「……はい、今日の所はこれまで」
「あいぃぃ……」
日課となっている朝の体力作りが終わり、リルは木剣を投げ捨て、地面に寝転びながら返事した。
朝から体力をスッカラカンにするつもりはないし、リルの限界を見極めて、そこそこに絞っただけだが、妙に疲れている感じだ。
訓練が終わったと見て、木陰の傍で見守っていたアロガがやって来て、リルの顔をベロベロと舐める。
リルは好きにさせてやりながら、その首筋辺りをワシャワシャと撫で、それからゆっくりと立ち上がる。
「それじゃ、軽く汗を流して、それから朝食にしよう。もう、お腹ペコペコだろう?」
「うん。なんか……いつもより、おなかすいた」
「成長期には、まだ早いはずだけど……。でも、良いことだ。沢山食べて、丈夫な身体を作らないとね」
「たくさんたべると、じょうぶになるの? つかれたりしなくなる? お母さんみたいに?」
朝と言わず、様々な訓練を指導している私だが、それで息を切らしたり、疲れた顔を見せることはない。
それは
私は微笑ましくリルを見やり、それから頷く。
「そうだよ、沢山食べると、それだけ丈夫になる。身体がね、食べたいと思っている時は、しっかり与えた方が良いんだ」
「ならね、それならね……っ!」
リルはアロガを押し退けて、目一杯期待した視線を向けながら言う。
「リルのからだ、いま、あまいものがほしいって!」
「リルの場合、いつだって欲しいんだろう? 朝から甘い物はいけません。お肉や卵とか、しっかり身体作りになる物を食べなさい」
リルは不満そうに唇を尖らせ、ブルルル、と鳴らした。
私は踵を返してお風呂場へと向かいながら、背中越しにリルを呼ぶ。
「ほら、汗が乾く前に流してしまおう。シルケも待ちくたびれてしまう。早くおいで」
「はぁ~い……」
渋々と頷き、トボトボと歩き出した。
アロガが付き従う様に横を歩くのを見届けて、私は改めて背を向けた。
先に行って、ある程度、お湯を準備しておかなければならない。
だから、背後については特に気を配っていなかったのだが、何やらリルがボソボソと何かを言っている。
アロガにか、あるいはナナに対してか――。
甘いものを食べられない愚痴でも言っているのだろう。
そう鷹揚に考えていたのだが、直後に油断を悟る。
リルを中心として魔力の高まりを感じ、その直後、リルが突進して来るのを感じた。
「お母さぁ〜ん、どーん!」
風を纏って、空気の抵抗を極力削ぎ、空気を射出しながら、とんでもない速度でカッ飛んで来た。
――何てことをするんだ!?
だが、驚いている暇など、一秒足りともなかった。
私は咄嗟に魔力を練り上げ、空気の膜でクッションを作る。
そのまま受け止めてしまうと、その衝撃だけでリルが潰れかねない。
弾性の膜で受け止めつつ、衝撃の指向性を上方に逃がした。
そのせいで、リルはぽーん、と軽快な音と共に空へと飛び上がる。
屋根より高く舞い上がったリルは、きゃらきゃらと笑いながら、危機感など全くなく落下する。
空中で受け止めようとしたのだが、それより前に風が纏い、落下速度が減衰した。
木の葉が落ちるような側で落ちたリルを受け止めて、胸の中で抱きながら、顔を近づけてホッと息を吐く。
「なんて危ないことを……いや、いつの間にそんなことが出来るようになったの?」
「うんとね、きのう! ごほんよんで、それでやってみた!」
「ご本って……。あの棚に、そんなの置いてなかったろう」
「べつのトコにあったよ」
私は溜め息をつきたい気持ちを我慢して、代わりにリルの身体を抱き締めた。
「リルは凄いことをしたよ。でもね、普通はそんな事したら、潰されて酷いことになるからね。危険だから止めなさい」
「えぇ〜……っ!? でも、ナナならへいき、って!」
「そうか……、主犯はナナか」
私は掻き抱く様にしていた身体を少し離し、リルの肩越しを見つめて言う。
「どういうつもりだ、ナナ。リルを危険な目に遭わせるなどと……」
「危険なんてなかったでしょう? 落ちる時だって、私がしっかりサポートしてたわ」
悪びれる様子もなく、風景から浮かび上がる様に出て来たナナは、開口一番にそう言った。
「貴女があの程度に反応できないとは思わなかったし、仮に油断していても、やっぱりダメージは負わないと思うし……」
「私はともかく、リルが危ないだろ! あんな速度でぶつかったら……」
「それこそ心配無用だわ。私が手を貸しているんだもの、両手で手を叩いた程度の衝撃しか返ってこないわよ。リルを護る術については、よっぽど自信あるんですからね」
「だからと言って……」
反論を述べようとした所で、リルが目をキラキラさせて見つめている事に気付き、視線を合わせる。
すると、リルが屈託なく笑って言ってきた。
「ねぇねぇ! リル、すごい? びゅーん、ってとんだの!」
「すごいよ。すごい。本当に驚いた。まだ、あんな使い方教えてないのに、この子ったら……」
私は再びリルを抱いて、その柔らかな髪と耳を巻き込んで頬ずりする。
「本当に驚くような事をしたね。教えられたからって、その歳で同じ事を出来る子が、一体何人いるものか……」
マナの制御については、基礎の基礎を念入りにやらせていたので、順応は早かったかもしれない。
だとしても、規格外と言って良い早さだった。
――うちの子、天才かもしれん……!
