叩かれた自分の手を見て、リルは呆然としていた。
何をされたか分からないのではなく、何故そうされたのか、それが分からないという顔だった。
それが尚更、彼女の神経を逆撫でしたらしい。
細く長い尻尾が逆立ち、毛が総毛立つ。
「何が『トモダチ』よ、ふざけんな! 笑って許してやるのが美徳でとでも思ってんの!? お前みたいな能天気なヤツ、虫酸が走る!」
「でも……、リル……」
雰囲気に圧倒され、リルは完全に萎縮していた。
耳と尻尾をしょんぼりと垂れさせ、眉は八の字に垂れ下がり、両手の指先をもじもじと合わせている。
私がこの猫獣人を挟んで、対峙しているのも拙かった。
位置的に抱き着いたり出来ないので、それが心細さを加速させていた。
「リル、私が悪かった。ごめんな……」
「お母さん……」
最初にリルを焚き付けたのは私だ。
逃げた盗人を指して、遊び相手だと誤認させる言い方をした。
それは悪意からリルを守りたい為に言った詭弁だったし、これまで教えていた『悪い人』を、これまで通りふわっとした感覚でいて欲しい為の言い訳だった。
リルが世の中の悪意と向き合うには、まだ早すぎる。
悪人には分かり易いチンピラだけではなく、もっと多くの……、『悪』に堕ちずにはいられなかった人種もいるのだ。
そして、そういった者達は大抵の場合、同情されるのを一番嫌う。
中には逆恨みと分かっていても、恨まずにいられない者もいた。
だが、正当性があるかなしかは、その外側に居ては分からないし、そして彼らは分かって貰おうとも思っていない。
非常に難しい問題だ。
だからこそ、そうした複雑な悪意を教えるのは、もっと先にしたいと思っていたのだが……。
真綿で包むような優しさが、今回は完全に裏目に出ていた。
とはいえ、こちらにはこちらの――リルにも事情はある。
「しかし、能天気と蔑むのは感心しないな。この子は、ただ親の愛を受けて、真っ当に育っただけだ」
「そうなんでしょうよ……。だから、あんな事が言える。苦労知らずで、明日のことに怯えなくて良い。今が幸せで、明日もそれが続くと疑ってない……!」
「それが気に食わなかったか」
「そうよ! 思い知らせてやりたかった! いつでも、どこでも、不幸は唐突に降ってくるんだって!」
リルは更にしゅんとして、真っ向からぶつけて来る悪意に顔を俯けた。
悪戯程度の悪意ならば、これまでもリルは受けて来ている。
モンティと最初に出会った時もそうだったし、妖精達のじゃれ合いにしてもそうだ。
しかし、ここまで苛烈に怒りを含んだ悪意を、リルは知らない。
怖くなって逃げ出したいのに、私が傍に居ないから抱け着きも出来ない。
言い返す言葉やその気概もないから、ただこの嵐が過ぎ去るのを待っているだけだった。
リルにとっては、余りに理不尽と感じる怒りだろう。
だが、優しさと愛に包まれた世界しか知らないリルにとって、返す言葉を思い付かないのは当然でもあった。
――余りに強烈な教訓になったな……。
私は心の中で、臍を噛む思いで悔やむ。
街に行く機会が増えれば、幾らでも森にはない悪意と遭遇する機会が増える。
それを知りつつ、リルにはまだ知って欲しくない、と思ったのは私の我儘だ。
そう、猫獣人の彼女が言う通り、不幸は唐突に降ってくる。
そして悪意というものは、いつだってその不幸を押し付けようと狙っているのだ。
「……お前、名は何と言う?」
「……何で教えないといけないわけ?」
「そう警戒しないで良い。報復を考えている訳じゃないからな。単に呼ぶ時、不便と思ったから訊いただけだ」
猫獣人はこちらを警戒し、睨み付けて来るだけだ。
住む所、生きる所が過酷なだけに、相応の警戒心を持っている。
そう簡単に漏らすつもりはないようだ。
「まぁ、いい……。ただ少し、礼を言おうと思っただけだ。リルにとって、良い勉強になった」
「勉強……? 何だよ、それ……」
「善意を向けても、誰であろうと同じ善意で返してくれないこと。捕まったのに悪びれることもなく、殊勝な態度も取れない奴もいるって事をな」
「ふざ……ッ!」
殴り掛かろうと一歩踏み込んできた猫獣人を、するりと横に躱して、代わりに軽く肩を押す。
それだけで容易くバランスを崩し、転んだだけでは飽き足らず、そのまま屋根から落ちてしまった。
「あ、しまった……。死んでないよな?」
獣人の中でも取り分け身軽な猫獣人だから、本気でそう思ったわけではないにしろ、下手すると骨折くらいはしている。
そして、治療を受けられない骨折は、冗談ではなく致命傷だ。
スラムにも闇癒者は居るが、当然料金は掛かるし、そのお金もなければ苦しみ抜いた上で死ぬだけだ。
それは流石に寝覚めが悪いので、私が原因の怪我くらいは治してやらないといけないだろう。
だがとりあえず、私は今もしゅんと項垂れているリルの傍に立ち、その身体を優しく抱き留めるのが先だった。
「リル、大丈夫?」
「だいじょぶ……だけど、なんか……かなしい。リル、なんかまちがってたのかな……」
