色々な本が保管されている。一国の王でも真似できない、ちょっと自慢できる程の蔵書室だぞ」
「イッパイあるもんね。さむくないし、ちょっとあったかい。ねむくなっちゃいそう。……あ! だからみんな、ねむってるんだ!」
先程の喩えを持って来て、自らの発見に感動しているが、勿論そういう事ではない。
確かにここは、本にとって快適で、ともすれば眠りたくなる程だろうが……。
子どもらしい発想に、私はただ笑ってリルを案内した。
「本はね、ただ置いているだけだと、すぐ劣化してしまうんだ。温度が高くても、低くてもね。雨の日みたいにジメジメさせたり、逆にカラッとした日が続いたりすると、簡単に歪んだり、接着部分が剥がれたりしてしまう」
「ふぅ~ん……? きもちよくねててほしいから、いろいろやってるの?」
「まぁ、そうだね。……そう、寝癖で頭がボサボサにならないように」
そう言って、リルの頭を少しだけ乱暴に撫でる。
きゃあきゃあ、とはしゃいで逃げて、本棚の裏に隠れたリルを、私も追い掛けた。
基本的に締め切っているとはいえ、定期的な掃除がされているので、走り回っても埃が立つという事もない。
六角形型の部屋なので、逃げると言っても円を描く様にしか逃げられず、結局すぐに捕まえて、リルを腕の中に抱いた。
「本の近くでは、あまり騒いではいけないよ」
「うん、ビックリして、おきちゃうもんね」
「ふふっ……。まぁ、そういう事にしておこうか」
この小屋自体には防護の魔術が掛かっている。
最適な空間を維持してはいるものの、本それ自体は掛かっていないので、もしぶつかったりすると破損する恐れがあった。
それに、本の角というのは実際に固いのだ。
リルが痛い思いをする前に、しっかり注意を促しておく必要がある。
「ねぇ、お母さん。ここにあるのは、どういうの?」
リルが指差す本棚には、幾何学の本が並んでいる。
書棚によって、しっかりと仕分けされているので、私には何処にどの本があるのか、はっきりと把握していた。
「その棚は、主に数学に関する本ばかりだよ。リルには少し、難しい内容ばかりかな」
「リル、みてみたい」
「うーん……、別にいいけど、楽しくはないと思うよ」
リルが手を伸ばすので、本棚に近付いて、抜き取らせてやる。
分厚い本はズッシリと重く、リルは意外そうな顔をしたものの、落とすことなく胸に抱える。
「これ、なんていうほん?」
「アクハト・ブラハル著、『原論』。リルが読むと、それこそ難しくて眠っちゃうんじゃないかな」
「どういうの?」
そうは言われても、リルの好奇心は留まることを知らず、とりあえず見てみたい、と思ったようだ。
リルの頭よりも大きなサイズの本を、どうにか苦労して開く。
そうして、最初の文を幾らか目を通して、すぐにへにょり、と眉を八の字に曲げた。
「わかんない……」
「だから、そう言ったろう?」
綺麗な装飾文字を始めとして、つらつらと難しい文章が並ぶ。
こうした丁寧な造りの本は、高価な装飾品とも変わらぬ値が付き、実際にこの本は一冊で家が建つほど高価なものだ。
それは写本ではなく原本だから、尚のこと大きな値が付くのだった。
ただし、それをリルに説明する気はない。
仮に汚したり、破れたりしても、それはそれで……と少し叱るくらいで済ませるだろう。
先人の残した知恵、それを留めた本は宝に違いないが、真に大切なことは、その知を活用することだ。
「難しいことを書いているけど、読めはするだろう? 何て書いてるか、読んでごらん」
「んぅ……。えっと……、『てん、とは……、ぶぶん、の……ないもの』? なぁに、これ?」
「点は分かるかい? 棒で地面に突き刺した時、チョンと一回だけ刺した時に見える物、それが点だ」
「うん、わかる」
「それを小難しく説明しているんだな」
そう説明すると、リルは途端に異様なものを見る目で、本を見つめた。
「他にも、こう書いてある。『線とは幅のない長さ』、『線の端は点になる』……何となく頭で理解してることを、言葉にしているんだ」
「なんで?」
「当たり前のことを、当たり前だと定義する為だな。一つ一つの『当たり前』を重ねて、世の理を定める。……これをね、定理というんだよ」
「てーり……? リル、わかんない」
「そうだな、難しいよな」
私はリルから本を受け取って、元の本棚へと戻した。
「でも、そうして当たり前を積み重ねていったから、この前言ったみたいに、世界の大きさを測れたりした。本当に小さな、他人からは下らないと思えた『当たり前』を見つけたから、新たな発見もあった」
「まほーは? リル、まほーしりたい!」
「うん、そういうのもあるよ。そういう『当たり前』から外れた法則、外れているから再定義しようとした法則、それが魔法だ」
私は本棚をぐるっと周り、目的の本棚まで移動すると、最下段にある本棚を示す。
「ここにあるのは、魔法について書かれた中でも、分かり易い部類だ。読むには時間が掛かるだろうけど、リルにも読める内容のはずだよ」
それを聞くや否や、リルは私の腕から飛び降りた。
そして、床にペタンと座って、一冊の本を取り出すと、そのまま床の上で開いた。
「マナの、げん……ろん。ヤダぁ……また、ゲンロンだぁ……!」
すっかり嫌なもの認定されてしまって、悪者扱いまでされていそうな口ぶりだった。
しかし、基礎の基礎を説明しようとすれば、そこに行き着くのは仕方ないのだ。
「ほら、それじゃ……これなんてどうだ? もっと簡単そうなことが書いているよ」
そう言って差し出せば、マナの原論は差し置いて、受け取った本を広げた。
むむむ、と難しそうに眉をひそめ、一丁前に学者らしい振る舞いをしようとしている。
「すっかり、学者の貫禄だな」
「いま、よんでるから! お母さん、しずかにして!」
「はい、はい……」
どうであれ、やる気があるのは良いことだ。
たとえ五分と保たないとしても、本に向き合おうとする姿勢は歓迎すべきものだ。
その間、私も何か本に目を通しておこうか、と考えていたところ、不意に一つの感知が届いた。
森の入口に設置されている、例の罠が報せてくれたものだ。
私は表情を固くして、不快感を顕にした後、頬を擦って元に戻す。
そうして、リルには勘付かれないよう努めて表情を作って、今も熱心な後ろ姿に声を掛けた。