マジェンダは拘束から解き放たれ落とされた後、すぐに立ち上がろうとはしなかった。
震えた身体で周囲を見回し、様子を窺っている。
彼女は明らかに、周囲から何を思われているかを恐れていて、許しを請う様な視線を向けていた。
それも仕方がない。
スラムでは一種の不文律が、強固な戒めとして形作っている。
スラムで生きる者同士、協力しなければ生きていけず、彼らから見捨てられたら、明日の食い扶持にすら困るだろう。
そしてどう見ても、今回の一件でマジェンダは、手を出してはいけない相手を対象とした。
それに巻き込まれるのは誰もが御免だと考えるし、そうとなれば、結果は見えた様なものだった。
マジェンダはまだ十二歳前後に見えるし、栄養がろくに取れていないからか、身体は非常に細い。
発育が悪いのはどうしようもなく、だからもしかすると、もう少し年上なのかもしれなかった。
私はとりあえず、マジェンダに声を掛けようとしたのだが、その時、周囲が俄に騒がしくなる。
人垣の一部が押し合い
怒鳴る声も聞こえて、その声に押されるようにして割れると、そこからは見慣れた顔が姿を現した。
「おい、退け! 退けってんだ、テメェら! 通れねぇだろうが!」
「……ボレホか」
「姐さん……! あぁ、くそっ……! 最悪だ……!」
私の目付け役として貧乏くじを引かされていた男が、頭を掻き毟って吠えた。
「テメェ、何してくれてんだ! 誰に手ェだしたのか、分かってんだろうな!?」
「う……、ぁぅ……!」
マジェンダは声もろくに出せない。
ただ震え、涙目でボレホを見返すだけだった。
しかし、私が何者かなど知らなかったのは明白で、先程口にした言い訳も事実だったろう。
エルトークスが全力で気に掛ける相手を、スラムの住人が粉を掛けるなど、本来するべきではないのだ。
その時、少し遅れてボレホの取り巻きがやって来た。
スラムの住人達をこの場から遠ざけ様としているのだが、この状況の成り行きを見たい者などが抵抗している。
「ボスに何て報告したら……! いや、その前に!」
ボレホは頭から手を離して、周りの野次馬達を睨み付け、唾を飛ばす勢いでまくし立てた。
「えぇい、散れ、お前ら! 散らねぇか! 散らねぇってんなら、この責任を今いる全員に回してやっても良いんだぞ!?」
そう言われたら、彼らも暢気に見ていられない。
粟を食った様に走り出し、あっという間に三々五々へと散って行った。
しかし、その中で、むしろ逆にこちらへ迫って来る者もいる。
まだ小さな少年で、マジェンダと同じく黒髪の猫獣人だった。
「やめろぉぉ……!」
恐らく、年齡は十歳未満。
身長だけ見るとリルとそう変わらない様だが、痩せぎすな上に肋骨が浮いている。
栄養状態は最悪で、髪や肌の汚れ、襤褸の様な衣服まで、マジェンダと良く似通っていた。
姉という言葉を出さずとも、それが姉弟だとすぐに分かる風体をしていた。
「やめろ! 姉ちゃんをイジメるな!」
「ジャムス! やめな、来るんじゃない!」
マジェンダは咄嗟に止めたが、ジェムスと呼ばれた小さな男の子は、むしろ勢いを強めて駆けてきた。
そうして、マジェンダの前に立ち塞がり、両手を広げて彼女を庇った。
「姉ちゃんは悪くない! 姉ちゃんをイジメるな!」
「悪くねぇわきゃねぇだろッ、このガキ! テメェの姉貴が何したか、オメェ分かってねぇだけだ!」
「知るもんか! 姉ちゃんは悪くないんだ!」
「ガキはこれだから……!」
ボレホは唾を吐いて一歩踏み出し、拳を振り上げようとする。
だが、その前にマジェンダが逆に、ジャムスを抱きしめて胸の内へ庇った。
「この子は何も分かってないんだ、それだけなんだ! 許してやって! 謝るから!」
「謝るだけで済んだらなぁ……! それで済んだら、俺だってこんな事しちゃいねぇよ! だがよ、手を出しちゃいけねぇ相手ってのはいるんだ! ケジメを付けなきゃいけねぇ相手ってのがな!」
いつだか見たボレホを見れば、子ども好きなのだと分かる。
実際に兄弟を持っていそうだし、近所の子どもの面倒を、頻繁に見ていたりしているのかもしれない。
だから、この幼い兄弟に、何等かの処罰を加えるのは、きっと不本意なのだろう。
だが、今言ったように、怒らせてはいけない相手という者がいる。
私を離れて護衛しているのも、その怒りをエルトークス商会に向けさせない為だ。
リルの一件があったから、尚の事それについてはナーバスになっている。
だというのに、今回また、そのリルを中心として被害に遭ったのだ。
スラムはエルトークスの管轄だ。
そこで起こした問題は、当然エルトークスの責任という事になる。