「リルが間違ってた訳じゃないよ。間違ってたのはお母さんの方だ。さっきは悪い人って言ったけど、本当に全てが悪いのか、お母さんにも分からない」
そう言うと、リルはお腹に埋めていた顔を上げて、不思議そうに言った。
「お母さんにも? わからないコト、あるの?」
「あるよ、一杯ある。お母さんがちゃんと分かってれば、リルをこんなに悲しませることもなかった……」
「でも……。んぅ、うまくいえないけど……なんか、ちがうっておもう」
「そう? ……そうかもしれないな。でも、もっと上手く教える方法はあった」
悪意にも種類がある。
唾棄すべきものから、情状の酌量があるものまで、実に様々だ。
今の子の種類が、単なる嫉妬や羨望から来るものなら良いとしても、そこに重ねる悪意が過ぎれば問題となる。
「誰にでもね、幸せに生きる権利があるんだけど……。誰も彼もが幸せにはなれないんだ」
「どうして?」
「それが、お母さんにも分からない事の一つさ。どうしてなんだろうね……」
スラムに行き着く者の原因は、決して一つではない。
借金苦の場合もあれば、夫に死なれて未亡人となった場合もある。
子どもを養う為に、ギリギリの所で踏み留まっている事もあれば、犯罪に手を染めて、表で生きられなくなった場合もあるだろう。
欲望に負けて、自ら幸福を手放した者もいる筈だ。
自業自得としか言えないパターンもある。
あの子の場合は、年齢的に親の被害者だろうから、好きで犯罪に手を染めた訳ではないと思う。
リルから財布を奪った時、気配の隠し方も上手とは言えなかった。
獣人ゆえに天性のものがあったにしろ、その技術はお粗末だった。
初めてのことか、あるいは片手で数えられる程か――。
経験としては、それぐらいだろう。
そして、そこまで追い詰められたのだとすれば、実に憐れだった。
「でもとりあえず、今は落ちたあの子を追い掛けようか。怪我していたら可哀想だ」
「うん、リルもイヤ」
屋根の下では既に、ちょっとした騒ぎになっており、リルとやった追走劇の終着点として衆目を集めていた。
リルをその腕に抱いて、私も屋根の下へ降りる。
魔術などを使う必要もなく、着地時の体重移動と膝のバネで衝撃を逃がした。
そして、どうやら猫獣人に怪我はなかったらしい。
今にも逃げ出そうと、身体を屈めて飛び出そうとしている。
一先ず安心したものの、こちらの用事はまだ終わっていなかった。
私は手を伸ばし、空中で指先を閉じるようにして摘み、身体を浮かせて逃亡を阻止する。
「あっ!? ――なんだこれ!? くそっ、離せ!」
「そうはいかない。まだこちらの話は終わってないからな」
「誰か、助けて!」
スラムの住人は誰もが協力的という訳ではないが、外部の者を嫌う傾向にある。
勝手に入り込んで来た者には、大抵容赦がないものだ。
それを期待しての呼び掛けだったのだろうが、遠巻きに見つめるだけで、誰も助けようとしなかった。
それも当然だろう。
先程までとは事情が違う。
逃げてる最中は呼び掛けに呼応した者も、今では私を前に尻込みしている。
魔術士を相手に喧嘩を売ったらどうなるか……。
少し考えれば分かることだ。
「おい、どうする……」
「いや、ムリだろ。ヘマした方が悪い。逃げ切れたんならともかく、捕まっちまったらなぁ……」
「どっちにしろ止めとけ。俺ぁ知ってる。あれ、エルトークスの奴らが見張ってる女だ」
「目ぇ付けられてるのか? 何やらかしたんだ」
「そうじゃねぇ、逆だ。他の馬鹿が絡んでいけないように、近づこうとする奴を、事前に追い払おうってんだよ」
「何だかそれじゃ、姫君の扱いじゃねぇか。マジェンダはそんなのに手を出したのか? やべぇだろ……」
なるほど、この娘はマジェンダと言うのか。
やはり狭いコミュニティに住むだけあって、大抵の者とは顔見知りになるものらしい。
そして、空中で掴まれ、最初は逃げ出そうと藻掻いていた彼女も、周囲の声を聞くに連れ、顔を青くさせていった。
今では抵抗する様子もなく、死刑宣告を受ける罪人の様にも見える。
エルトークスはこの街の裏を牛耳っているだけあって、スラムの人間にとっても恐ろしい存在だった。
諍いが生まれたら、それを仲裁したり場を収めるのがエルトークス商会だし、治安の維持に一役も二役も買っている。
理不尽な目に遭ったり、非道な暴力の犠牲者が出た場合、治癒代金を持ってくれることさえある。
彼らスラムの住人にとって、エルトークスは貴族よりも恐ろしく、そして頼りになる存在なのだ。
「あの……アタシ、知らなくて……」
「そうだろうな。知っていたら、やる筈がない。実際、上手くエルトークスを出し抜いた形だし、顔を潰した事にもなる」
「そんな、そんなつもりじゃ……」
「お母さん……」
リルが私の腕の中で、悲しげに顔を歪めた。
その表情を見れば、酷い事にはしないで、と言っているのは明らかだ。
私は安心させるように微笑んで、それから魔術を解除してマジェンダを地面に落とした。