馬車を追い抜いて走り去るリルを見て、驚きながら振り返る人が多く見られた。
常識的な人間なら、まず、あぁした事はしない。
同じ事は魔術士や、力ある冒険者なども出来る事だが、彼らには社会通念場の常識が備わっている。
捕り物でもない限り、馬鹿みたいな速度で走ったりはしないのだ。
滅多に見られるものではないので、一般人からすると十分に驚きに値するものだった。
それが小さな子どもとなれば、尚の事である。
彼らが目を見張るのは、そうした理由も多分にあった。
何しろ、六歳と言えば、まだ満足に訓練も受けていない年頃だ。
獣人と言えど規格外のスピードに、目を見張るのは当然だった。
そちらに注目が集まっている内に、私も自分に隠蔽の魔術を掛けて、周囲から姿を隠す。
そうして走る速度を上げると、一気に距離を詰めようとした。
とはいえ、目的地はスラムの奥だ。
道が入れ組んでいるだけでなく、廃材を利用して作ったと思われる掘っ立て小屋があったりと、道そのものが狭くなっていた。
場所によっては完全に塞いでしまっている所もあり、直線上に進めない方が多かった。
「私もスラムの地理までは詳しくないからな……」
しかも、毎年の様にスラム街の道は変化する。
誰かが住み着き、また誰かが居なくなったりで、掘っ立て小屋は入れ代わり立ち代わり作り直される。
去年までは通れた道が塞がっていたり、またその逆があったりと、そこに住まう人間ではなければ、到底把握できる事ではなかった。
「位置だけ分かっていても、これじゃあな……」
先回りしようとしても、走りづらくて仕方がない。
道が塞がれていようとも、跳び越えて進めば良いだけだが、破壊してまで進むのは流石に可哀想だ。
だから慎重に進むしかないのだが、それが追跡の遅れとなっていた。
最終的に何処へ隠れるつもりか、当たりを付けて先回りしていたのに、全く追い付けていない。
それどころか、愚直に進むリルと横合いから合流する始末だった。
「あっ、お母さん!」
隠蔽していても、魔術適応にはリルを除外しているから、こちらを見てすぐに分かる。
そのリルの横に付いて、一緒に走りながら尋ねた。
「大丈夫? 疲れてない?」
「へいきだよっ!」
走る速度は最初の頃と違って、大分緩やかになっていた。
だとしても、その速度が常人を遥かに凌ぐのは間違いない。
長い距離を走り慣れていないからか、それとも見失ってしまったからか、ペースを落として走っていた。
「お母さんも、いっしょにはしるの?」
「うん、リルが困ってないかと思って」
「んひひ! お母さんといっしょにはしるの、たのしい!」
「目的が違ってきてるじゃないか、それじゃあ……」
リルは最早、盗人の事など気にも留めていない。
ただ一緒に走るのが楽しくて仕方がない、と言った感じだ。
基本的に森の中で、一緒に走る事は非常に珍しいから、リルが喜ぶのも分かるのだが――。
それより今は、盗人の方に集中して欲しかった。
私は掘っ立て小屋を蹴飛ばさないよう、リルにも注意させながら、前方の一点を指差す。
「――ほら、右。気を付けて。あぁいう見た目でも、他人にとっても立派な家だからね。それより、アッチだ」
「んぅ? なんか、ひといっぱい!」
爆走して直進する何者かの存在は、既にスラムの住人にも知られた様で、こちらを見ては剣呑な視線を向けていた。
中には、明らかに物騒な物を持ち出している者までいる。
武器というほど上等なものではないが、人を殺傷できる程度の手入れもされていない、刃こぼれした剣を持っている。
「既にここを通過した盗人が、助けを求めた可能性もある。今度はあぁいうのも、躱して行かなければならないよ」
「このみち、まっすぐでいいの?」
「今のところはね」
「そっか!」
母の言葉を疑わないリルは、楽しそうに頷いて速度を上げる。
振りかぶった剣をスライディングで躱し、滑走しながら通り過ぎ、跳ねるように飛び上がって、体勢を維持しながら走り去った。
続いて身体ごと止めようと飛び出して来た相手には、そのまま頭突きをして吹き飛ばす。
小柄なリルとは思えない衝撃で吹き飛んで、後ろに控えていた男たちを纏めて倒してしまった。
「いいぞ、リル。上手いことやったな」
「んへへ……! ナナがね、やれっていったの!」
そういえば、リルには優秀なアドバイザーが付いているんだった。
今のは下手をすると殺し兼ねない攻撃だったが、ナナのサポートがあればこそ、上手く回避した上で無力化出来ていたのかもしれない。