私からの怒りを少しでも抑える為には、見せしめだって必要だと考えるだろう。
だが、その時リルが、私の腕の中で不安気に声を上げた。
その視線を見れば、どうして欲しいかなど明らかだった。
「お母さん……」
「大丈夫、お母さんに任せておきなさい」
元から私は、大袈裟な事にしようなどと考えていなかった。
そのつもりがあったら、リルに追い掛けさせるより早く、自ら捕獲している。
リルから財布を奪い取った時点で身柄を拘束し、さっきやった様に空中で固定させていただろう。
リルに学びを与えるつもりでの打算だったが――。
より大事になってしまって、反省しているぐらいだった。
一応考えた結果だったが、文字の読み書きの様には上手くいかない。
予定通りの着地点にならず、人が絡むと予想外の方向に傾くという良い見本になってしまった。
「……なぁ、ボレホ」
「はいッ、姐さん!」
私がそろりと声を掛ければ、ボレホは背筋を正して拳を下ろす。
後ろにいた取り巻き達も同様で、肩を上げた、少し不自然な体勢で直立した。
「この件で、私は問題を大きくしたくないんだ。それにまだ幼い、子どものやった事だ。そう煩く言う必要もないだろう」
「しかし……」
「勿論、そちらの不手際だと言うつもりもない。別に殴り込みにも行かないし、お前達はよくやってくれた、と申し伝えてやっても良い」
「え、そうなんスか……?」
自分達に飛び火しないと分かれば、途端に態度が軟化した。
現金なものだが、ボレホなり、エルトークスが躍起になったのは、実際にそれが理由なので、根っこを取り除いてしまえばこんなものだ。
「盗まれた物も取り返したしな。だから後は、こっちとこの子……マジェンダとの問題だな」
「ってこたぁ、一切関与しなくて良いし、させるつもりもないって事で……?」
「そう言ってる」
私が断言すると、ボレホは大きく安堵の息を吐く。
そうすると、後ろの取り巻き達に手を振って、一足先に帰らせた。
「そういう事でしたら……。それじゃあ、俺らもこの辺で……」
ペコペコと頭を下げて去ろうとした時、私はその背に声を掛ける。
「いや、ちょっと待て」
ビクリと硬直し、立ち止まったボレホは、魔獣の存在でも確かめるように振り向いた。
「何でしょう……?」
「お前達の尾行は、余りにもお粗末過ぎるな。もうちょっと、どうにかしろ」
「あぁ、えぇ……はい。すんません……」
「陰ながらって意図は理解できるが、それで出し抜かれてちゃ仕方ないだろ。……実際、このマジェンダって子は、見るべき所があるけどな」
「いや、俺は素人なもんで……」
そうだろうな、という感想しか出てこない。
彼らは別に要人警護など、そうした職業には付いていなかった。
商会の会頭を守ったりはするが、周囲を威嚇し、威圧するのが主な仕事だから、荒事に長けてはいても、尾行めいた仕事は下手くそなのだ。
私がシッシと手を振ると、ボレホは大きく腰を曲げ、一礼して逃げる様に去る。
そうして後には、今も変わらず威嚇する小さな騎士と、その姉が残された。
他には誰も居らず、ジャムスを掻き抱いたマジェンダは、必死に頭を下げる。
「ごめんよ、弟は悪くないんだ! まだ分別が付いてないだけで、アタシの方から良く言い聞かせておくから!」
「分かってる。まさに、そんな感じだな」
私が苦笑しながら言うと、そこで初めてマジェンダは顔を上げた。
そして、そこに僅かながらの期待が浮かんでいた。
このまま無事に帰してくれるかも、と希望の瞳を向けている。
私はリルを腕から下ろし、視線を合わせやすくしてやってから続けた。
「最初に言ったように、大袈裟にするつもりはなかった。ただ財布を取り戻したいだけだったし、それにきちんと謝らせるつもりで追い掛けた」
「謝らせる……?」
困惑して眉根を寄せたマジェンダに、リルが笑って頷いた。
「お母さんね、ワルいことしたら、ちゃんとゴメンなさい、しなさいって、いつもいうよ。それでね、ちゃんとあやまったら、いっぱいほめてくれるの」
「謝る……か」
「姉ちゃんは悪くない!」
尚も言い募るジャムスを、流石にマジェンダは叱りつけた。
「こんな時に、そんなこと言うんじゃないの! 謝ったら許してくれるって言うんなら、幾らでも謝るさ!」
「そうだ、それが常識だ。そして、それが最低限の礼儀だ」
リルの学びとして、最低限何か得るものがなければ、ここまでした意味もない。
想定とは大分違った方向へ行ってしまったが、リルが自分だけではなく、他の誰もが悪いことをしたら謝るもの、と認識してくれたら嬉しい。
だが、それでも尚、ジャムスは頑ななまでに言い募った。
「姉ちゃんは悪くないんだ! 悪くない!」