「そこで最初の頼み事に戻るんだが……。押印係に雇う子ども達を、スラムから選べないか?」
「スラムから……?」
夢想から唐突に呼び戻されたベントリーは、その聞かされた単語を、訝しげに繰り返した。
「子どもだけと言わず、働ける者、その意欲のある者を選んでも良いんだが……」
「何故です? リスクがあるだけで、メリットなんて無いでしょう?」
ベントリーの言い分は、雇用主として当然の感想でしかなかった。
スラムに暮らす者その全てが犯罪者とは言わないが、そうでない地域で暮らす者より格段に多い。
育ちの悪さは態度にも出て、それが勤労意欲にも出る可能性がある。
単に意欲がないだけなら、歩合制にすれば解決する問題かもしれないが、いずれにしても工場内の治安について懸念は残った。
「わざわざ、スラムから選ぶ理由が見当たりませんな。どうして、また?」
「リルに頼まれたからな」
そう言って、今も大人しく私達の会話を聞くリルの頭を撫でた。
耳を畳む様に撫でてやれば、嬉しそうに頭を差し出して甘えてきた。
「今日、予想外にスラムへ行く事があった。そこで見た現実に、リルは憐れみを覚えた。犯罪せずして生きていけない、その現実を嘆いた」
「……ふむ」
「私はこの子の願いを叶えてやりたいと思う。生きて行くのに、犯罪に手を染めないといけないと言うのなら、そうでない生き方を与えてやりたい」
「慈善事業に目覚めましたかな?」
それは揶揄でも皮肉でもない、単純な疑問として発せられた問いだった。
だが勿論、私は慈善などという気持ちは持ち合わせていない。
「リルがそう望んだからな。動機としては、そんな所だ」
「うぅむ……。貴女様に何かして貰いたかったら、リル様に願う方が早そうですな」
それはほんの軽口、思い付きで発せられた言葉だった。
まさか本気とは思わないが、本気にする前に釘を刺しておく必要がある。
「確かに私を動かすなら、リルを使うのが確実だろうな。だが、リルを利用する輩を、私は決して許さないだろう」
「心得ておりますよ」
ベントリーは腹を揺らしてポンと叩き、それから優しげな視線をリルに送った。
「貴女様の唯一の弱点……、そう捉える者もいるやもしれませんが……。よく知る者からすれば、逆鱗であるとも承知しています。迂闊に手を出す恐ろしさは、以前のエルトークスを見れば一目瞭然でしょう。私も店を破壊されながら、首根っこ掴まれたくないですからな」
そう言って、もう一度笑った。
ベントリーを重用するのは、正にこういう所だ。
商人らしい欲を持ちつつ、そして線引きというのを見誤らない。
それもまた、一流と呼べる商人の持つ、資質というものかもしれなかった。
「お前が理解してくれて嬉しい。そういう訳で……あぁ、そうそう。エルトークスもこれに一枚、噛ませよう。スラムの人間を用いるなら、奴らが良い番犬として活用できるだろう」
「ふむ……、確かにそれならば、スラムの人間を使うリスクも低減できるでしょうな。貴女様の名前を使わせて戴いても?」
「そうでなくば、纏まるものも纏まらないだろう。お前の主導で始める事業だ。下手をすると、要求が大きくなり過ぎ兼ねない」
「手綱取りには苦労させられそうですな。しかし、上手く行けばスラムの治安改善、犯罪率の低下など、問題が一気に解決しそうです」
「それが狙いだよ」
ベントリーは腹を叩いて揺らし、愉快そうに笑った。
「いやはや……! 弱者救済に保護、そして改善ですか。まるで為政者の振る舞いですな。いっそ、目指してみては?」
「それこそ愉快な冗談だ。私はこの子に言われるまで、そんな事が一切、頭に浮かばなかった人間だ」
そう言って、リルの頭から手を離し、その柔らかな頬を親指の腹で撫でる。
「この子が言い出さなければ、それら一切、やろうとしなかった」
「ねぇ、もうだいじょぶそう? マジェンダとか、もうワルいコトしなくて、すむかな?」
「明日すぐにどうこう、というのは無理だろうけどね。でも、急いで整えさせれば、そう遠くなく普通に暮らせる様になるだろう」
「うんっ!」
リルが笑って身体を寄せ甘えて来る。
私はリルを抱き寄せ、子ども特有の高い体温を感じながら、ベントリーへと顔を向けた。
「そういう訳だから、錬金術士の調達など、細かい調整は任せる」
「大仕事ですな。今ある仕事を片付けなければ、すぐには……」
「じゃあ、エルトークスに話を通したり、そっち経由で錬金術士を探させたり、出来る事はやっておこう」