「でもね、お母さん! なんかリル、へんなの!」
「あぁ、もしかして……。上手く走れない?」
「そう!」
それはリルからすると、当然の違和感だろう。
何しろ、今の今まで、森以外でまともに身体を動かした事などなかったのだから。
常に濃すぎるマナから圧迫され、それから身を守る運用法に慣れているリルからすると、薄い地域でその齟齬が生まれてしまうのだ。
既に染み付いてしまった運用法を、適宜切り替えて使うのは大変難しい。
だが今は、私がサポートすることで、少しはマシに使える筈だ。
「――あっ!」
そのサポートをしようと手を近付けた瞬間、リルが声を上げた。
指差す前方では、逃げ去ったあの黒い猫獣人の背中が見える。
後ろを振り返って立ち止まった姿勢で、リルの薙ぎ倒した光景に驚愕する表情まで、鮮明に見えた。
「みーつっけた!」
並走しながら指を一本立てて、手を伸ばした。
今更ながら、立ち止まった事を後悔する表情で、再び走り出す。
だが、既に射程圏内だ。
リルの速度からは逃げられまい。
そう思った矢先、猫獣人の身軽さを発揮して、掘っ立て小屋に乗っかり、それを足場に跳躍した。
そこから更に壁を左、右、左と蹴り上がり、屋根の上まで到達する。
こちらを見下ろすその表情には、勝ち誇ったものが浮かんでいた。
「んぅ……! どうしよう、お母さん!」
「大丈夫、お母さんに任せておきなさい」
そう言って、先程中断したマナの運用を手直ししてやる。
普段、自分の守りに使って言える分を、より自由に使えるよう変換し、より強い身体能力を発揮できるようにさせた。
「……あれ? なんか、ヘン……! なんかすごく……、チカラが、うぅ〜……って!」
「マナの使い方に、少し変化を与えてあげただけだよ。慣れるとね、そういう切り替えがスムーズに出来るようになる」
「そうなんだ!」
使える様になったのは、何も運動能力へ転換するだけではない。
自由に使えるマナが増えたということは、精霊もまた力を発揮できるようになった、という事だ。
リルが軽く膝を曲げたタイミングで、風が身体を纏って空気抵抗を低減させた。
黒の猫獣人が、その身軽さを発揮して左右に蹴り上げた壁を、全てまるっと無視して、リルは一足飛びで屋根まで到着した。
「きゃっほ〜い!」
「何よ、それ!?」
リル自身も驚ろいていたが、何より驚愕したのは猫獣人の方だった。
身体を翻して逃げようとしたが、もう遅い。
リルはその両肩に手を当てて、ガッシリと掴んで言った。
「つーかまーえたっ!」
「はなっ、離しなさいよっ! この……っ、馬鹿力!」
猫獣人の暴れようは、凄まじいものだった。
まさに獣そのもの、と言った暴れ様で、拘束から抜け出そうと身体を捻っている。
その時には私も、隠蔽を解いて屋根へと上がっていて、指一本、その額に指して動きを止めた。
「勝負ありだ。負けを認めないと、更にみっともないことになるぞ」
「う、あ……」
別に殺気を込めた訳でもないが、突如現れた私という存在に、猫獣人は顔を青くさせて抵抗を止めた。
身体は硬直し、そして僅かに震えている。
黒髪を無造作に伸ばして、適当にナイフで切った様な髪型だった。
長過ぎると邪魔だから、自分で切ったりしたのだろう。
髪は当然として、身体も土と埃で汚れていて、身に纏った襤褸は更に酷い。
悪臭も漂い、今更それに気付いたリルが鼻を摘んでいた。
「盗んだ物を返すんだ。そうしたらお前も、無事に帰してやる」
「あ、あぁ……」
呻くように返事して、素直に懐からリルの財布を取り出す。
私はそれを受け取って、中身が入っている事を確認してから、リルに返した。
上手いことをするやつは、逃げている間に中身をすり替えていたりする。
取り返したと思って確認すると、中に石しか入ってない、ということも、実はありふれているのだった。
「やった! リルのおかね!」
素直に喜び頭上で掲げ、くるくると回ってから、窺うように猫獣人の後ろから顔を伸ばす。
「ね、いっしょにたべよ! いっしょにあそんだから、リルとおともだち! ね、いいでしょ?」
屈託なく笑うリルは、全くの無邪気な気持ちで言ったのだ。
しかし、それが彼女の逆鱗に触れたらしい。
私が指を下ろしていた事もあって、思い切り感情をぶつけた視線を向ける。
嫉妬、屈辱、羨望……。
様々なものを入り混ぜながら、リルの伸ばした手を引っ叩く。
屋根の上で、パァンという、乾いた音が響き渡った。