「すごい? すごい?」
「ああ、リルは凄いよ。凄い子だ」
一頻り撫で回し、十分に褒める。
しかし、締める所は締めないといけなかった。
「いいかい、リル。確かにリルは凄いことをやったけど、あぁいう事は突然やってはいけません」
「そうなの? ……お母さんなのに?」
「そうだよ、お母さん相手でも」
リルは私の事を、他とは少し違うものに見えているようだ。
だが、思い返してみれば、雪山で冒険者四人を鎧袖一触に処理したのを見ているし、それは竜を相手にしても大差なかった。
そんな母を、自分がどうにか出来るとは、微塵も思っていないからこその発想だろう。
そして実際、唐突な不意打ちでも反応して、適切に対処していたし、リルにとっては想定通りでしかなかったのだ。
「お母さんは、とってもビックリしたよ。だから、お母さんがいいよって言わないと、あぁいう事はしちゃダメだ」
「おへんじ、もらったらいいんだ!」
「うぅん、まぁ……。それはそうなんだけどね……」
許可さえあれば、何をしても良い、と思われても困る。
庭に出ている時、いつ来るとも知れないリルの突進を警戒していたら、身体が幾つあっても足りないだろう。
「所構わず使うのは、とっても危険だ。お母さんだって、いつでも適切に受け止めきれるとは限らないんだからね。それでリルが怪我したら……、お母さんはとても悲しい」
「じゃあ、ケガしないようにする!」
「そういう事でもないんだよなぁ……」
リルにとって、物事は至極単純に成り立っている。
だが、そうでばかりでもないのだと、そろそろ知って貰わねばならない。
私は苦笑しながらも、リルの片耳を巻き込んで、ぐりぐりと頬を押し付けた。
「リルが怪我するのもそうだけど、何かを壊してしまったり、他の誰かを傷付けるかもしれないから、勝手に使っちゃいけないんだ」
「だれか? だれかって?」
「さっきのを間違ってアロガに使ったら、勿論アロガだって怪我するさ。それに妖精が轢かれたりするかもしれない」
妖精は基本的に畑近くにいるものだが、フラフラと飛び回る事も多い。
リルの突進で、あえなく吹き飛ばされる事も、十分想定された。
人間と違って死の概念がない妖精だから、仮にぶつかってもすぐ元通りだが、だからと言って、無遠慮であって良い理由にはならない。
リルは私の言いたいことを理解して、アロガを見てはしゅん、と尻尾と耳を垂らした。
「アロガがケガするの、ヤ……」
「そうだろう? アロガだけじゃないぞ。ちゃんと妖精達も見てあげないと」
こくり、と殊勝に頷いたものの、リルはすぐに調子を戻して腕から飛び降りる。
そうして、四つん這いになって着地すると、可愛いお尻をこちらに向けたまま、顔だけ向けて言った。
「じゃあ、じゃあ! いまからまた、どーんってやるから、お母さんうけとめて!」
そう言うと、返事を聞かずに立ち上がっては走っていく。
それから片手を挙げて手を振ると、こちらの返事も待たずに駆け出した。
「いや、宣言すれば、やって良いって訳でも……」
しかし、私の声が耳に届くより早く、リルは既に駆け出している。
目にも留まらぬ速さで突進して来て、先程の要領でまた上空へ打ち上げた。
「きゃーっ、あははは!」
飛び上がり、そしてゆっくりと落ちて来るリルは、とても楽しそうだ。
本来は攻撃用であったり、あるいは移動に使う魔法だろうに、リルに掛かれば、新たな楽しい遊び方でしかないらしい。
私はリルを受け止めると、今度こそ汗を流させる為、抱えたままお風呂場へ向かった。