「助かります。……ですが、よろしいのですか?」
「構わないさ。今にも飢餓で倒れそうな子どもが居るとならば、尚の事な」
ベントリーは深く頷き、それから真剣味を増した顔でずい、と前に出る。
「お話が順調なのは結構な事ですが、重大な事がまだ決まっておりませんぞ」
「……他に? 何だろう?」
「取り分です。利益のどれ程を貴女の取り分とし、私の取り分とするか。エルトークスを噛ませるなら、そちらにも配分が必要でしょう。細かな調整が必要かと思います」
「そうだな……。任せる」
「……は?」
思案する素振りは一瞬だけで、素っ気なく返答した私に、ベントリーは目を丸くさせた。
完全に虚を突かれた顔で、ぽかんと口を開けている。
「ここから先は、お前の交渉能力を頼る事になる。人員の手配、ギルドへの根回し、そこに関わる政治的配慮、考え出せば問題に切りがない。私の取り分については、その報酬と思ってくれ」
「では……。では、利益の多くを、私に譲るという事に? 試験紙のレシピだけでも、上手く立ち回れば莫大な利益を生みますよ。わざわざ、こんな面倒事を抱え込まなければ……」
「だが、そうするともう決めてしまっているんだ。救済というのは、実に難しく……そして、胡乱だ。本当に救いたいと思ったら、単純な施しだけで終われない」
そう言って、私は腰に抱き着き頬を胸に当てたリルを、優しく撫でた。
見上げる視線を一直線に合わせ、諭す様に言う。
「飢えた者、病んだ者に、欲する物を与えただけでは、一時しのぎにしかならないんだ。また腹を空かせ時……また病んだ時、その者達は嘆く事しか出来なくなる」
「そうかも……」
「パンと薬を与えるだけが、助ける事じゃないんだ。パンと薬を買える様、生活を整えてやることが、本当の救けになるんだよ」
「でも、でも……」
リルは納得を示しつつ、それでも消化できない悩みを吐露する様に言う。
「でも、いまは? あしたとかは? おなかすいて、ないちゃうかも……。いつまでガマンすればいいの?」
「うん、それも確かに問題だね。そこまで考えられるなんて、偉い子だ」
私はリルの頭を一層強く撫でる。
しかし、はぐらかされた様に感じたのか、リルはより強い視線で見上げて来た。
「どうしたらいいのかなぁ」
「一番現実的なのは、炊き出しだろう。食べる物を、こちらで用意してやるんだ」
「え、でもさっきは……?」
「うん、だからそれだけで済ませちゃいけない、って話だね。受け取るだけに慣れるとね、自分の生活と命を他人に預ける事にも慣れてしまう。自分の生きる権利の、一番大事な部分を他人に握られるのは、とっても怖いことなんだよ」
「じゃあ、リルも? リルもお母さんに、にぎられてる?」
不思議そうに見上げるリルに、私は手を身体に回して強く抱きしめた。
「それはちょっと違うな。子どもはね、親から無条件に愛される権利があるんだ。それは生きる権利を親に委ねているんだけで、握られているのとは違う。本当は誰もが、そうやって生きられるべきなんだろうが……」
国や領の運営がお粗末だと、その皺寄せは弱者に渡る。
本来はそうやって生きられる土台を、国が提供出来ていなければならなかった。
だが、どれだけの賢君が治める国だろうと、全てが上手く行く事などそうないものだ。
溢れたものを、どれだけ多く掬い上げられるか、そこが重要だ。
しかし国難に対し、そうした弱者救済は、優先度を下げられるのも事実だった。
「人はね、他人の事に関心がないんだ。助ける者に限りがあるなら、自分の親しい者から順に選ぶ。だから、そうでない人に気持ちを向けられるのは、実は凄いことなんだ。リルがそういう子であって、私も嬉しい」
「ほんとう? リル、お母さんにヒドイこと言っちゃった……」
「いいや、リルは正しいことを言ったんだ。でも、いつだって正しいことをするには、その為の力がいる。正しいことをしたいなら、いつか正しい力を身に付けなさい」
「んぅ……、でも……どうやって? けん、ふってたらいい?」
純朴の願いの中に、リルの苦悩が見て取れた。
リルは真剣だが、そうした力を身に付けるには幼すぎ、そして今はそこまで考えるべきではなかった。
「今はね、まだいいんだ。リルは守られて当然の年齡だからね。頭の片隅に、将来正しく力を得て、振るえる様に考えていれば良い……」
私が抱き締めれば、リルからもぎゅうぎゅうと強く抱き返された。
その背中に手を添え、リルに向ける愛が正しく伝わるよう、祈りながら撫でた。